屋根裏の勉強部屋


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【芭蕉の西国行脚の夢】  尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一 http://basho-okunohosomichi.net/23SaigokuAngyanoYume.html

元禄七年(一六九四)のいわゆる芭蕉最後の旅では、大坂からさらに西国への行脚の意向をもっていたことが、二、三の資料から推定されている。
たとえば元禄十年刊の『陸奥鵆 (むつちどり)』の著者天野桃隣(あまのとうりん)によれば、
芭蕉は江戸を発つとき「又戌(いぬ)五月八日、此度は西国にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴(ききなれ)ぬ人の詞も聞(きか)ん」ことを願っていたという。
後代の闌更(らんこう)の編んだ『蕉翁消息集』のなかには、金沢の立花北枝にその同行を求めていたといったことを書いた書簡内容の矛盾からみて明らかに偽簡とみられるものも収録されている。
ただ、晩年の門人野坡 (やば)が『草の道』の序文に「先師蕉翁は生涯風に吹かれ、雲にさそはれ奥羽に杖を荷ひ、(中略)されど須磨・明石より西は道祖神のいさめもなく、
又はいささかの衰病にひきすゑられし事を、本意なきなど、折々は聞え給ふ」と記しているように結局のところ、その杖は須磨・明石から西には及ばなかったのであった。
しかし、辞世吟に準じられる「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」には、筑紫の野を行脚する芭蕉自身の旅姿もイメージされていたのかもしれない。
その筑紫への夢は、各務支考(かがみしこう)ら門人たちによって、やがて叶(かな)えられるのであった。



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俳諧
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俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。
正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。
松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多く行われるようになり、明治時代に成立した俳句の源流となる。
時に作者個人の創作たる発句を完全に独立させた近代文芸の俳句と同一視される。
専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。 江戸期においては専業のいわゆる「業俳」が俳諧師と呼ばれていた。 本業があって趣味として俳諧を楽しむ人は「遊俳」と呼ばれ、遊俳は俳諧師とは呼ばれない。


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俳句の歴史
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「俳諧」の元の意味は「滑稽」「戯れ」といった意味がある。『古今和歌集』に集められた滑稽な和歌は「誹諧歌」と呼ばれていた。
室町時代に、和歌の連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が、「俳諧連歌」、もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれ、栄えた。
連歌の傍流といった位置づけであったが、山崎宗鑑らによって大いに栄えた。

俳諧連歌は江戸時代に入ると松永貞徳によって大成された。
貞徳の一門による俳諧連歌は「貞門派」と呼ばれ一時代を築き、堅苦しい正統の連歌をしのぐ程の人気を誇った。

しかしやがて貞徳らによるそれまでの「古風」に対して新しい表現「新風」が現れて貞門の地位を奪った。
新風は「談林派」と呼ばれ、連歌師でもあった西山宗因を筆頭に、浮世草子を成立させた井原西鶴らが参画していた。

談林派が十年ほどの短い最盛期を終えると、その後には松尾芭蕉があらわれ、「蕉風」と呼ばれる作風を示した。

貞門派の「詞付」、談林派の「心付」に対して、蕉風は「匂付」と評された。

芭蕉没後しばらくは付け句の技巧を競う川柳を中心に雑俳が栄えたが、中興の祖である与謝蕪村らによってふたたび活気を取り戻した。

江戸時代末期には小林一茶の活躍が見られた。

江戸時代を通じて俳諧は連句形式が主流であり、発句のみを鑑賞することがあっても変わらなかった。
しかし明治時代になると、正岡子規によって、従来の座の文芸たる俳諧連歌から発句を独立させた個人の文芸として、近代の俳句が確立された。
俳句の成立以降は、伝統的な座の文芸たる連歌の俳諧を近代文芸として行うとき、俳句とは区別するためこれを連句と呼ぶようになった。



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山崎宗鑑に始まり、貞門、談林、蕉風 と続く流れ。
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山崎宗鑑 やまざきそうかん
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生年: 生年不詳、没年: 天文8〜10? (1539〜41)
室町後期の連歌師・俳人。俳諧撰集の先駆的な位置を占める「新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゆう)(「誹諧連歌抄」)」の撰者。後世、荒木田守武とともに俳諧の祖と仰がれた。

室町時代の俳諧作者。山崎姓は山城国(京都府)山崎に住んでいたことによる通称。通説に,近江国(滋賀県)出身で俗名を志那弥三郎範重,室町幕府将軍足利義尚に仕えた,また讃岐国(香川県)興昌寺に没したとするのには確たる根拠がない。長享2(1488)年摂津の能勢頼則興行の千句にその名がみえ,連歌師を職としたらしい。
一休宗純に参禅,また宗鑑流と称される能書家で,人々の依頼を受けて数々の古典を書写している。
さらに当時言捨て(正式に書きとめない句)であった俳諧付合を収集して『犬筑波集』(古くは『俳諧連歌抄』と呼ばれた)を編み,自らも俳諧連歌に巧みで,「追ひ付かん追ひ付かんとや思ふらん」に「高野聖のあとの槍持ち」と付け,前句の「追ひ付く」を同音の「笈(高野聖が背負う箱)突く」に転じてみせるなど,その機知は冴えている。
『犬筑波集』の俳諧は,高踏的な連歌に対し,庶民世界を面白く詠みあげており,近世俳諧の先駆をなすものであった。
江戸時代には荒木田守武と並んで俳諧の鼻祖と称えられ,その奔放な滑稽世界にふさわしい,反俗,洒脱,清貧の隠者のイメージに作り上げられた。


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貞門派
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貞門派とは,松永貞徳によって指導された俳諧の流派で,1650年頃京都を中心に俳壇を支配し, 幕末まで影響を持った。
和歌・連歌に用いられない俳言(俗語・漢語)を読み込むことを特徴としたが,縁語・掛けことば等の言語遊戯に終始する結果となり,やがて談林派に勢力を奪われた。
平易・滑稽な文芸様式で一般庶民に俳諧を広め俳諧の独立を最初に築いたものと言える。季吟,重頼,貞室,梅盛等が代表作家である。


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西山宗因 にしやま‐そういん
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[1605〜1682]江戸前期の連歌師・俳人。談林派の祖。肥後の人。名は豊一(とよかず)。別号、西翁・梅翁など。里村昌琢に連歌を学び、主家加藤侯没落後、大坂天満宮の連歌所宗匠となった。
俳諧では自由軽妙な談林俳諧を興し、門下に井原西鶴などを輩出。


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 松尾芭蕉   
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寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)。
江戸時代前期の俳諧師。
北村季吟門下。



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宝井 其角   たからい きかく
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寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。
江戸時代前期の俳諧師。

江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。
蕉門十哲の第一の門弟と言われている。
芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾?園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある。
宝永4年(1707年)、永年の飲酒が祟ってか47歳の若さで亡くなっている。

人物評 [編集]芭蕉とは違い、酒を好み作風は派手で、平明かつ口語調の洒落風を起こした。
しかし、博覧強記の其角であるが故に、句の解釈に取り掛かろうとすれば、その中に隠された難解さに驚かされる。

去来抄中の以下の逸話が、芭蕉による其角観をよく物語っている。
切られたるゆめはまことかのみのあと  其角
去來曰く「其角は誠に作者にて侍る。わずかに、のみの喰ひつきたる事、たれかかくは謂ひつくさん」。先師曰く「しかり。かれは定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る、ときこへし評に似たり」。
(現代語訳)
「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけの事を、誰がここまで言い尽くせるでしょう」と向井去来がいうと、芭蕉が応えて、「確かに。彼は藤原定家卿だよ。ちょっとしたことを、大げさに表現する(=修辞が巧みである)と評されたのに似ているね」と言った。

また、芭蕉がライバル視していた井原西鶴とも交際し、生涯に2度、西鶴を訪ねて上方に行っている。
其角の逸話の一つとして、赤穂浪士討ち入り前夜、四十七士の一人・大高源五と会い、はなむけに「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるる その宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる(忠臣蔵の外伝『松浦の太鼓』)。
これについて作家の丸谷才一は、渋好みの蕉門でも、酒に弱くて感激家の其角が、芝居仕立ての人物として江戸っ子にあたったのだろうと解している。



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上島 鬼貫 うえしま おにつら
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万治4年4月4日(1661年5月2日) - 元文3年8月2日(1738年9月15日)
江戸時代中期の俳諧師。
摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)でも有数の酒造業者・上島宗次(屋号・油谷)の三男として生まれた。
幼名は竹松。幼少の頃より俳諧に馴染んだ。13歳で松江重頼(維舟)に入門する。その後、西山宗因の談林派に入門する。
25歳で医学を志し大坂に出る。やがて仕官を求めて、筑後国三池藩や大和国郡山藩、越前国大野藩などに出仕し勘定職や京都留守居役を担当した。
蕉門の広瀬惟然や八十村路通などとも親交があり、彼らを通じ松尾芭蕉とも親交を持つようになる。作風に芭蕉の影響を少なからず受けた。
享保3年(1718年)『獨言(ひとりごと)』を刊行した。その中で「まことの外に俳諧なし」と述べるに至り、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称された。
元文3年(1738年)大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)にて死去。享年78。墓所は大阪市天王寺区の鳳林寺、伊丹市の墨染寺。


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与謝蕪村  
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享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))
江戸時代中期の日本の俳人、画家。
摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれ。丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち,与謝の姓を名乗る。
早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。俳諧はいわば余技であり,俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく,趣味や教養を同じくする者同士の高雅な遊びに終始した。
死後松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが,生き方にならおうとはしなかった。
芝居好きで,役者や作者とも個人的な付き合いがあり,自分の家で人に知られないようにこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話がある。
小糸という芸妓とは深い関係があったらしく,門人の樋口道立 から意見をされて「よしなき風流,老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。
彼が故郷を出たのは何か特殊な事情があるらしく,郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後も故郷に帰った形跡はまったくない。<






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俳人
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岡井省二(おかい・しょうじ) :

〔本名、省二(せいじ)〕・1925(大正14)
・11・26−2001(平成13)・9・23(75歳)
・三重県度会郡生
・大阪大医学部、内科医
・「晨」辞退、「槐」創刊主宰
・『明野』『鹿野』『山色』『有時』『五劫集』『夏炉』『前後』『猩々』『鯨と犀』『鯛の鯛』『大日』

<大日や年の天狼(シリウス)海の上>
<大西日恒河(がんが)を牛の帰るころ>
<たとへなきへだたりに鹿夏に入る>


1996.9 "塊"主宰者岡井省二先生句碑建立
京都宇治西国十番札所三室戸寺(通称あじさい寺)参道
『あぢさゐの色をあつめて虚空とす』

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岡井省二の世界  霊性と智慧2001    岡井省二(おかい・しょうじ)監修・著 北宋社
   いい作品は、それを知れると知らざるとにかかわらず、霊性を具備している。霊性は言葉として湧現したときはじめて霊性であり、言葉の一表現体である俳句にとってもまた必須の条件である。岡井省二の俳句世界に触れる。

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槐庵俳語集       岡井省二(おかい・しょうじ)著 朝日新聞社
   俳句の本質、表現にかかわる透明かつ平明な俳語と選評を、宇宙の真理・気によって具体的に示す。1984年より7年間の『晨』における選評、および91年『槐』創刊・主宰以後7年半の選評の集成。

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加藤楸邨 : 明治38年(1905)〜平成5年(1993) 東京市(東京都)生まれ。父が鉄道勤務だったため、各地を転々とし、父の病気や死により、弟妹を抱えて20歳前後まで生活の労苦を強いられました。21歳で東京高師臨時教員養成所国語漢文科に入学し、卒業後の昭和4年(1929)に県立粕壁中学校(春日部高等学校)に赴任しました。同6年(1931)頃から同僚に勧められて俳句を作り始めました。このころ水原秋桜子を知り師事し、「馬酔木」に投句するようになりました。自分と同じく短歌から俳句に入った秋桜子に共感し、抒情と詠嘆に富んだ句風から出発しました。秋桜子は「馬酔木」に「自然の真と文芸上の真」を発表して、反虚子を宣言し、俳壇革新のために孤軍奮闘していました。 実生活の楸邨は、昭和4年(1929)に矢野チヨセと結婚し、翌年長女をもうけ、次女は失ったものの、長男、次男の3児の父になりました。教え子の家庭の生活苦に同情を寄せるなど教師の顔を多く見せました。この時期の句は、後に出版された「寒雷」の中の「古利根抄」に多く収録されています。昭和12年(1937)、教員生活の行き詰まりと文学上の焦燥から脱するため上京し、「馬酔木」発行所に勤めながら東京文理科大学国文科へ入学し、その後、句風は馬酔木調から脱し、内面的苦悩を表現しようとする「人間探求派」へ移りました。昭和15年(1940)「寒雷」を創刊主宰し、その中で金子兜太ら俊秀が多く育ちました。句集に「雪後の天」「野哭」「まぼろしの鹿」ほかがあり、「加藤楸邨全集」全14巻が発行されています。
東京に生まれ、父が国鉄勤務の為、小学校から中学にかけて、東京、東北、北陸の各地を転々とします。昭和4年、東京高師を卒業し、粕壁中学に奉職し、6年頃同僚に誘われて俳句を始めます。昭和15年には主宰誌「寒雷」が創刊され、今日におよんでいます。昭和28年〜41年の作品を収めている第10句集「まぼろしの鹿」(昭和42年)によって、昭和43年第2回蛇笏賞を受賞します。いわゆる人間探求派として中村草田男らと共に、人間の内面の表現追求を生涯つづけました。
明治以降、俳句は正岡子規を中心に展開していたが、その弟子高浜虚子(花鳥諷詠))水原秋桜子(心象)が対立、切磋琢磨していた。楸邨は秋桜子に師事して結社馬酔木に寄っていたがその耽美主義ついていけず、内面の懊悩を深めていた。後寒雷により。その後昭和16年に隠岐を訪ね。俳句開眼の端緒を得たという。人間探求派の中村草田男や石田波卿とともに今日なお高い評価が寄せられており、自然諷詠にあきた俳句つくりの面々がしきりに惹かれている。

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森 澄雄 : 大正八年(1919年):兵庫県生まれ。5歳から長崎市に移る。昭和15年:「寒雷」創刊と共に、加藤 楸邨に師事。 九州帝国大学卒業後、19年兵士としてボルネオへ。昭和21年:復員。結婚後、上京して52年まで東京都豊島高校の教員を務める。昭和25年:「寒雷」同人になり、32年から46年まで編集長。昭和45年:「杉」を創刊・主宰する。昭和53年:「鯉素」で読売文学賞。昭和62年:蛇笏賞を受賞。平成9年:恩賜賞・日本芸術院賞受賞。平成11年:毎日芸術賞受賞。

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岡井省二
省二は、多くの人から難解さを指摘される俳人である。日常の言語の約束では、その作品が必ずしも十分に理解できないからであろう。無理に読みと取ろうとすると、そこに提示されているものが歪んでしまう。それが難解さと映るのだ。では省二が提示しているものとは何か。それは、省二自身の精神のありよう。それを直接的に記述したものが彼の作品である。だから本来、けっして難解ではないのだ。解釈が容易だということではない。むしろ、解釈という方法は有効ではない。直接自身を触れさせること。省二作品に向かうとき、重要なのはこのことだと思う。

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金子兜太 : 1919年、埼玉県生まれ。東京大学経済学部卒、1943年、日本銀行に入行。すぐに退職して海軍経理学校に入校。翌年トラック島へ赴任。46年に復員、日本銀行に復職。句作をはじめたのは旧制水戸高校在学中。大学時代、加藤楸邨が主宰する俳誌『寒雷』に投句をはじめ、俳句との本格的なかかわりをもつ。62年、俳句誌『海程』創刊、現在にいたるまで新しい俳句への視点を提案しつづけている。83年より現代俳句協会会長。代表句に「人体冷えて東北白い花盛り」「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」など。
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大峯あきら :
本名、大峯顕。昭和4年7月1日生まれ。「晨」代表同人。毎日俳壇選者。大阪大学名誉教授。放送大学客員教授

大峯あきら(おおみね・あきら)
1929(昭和4)・7・1〜・奈良生れ・「晨」代表。・『吉野』『夏の峠』『宇宙塾』
元日の白雪すみやかに通る。
若き日の母の思い出漱石忌。
村々につちふってゐる大和かな。

大峯顕(おおみね あきら、1929年生まれ)は、日本の哲学者、浄土真宗僧侶、俳人。俳号大峯あきら。大阪大学名誉教授、龍谷大学教授。中期フィヒテ研究・西田幾多郎研究で知られる。

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石田波郷

泉への道後(おく)れゆく安けさよ

句集『春嵐』所収。昭和27年作。波郷は、昭和25年、「私は排
菌のまま退所して江東に帰ってきた」と述べている通り、治療半ば
で退院をした。理由は、主に経済的とされている。退院後、気管支
カタルでたびたび高熱が出たが、旅もしている。その初めの旅とし
て、昭和27年夏、水原秋桜子とともに、軽井沢の堀口星眠の別荘
を訪ねた。その散策と折の句とされる。病窓からも自然の移ろいを
楽しむ波郷であったから、軽井沢の泉への散策は心躍るものであっ
たろう。しかし、『春嵐』の後記によれば、その頃の波郷の肺活量
は1500に過ぎなく、ゆっくり歩かなければ、呼吸困難に陥入る
おそれがあったのである。その状況であるから、泉への道を人に後
れて、ゆっくりゆっくりと自分の速度で歩いて行くのである。連れ
立つ人たちの会話に合わせることもなく、森の空気や、道の草々や
木々を楽しみながら、自然に浸り、ゆっくりと呼吸し歩むのである
。それこそが「安けさ」である。この「安けさ」は、本来の人間の
心が持つべき平静な安けさと言えるものだろう。  (高橋正子)

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水原秋桜子みずはら‐しゅうおうし
俳人。東京出身。本名豊。東京帝国大学医学部卒。医学博士。はじめ「ホトトギス」に参加、退いて「馬酔木」を主宰。新興俳句の先駆と目された。著「葛飾」「蘆刈」「現代俳句論」など。(一八九二〜一九八一)

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藤田湘子 (ふじたしょうし)
大正15年神奈川県生まれ/昭和18年「馬酔木」(水原秋桜子主宰)入会/昭和32年「馬酔木」編集長/昭和39年「鷹」を創刊主宰/受賞 馬酔木賞(第4回 昭和32年)/句集『途上』/エッセイ集『水原秋櫻子』他

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堀口星眠 : ホリグチセイミン 橡主宰
群馬県安中市安中 2-9-33

妻の掃く橡落葉すぐ箕にあふれ
がまずみの実に下りきたる茜雲
冬ざれが好きか嫌ひか柄長来る

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ホトトギス:
俳句雑誌。明治30年正岡子規主宰の下に、松山で創刊。翌年高浜虚子が東京で主宰。子規の写生説を受け継いだ虚子の花鳥諷詠を中心理念として、近代俳壇に大きな影響を与えた。
河東碧梧桐・村上鬼城・渡辺水巴・飯田蛇笏・水原秋桜子・山口誓子・富安風生・中村草田男らの同人を輩出。
夏目漱石の「吾輩は猫である」をはじめ、虚子・伊藤左千夫・長塚節・寺田寅彦・鈴木三重吉などの小説・小品を掲載して、写生文の発達にも貢献。

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あしび【馬酔木】=あせび
水原秋桜子主宰の俳句雑誌。大正11年創刊の「破魔弓(はまゆみ)」を昭和三年改題したもの。ホトトギス派の客観写生に対して、清新な主情性を主張。


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俳句王国の主宰
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伊丹三樹彦 (いたみみきひこ)
大正9年兵庫県伊丹市生まれ/青玄俳句会主幹/現代俳句協会副会長/
昭和20年伊丹市に「伊丹文庫」開設/俳誌「青玄」主宰/
写俳集『隣人ASIAN』/句集『仏恋』『伊丹三樹彦全句集』他

稲畑汀子 (いなはたていこ)
神奈川県横浜市生まれ/俳誌「ホトトギス」主宰/日本伝統俳句協会会長/祖父高浜虚子、父高浜年尾に俳句を学び修行/昭和54年年尾の死後「ホトトギス」の主宰を継承/句集『汀子句集』『旅立』『星丹夜』他

宇多喜代子 (うだきよこ)
昭和10年山口県徳山市生まれ/現代俳句協会会員/昭和45年俳誌「草苑」同人、編集長/昭和57年第29回現代俳句協会賞受賞/句集『りらの木』『夏の日』他/評論集『つばくろの日々』他

岡本眸 (おかもとひとみ)
昭和3年東京生まれ/昭和24年富安風生に師事/昭和32年岸風三楼に師事/昭和55年「朝」を創刊主宰/受賞 若葉賞(第8回 昭和36年)他多数/句集『朝』『冬』『二人』他

鍵和田柚子 (かぎわだゆうこ)
昭和7年神奈川県生まれ/俳誌「未来図」主宰/俳人協会理事/大学在学中より句作/後に「萬緑」に入会、 中村草田男に師事/第一句集『未来図』で第一回俳人協会新人賞受賞

片山由美子 (かたやまゆみこ)
昭和27年千葉県生まれ/「狩」同人/句集『水精』『天弓』『片山由美子句集』

加藤三七子 (かとうみなこ)
大正14年兵庫県生まれ/昭和34年「かつらぎ」に参加/阿波野青畝に師事/ 昭和52年「黄鐘」を創刊/句集『万華鏡』『恋歌』/著作『雪女郎』他

金子兜太 (かねことうた)
大正8年埼玉県生まれ/現代俳句協会会長/「海程」主宰/昭和16年加藤楸邨主宰「寒雷」に参加、のち同人/昭和37年「海程」創刊、のち主宰/第5回現代俳句協会賞(昭和31年)/NHK放送文化賞(平成9年)受賞/句集『少年』他/評論『種田山頭火』他

川崎展宏 (かわさきてんこう)
俳人 昭和2年 広島県呉市生まれ / 加藤楸邨に大学卒業の年より師事 / 俳文学会、東京大学国語国文学会、日本文芸家協会、俳誌「貂」(てん)代表/ エッセイ集「高浜虚子から虚子へ」、大岡信との対談集「俳句の世界」など多数

倉田紘文 (くらたこうぶん)
昭和15年 大分県生まれ/俳誌「蕗」主宰/高野素十(俳誌「芹」主宰)に師事/昭和39年 大分合同新聞読者文芸年間賞/平成5年 大分合同新聞社文化賞/著書『高野素十研究』他/句集『慈父悲母』『光陰』他/自解百句選『倉田紘文集』

黒田杏子 (くろだももこ)
昭和13年東京生まれ/山口青邨に師事/平成2年「藍生」を創刊主宰/句集『木の椅子』現代俳句女流賞・俳人協会新人賞受賞/著書『水の扉』他

篠崎圭介 (しのざきけいすけ)
昭和9年愛媛県松山市生まれ/愛媛県俳句協会会長/昭和27年俳句を始め、富安風生に師事/昭和51年俳句結社「糸瓜」の主宰を継承/受賞 若葉賞(昭和30年)/句集『彼方へ』『知命』他

鷹羽狩行 (たかはしゅぎょう)
昭和5年山形県生まれ/昭和21年俳句を始め、佐野まもるの「青潮」に投句、のち同人/昭和23年「天狼」創刊と共に山口誓子に師事/昭和53年 俳誌「狩」を創刊主宰/平成5年 俳人協会理事長/受賞 第5回俳人協会賞(昭和40年)/第25回芸術選奨(昭和49年)

辻桃子 (つじももこ)
昭和20年横浜生まれ/昭和38年大学1年の時、俳句入門/昭和62年「童子」創刊主宰/著書 詩集『やさしい罠』/句集『桃』『花』他/入門書『俳句の作り方』他/エッセイ集『俳句って、たのしい』など多数

津田清子 (つだきよこ)
大正9年奈良県生まれ/昭和23年「天狼」に入会、橋本多佳子、山口誓子に師事/昭和30年「天狼」同人/昭和61年「圭」を創刊、代表/受賞 天狼賞(第2回 昭和26年)/句集『句集礼拝』『句集二人称』他

坪内稔典 (つぼうちねんてん)
昭和19年愛媛県生まれ/佛教大学教授/俳句グループ「船団の会」代表/
受賞 尼崎市市民芸術奨励賞(昭和61年)/句集『百年の家』『人麻呂の手紙』/
評論集『正岡子規』『俳句のユーモア』他

中原道夫 (なかはらみちお)
昭和26年新潟県生まれ/(社団)俳人協会会員幹事/
「銀化」主宰/平成6年第33回・俳人協会協会賞受賞/
句集『蕩児』『顱頂』『アルデンテ』他

長谷川櫂 (はせがわかい)
昭和29年熊本県生まれ/俳句は平井照敏、後に飴山實に学ぶ/俳句雑誌「古志」主宰/『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞受賞(平成2年)/句集『古志』他/評論集『俳句の宇宙』/選集『現代の俳句』

廣瀬直人 (ひろせなおと)
昭和4年山梨県生まれ/俳誌「白露」主宰/日本文芸家協会会員/山梨県内の高校教諭を務めたあと、山梨県教育委員会主幹や山梨県立文学館参与などを歴任/句集『帰路』/エッセイ『飯田龍太の俳句』他

深見けん二 (ふかみけんじ)
大正11年福島県生まれ/俳誌「花鳥来」主宰/昭和16年高浜虚子に師事、大学入学後山口青邨に師事/平成3年「花鳥来」創刊主宰/句集『父子唱和』『雪の花』『星辰』『花鳥来』/共著『山口青邨の世界』『武蔵野吟行案内』/平成4年俳人協会賞受賞。

藤田湘子 (ふじたしょうし)
大正15年神奈川県生まれ/昭和18年「馬酔木」(水原秋桜子主宰)入会/昭和32年「馬酔木」編集長/昭和39年「鷹」を創刊主宰/受賞 馬酔木賞(第4回 昭和32年)/句集『途上』/エッセイ集『水原秋櫻子』他

星野椿 (ほしのつばき)
昭和5年東京都生まれ/祖父は高浜虚子/昭和45年頃作句を始める/
昭和59年「玉藻」の主宰継承/日本伝統俳句協会の設立に際しては、理事に就任/
句集『早椿』(昭和59年)他