芭蕉句碑−03     唐崎の松、堅田の浮御堂


2004年11月6日に浜大津でカヌー(ファルトボート)を組み立てて、「唐崎の松」と「堅田の浮御堂」を訪ねた。
唐崎の夜雨」、「堅田の落雁」はいずれも、近江八景のひとつで、歌川(本名は安藤)広重の画でよく知られている。



左写真、大津港の外輪観光船ミシガンの前で、多分、消防の音楽隊が子供たちに演奏していた。


湖岸沿いに南東に下っていくと、
右写真、ビアンカの前で、嘴が黄色く、体型がアヒルとコハクチョウの中間くらいの水鳥が子供に餌をねだっていた。







大津市民会館の前あたりの湖岸でファルトを組み立てた。
出艇前に公園の植え込みのトコロでたまたま『さヾ波や風の薫りの相拍子』の芭蕉句碑を見つけた。
カヌー芭蕉句碑巡りのスタート前に、知らなかった芭蕉句碑に出会えて幸先がよいナァ。

左写真、まだ新しい簡単な句碑だった。

右写真、裏にはライオンズクラブが平成8年に建てたことが印されていた。






唐崎の松の南西の湖岸沿いに広い敷地の昔からの別荘があった。
その落ち着いた雰囲気が気に入っていて、今回も寄るのを楽しみにしていた。

左写真、でも、残念ながら解体工事中だった。多分、住宅地として売り出されるのだろう。(正面は昔、艇を止めたスロープ。)



右写真、艇庫付きのハウス。コチラはどうやら教会の敷地で外国の神父さん達が泊まるところらしい。






左写真、唐崎の松の全景。
 背景には、比叡を写した。


右写真、石垣の下に着艇。








左写真、唐崎神社の拝殿と奥に本殿。
菊がきれいだった。


右写真、本殿の左手に松が見える。








左写真、唐崎の松。後は琵琶湖。

右写真、唐崎の松。背景は比叡。

どちらも絵になるな。








左写真、『辛崎の松は花より朧にて』の句碑。
文字は読みづらくなっているが、松は確かに「枩」と書かれていた。



右写真、滋賀県指定名勝「唐崎」の案内板。














左写真、門前のみたらし団子屋。ココへ来れば必ずご馳走になることにしている。お茶もおいしいのだ。
女将さんが最近は、琵琶湖一周ウォーキングの人たちがよく寄ると言っていた。








御手洗団子を食べて、2kmほど北に漕ぐ。

右写真、下阪本の新唐崎公園。(画面左の石積の左に句碑があった。)




公園の浜に艇を着けて、句碑訪問。

左写真、 『海は晴れて比叡降り残す五月かな』の字も鮮明な句碑。
「奥の細道」に“五月雨の降り残してや光堂”がある。







本日のゴールの浮御堂を目指して、残り6km余りを北上。


左写真、浮御堂には晩秋の西日が当たっていた。



右写真、浮御堂の正面を下から写す。


比叡山から琵琶湖を眺めた横川恵心院の源信僧都が 10世紀末に湖中にお堂を建てて、 自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千体閣」「千体仏堂」と称したのが浮御堂の始まりらしい。





左写真、浮御堂の南の公園に着艇、上陸。



右写真、臨済宗大徳寺派の海門山満月寺の楼門。
向こうには、琵琶湖が広がっている。浮御堂への入口である。






ココには自然石の芭蕉句碑が2つある。

左写真、『鎖あけて月さし入よ浮御堂
これはまさしく、浮御堂の句である。
元禄4年8月16日に、十六夜の月の光を鎖ジョウを明けて浮御堂に射し入れよと吟した句。
(前夜は義仲寺で月見の俳席を設け、翌日、舟で堅田にやって来た由。)
『堅田十六夜の弁』を下に引用している。


右写真、『比良三上雪さしわたせ鷺の橋
芭蕉翁270年忌の記念碑で、琵琶湖大橋架橋中の昭和38年に除幕した。




『堅田十六夜の弁』(元禄4年8月16日:48歳)を、http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/tanpen/katada.htmより抜粋、掲載。*印は原HPに注あり。
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 望月の残興なほやまず*、二三子いさめて*、舟を堅田の浦*に馳す。その日、申の時*ばかりに、何某茂兵衛成秀*といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮れて来たれり」と、声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園中に芋あり、大角豆*あり。鯉・鮒の切り目たださぬこそいと興なけれ*」と、岸上に筵をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。かねて聞く、中の秋の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山*といふとかや。今宵しも、なほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡*、南北に別れ、その間にして峰ひきはへ、小山いただきを交ゆ。とかく言ふほどに、月三竿にして*黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの曰く、「をりをり雲のかかるこそ」*と、客をもてなす心いと切なり。やがて月雲外に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」*と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、この堂に遊びてこそ。「ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」*と言へば、あるじまた言ふ、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に杯をあげて、月は横川*に至らんとす。
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左写真、浮御堂の扁額。


右写真、浮御堂の千体仏。









左写真、日が傾くにつれて、若いカップルの影が増えてきた。確かにココは静かでムードがあるナァ。



右写真、浮御堂の北東の湖中には虚子の湖中句碑が建っている。字も読めないし、誰も句碑だとは思わないだろうな。







左写真、青畝の「五月雨の雨垂ばかり浮御堂」の句碑が門の左手に建っていた。



右写真、竜宮造の楼門を内側から写す。立派だ。


竜宮造:楼門の一種。下部は漆喰塗りで、中央にアーチ型の通路がある。上部は木造で入母屋の屋根。
日光大猷院皇嘉門、長崎の崇福寺楼門が有名。





左写真、虚子の湖中句碑。カヌーで近づいて写した。「湖もこの辺にして鳥渡る」と彫ってあった。
この辺は、琵琶湖の最狭部で水は南に結構速く流れている。水深もあってカヌーのパドルは届かなかった。
句碑の周りには石を並べた台座がある。当然、その下には頑丈な水中基礎工事があるはずだ。
何のためにこんな大工事を行ったのだろう。
裏には昭和二七年十月とあったので、虚子77、8才の時か。
こんなことを誰が考え付いたのかナァ。誰が工事を許可したんだろう。(ココは公共水面だと思うが。)

浮御堂からは字も読めない。こんな近寄れない句碑に何の意味があるのだろう?






右写真、浮御堂の少し北に流入する小さな川面には、外来種?と思われる浮草(後日、ボタンウキクサだと分かった。)が蔓延っていた。
布袋葵が画面の真ん中あたりに1株だけ残っているが、外は全部コノ浮草だ。
唐崎の松から堅田の浮御堂まで漕いでくる湖面には、バス釣り船とコノ浮草が浮いてナァ。

なお、「ボタンウキクサ」は熱帯アフリカ原産でサトイモ科。1990年の大阪花博(EXPO'90)の頃から「ウォーターレタス」の名前で金魚や熱帯魚用の水草として売られ始め、それが野に放たれたらしい。
「布袋葵」は南アメリカ原産でミズアオイ科。明治初期にアメリカから持ち込まれたとのこと。




左写真は、浮御堂を建立した源信僧都の住していた横川ヨカワの恵心院。
2000年11月25日に自転車で比叡山に行った時に写したもの。

「バイク比叡山中に一泊す」:次に向かった無人の恵心院は横川エリアの南のはずれにあるため、訪れる人はなお少なく、その古色蒼然とした佇まいの前景の紅葉を独り占めして、時の立つのを忘れた。











































【参考図書】 下記の図書およびHPを参考にさせていただきました。厚くお礼申し上げます。
1) 乾憲雄著 「淡海の芭蕉句碑(下)」改訂版 、淡海文庫2、サンライズ印刷出版部、2004.10.1
2) 芭蕉DB