芭蕉句碑−01          義 仲 寺


  2004年5月6日は夏日であった。

  JR膳所駅で自転車を組み立てて、北へ向かって出発。
  京阪電車・大津線の踏切を渡り、商店街の道を進む。
  道の右手にあった居酒屋「道草」で、昼の定食を食う。
  うまかった。



Y字路で右の道を下る。(この角に「右 義仲寺 二丁」と彫られた古い石標があることを後で知った。)
近江大橋に繋がっている湖岸の161号線の信号が見えると、一筋手前の辻を左折。この道が旧・東海道であるが、やはり昔の道は狭いナァ。
すぐに『義仲寺』だ。










左写真、義仲寺の山門。ココから入る。




右写真は、山門右手にある「巴地蔵堂」で、巴御前を追福するもの。8月下旬の地蔵盆には、現在も町内の人々によって祭られているとのこと。







左写真、山門を入ると、すぐ左手に古井戸が見えて、風情がある。
写真の左には、芭蕉の葉も写っているヨ。



右写真の白壁土蔵は「粟津文庫」。芭蕉没後100年近い寛政3年(1791)に、終生、芭蕉を敬慕した蝶夢チョウム法師によって創設された。(昭和51年改築)



義仲寺のあたりは昔、粟津ヶ原と呼ばれていて、琵琶湖に面した景勝の地であった。(埋め立て工事は昭和30年代に進められた。)



左写真、「無名庵」の入口。


芭蕉が、貞享2年(1685)に訪れて滞在。元禄2年(1689)、奥の細道の旅の後も滞在。
元禄4年に、「無名庵」の新庵が落成。同年4月18日から5月5日までは京都嵯峨の落柿舎に滞在して「嵯峨日記」を草して、6月から9月まで無名庵に滞在。


右写真の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は、伊勢の俳人、又玄ユウゲンが同年9月に無名庵に滞在中の芭蕉を訪ねて泊まった時の作。
この句碑は、左写真・無名庵入口の右手にある。




左写真、「行春をあふミ(おうみ)の人とおしみける」(芭蕉桃青)。
この句には、近江の春の美しさ、人々との充実した交流、そして過ぎ行く季節へのそこはかとない想いが込められているらしい。
句碑は、山門を入って正面右手(朝日堂の手前)にある。



右写真は、有名すぎる「古池や蛙飛びこむ水の音」(芭蕉翁)。
句碑は巴塚の後あたりにある。




左写真は、木曽義仲の側室で、武勇に優れた巴御前の墓、「巴塚」。木曽塚の左隣に置かれている。



右写真は、木曽義仲の墓で、芭蕉は「木曽塚」と呼んでいたとのこと。現・義仲寺のほぼ真ん中にある。
土壇の上に宝篋印塔ホウキョウイントウが据えられている。


【宝篋印塔】 塔の一種。方形の基礎の上に、方形の塔身をおき、上に段形になった笠石があり、相輪を立てる。笠石の四隅に隅飾りの突起があるのが特色。
本来は宝篋印陀羅尼の経文を納めたが、後には供養塔・墓碑とされた。



左写真、「芭蕉翁」と彫られた芭蕉の墓。(これを以降、「翁塚」と呼ぶ)


右写真、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」。(山門から見て翁堂の左手)


元禄7年(1694)10月12日、芭蕉は、大坂の旅舎で51歳の生涯を閉じた。
「骸は木曽塚に送るべし」という遺言にしたがって、亡骸は夜のうちに川船に乗せて淀川を伏見まで上がり、翌日の昼には膳所の義仲寺に入った。
葬儀は14日に行われ、その夜に境内に埋葬された。門人ら焼香者80名、会葬者300余人。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。墓石の「芭蕉翁」の文字は内藤丈草の筆といわれている。
芭蕉の忌日は「時雨忌」ともいい、前号の桃青から「桃青忌」ともいう。
義仲寺では「時雨忌」は年中行事で、旧暦の気節に合わせて毎年11月の第2土曜日に営まれる。


左写真、「翁塚」の右側には、椎の木が立っていた。
見事な老木だ。

右写真は、その椎の木を下から写した。


【椎】ブナ科シイノキ属の植物の総称。東アジア・東南アジアに約三〇種、北アメリカに一種あり、日本では関東以西にツブラジイ、およびその変種のスダジイが生える。
常緑樹で、雄花穂が細長くて下垂せずに立ち、果実は全体が殻斗に包まれたどんぐり状果であることなどが特徴。しいのき。しいがし。
from Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shogakukan




左写真、「翁堂」。

翁堂は蝶夢法師が明和6年(1769)に再興。安政3年
類焼、同5年再建。



右写真、翁堂の前の池で亀が甲羅干しをしていた。
蛙も鳴き始めていた。茶色の小さめの蛙がこの古池に飛び込んだ。




左写真は翁堂内部で、正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈草、去来の木像、左側面に蝶夢法師陶像。
正面壁上に「正風ショウフウ宗師」の額、左右の壁上には36俳人の画像が掲げられている。



右写真、天井の絵は、伊藤若冲ジャクチュウの四季花卉カキの図。







左写真、翁堂の魚板もなかなか絵になるナァ。すり減っているお腹のあたりを叩くと鈍い音がした。



右写真は、翁堂の芭蕉翁座像のレプリカで、無名庵の床の間に飾られていた。だけど、どうして翁の像はこんなに黒いのかな。


なお、芭蕉翁の像に白扇を奉納する「奉扇会」は、毎年5月の第2土曜日に行われる。(右の夏姿の写真は後日、撮影したもの。)






左右の写真は、義仲寺の本堂である「朝日堂」。

本尊は聖観世音菩薩で、義仲、義高父子の木像が厨子に納められている。
義仲、今井兼平、芭蕉、丈草など計31柱の位牌が安置されている。
(昭和54年に改築された。)



義仲寺は広くはないが、静かできれいな感じのいいお寺であった。
義仲公も芭蕉翁も静かに眠っておられることだろう。



義仲寺を失礼して、旧東海道を右に戻った。


左写真、義仲寺から3軒くらい西の土壁の民家と石山方面に向かう旧東海道。


右写真、この民家は風情があるナァと思っていると、その右の狭い路地を、近所のご婦人が夏日傘を差して抜けて来られた。自転車のオッちゃんがゆっくりと走っていった。


私も、この旧東海道をJR石山駅付近まで走ってから湖岸に出て、遊歩道でJR膳所駅まで戻った。




左写真、湖岸の遊歩道から北の近江大橋を写した。
画面左には大津プリンスホテルが突っ立っている。



右写真、膳所城跡公園の南にあった黄アヤメ。







左写真、膳所城跡公園を抜けてから振り返ったモノ。


右は、近江大橋。









左写真、近江大橋の取り付け部分をくぐって、北側に出て、大津プリンスを写す。後は比叡山。



右写真、反対方向(南側)の近江大橋全景。








琵琶湖ホールは美しい建築だ。広くて白いテラスは地中海の雰囲気である。
僕の黒いバイクの演出効果はどうだろうか?











なお、本『芭蕉句碑シリーズ』では、下記のHPおよび資料を参考にさせていただきました。厚くお礼申し上げます。

1) 滋賀県HPの中の「広報誌プラスワン」の中の「芭蕉がこよなく愛した近江の国の人と風景」
2) 共同企画・芭蕉ネットの中の「滋賀県の芭蕉関連資料」
3) 草の道の中の芭蕉塚蒐(全国の芭蕉句碑総覧)の中の「滋賀県」 
4) 草の道の中の「芭蕉の足跡を訪ねる」
5) 「芭蕉句碑を訪ねて」
6) 国土交通省・東北地方整備局・福島河川国道事務所HPの中の「松尾芭蕉の生きた時代」
7) 松尾芭蕉の総合年譜と遺書(俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース)
8) 芭蕉DB
9) 近江の芭蕉句碑
10) 義仲寺発行の案内冊子
11) 乾憲雄著 「淡海の芭蕉句碑(上)」 、淡海文庫1、サンライズ印刷出版部、1994.4.1
12) 乾憲雄著 「淡海の芭蕉句碑(下)」改訂版 、淡海文庫2、サンライズ印刷出版部、2004.10.1

(地図は、マピオンMapion滋賀県ページから検索するのが便利です。)