きさいちハイキングMAP ショート絵巻 巻1  かいがけの道


「かいがけ」は漢字では「狭崖」と書くらしい。
奈良の大仏建立時に既に行き交っていたと言われる古い道だ。
2001年10月27日にこの道を初めて進んだ。
下左写真は住吉神社で、この境内の右手からかいがけの道は始まる。
下右の写真は、2回目の12月8日に境内から里を見たものである。
この両日の写真で絵巻を描くことにする。




かいがけの道の入口(下左)に、
「この道は大和と河内を結ぶ重要な交通路として、古代には修験の道、奈良・平安時代には紀州熊野神社へ詣でる「熊野街道」として、
また天正年間(1573〜92)、織田軍と戦った武将どもの馬駆け道として多くの者が往来しました。」
と書かれていて、案内図(下右)が彫られていた。
ここから山に入り、暗く険しい山道が約1km続く。




階段の道をバイクを担いで登る。
やがて、「愛宕山大権現」や「石清水八幡宮」と彫られた石碑が見えると、伏拝フシオガミの辻だ(右写真)。
修験者や熊野詣での旅人がここから遙拝したらしいが、今は樹木の茂りで見晴らしはあまりよくない。
写真の真ん中に、道を半分遮る苔むした大きめの石があるが、供花の右に小さくお地蔵さまが彫られていた。ココにはいつも花が供えられている。

しばらく進んで右手が開けているところに、今度は「能勢妙見大菩薩」の石碑があった。





少し先に、建物跡に見える平地があり、石段を上ると正面の石組みの中央に「かいがけ地蔵さま」(左写真)がいらっしゃる。
付近には割れた古瓦も置かれていて、往時のお堂が偲ばれる。
立派な鬼瓦君(右写真)がお地蔵さまを守っていて、平地の周りには、不動明王やお地蔵さまが何体も祀られていた。
山桃の古木も見事だナァ。





続いて、これも薄暗い中に古ぼけた石鳥居が現れた。
ハイキングマップにはなかったが、これが竜王社の玄関である。鳥居に自転車を預けて、急な石段を上って峰道を進む。
竜王山312mの頂上付近は割と開けている。
竜王石(右下写真)以外にも、巨石がいくつもあった。弘法大師が雨乞いをされた石とか雷神の小便で穴があいた石とかもあるらしいが、よく分からなかった。



竜王社の鳥居を過ぎると、やがて

鬱蒼としたトンネルのような道が終わり、明るく里が広がる。

「傍示(ホウジ)の里」である。









「かいがけの道」は集落を通らず、すぐに舗装路(傍示の里ハイキングコース)を横切って、里の南の山裾を進み、府民の森「くろんど園地」の管理道に行き着く。
途中に古い石碑が立っていて、梵字に続けて「奉修大峯登山三十五度大願成就如意満足祈處」と彫られている。
その左右に、文化八年(1811年か?200年ほど前だ!よっぽど頑丈な石を使ったのだろうか、ちゃんと読める。)三月吉祥日、大福院、俗名・籐左衛門とあった。

籐左衛門さんは多分、この「かいがけの道」を通って大和盆地へ出て、王寺、五条と南下し、大峰山へ登ったと思われる。
当然、道中すべて歩きだ。
「35度」とは、年2回登っても、18年かかる。
まさに大願成就だ。
あの世に行っても満足、満足だろう。

平安時代から中・近世にかけて熊野三山へ多くの人が参詣し、「蟻の熊野詣」と言われた。
その道筋は、京都からは、淀川を伏見から大坂・難波津まで舟で下り、和歌山、田辺を経て熊野に入るのが一般的だったが、この「かいがけの道」を通るルートもあったらしい。
この道を通って、大和から西または東の熊野街道を経て熊野に至るルートは和歌山回りの海岸線ルートに比べると近道ではあるが、随分と険しい山岳コースになる。
根性のある人が通ったのだろう。
(さらには、吉野からの修験道の「大峯奥駆け道」という超険しい道もあるが。)
ちなみに京都から淀川を大坂まで下り、海沿いの道回りで行く場合は、片道三百数十キロ、往復で20日前後だったらしい。

籐左衛門さんの石碑の横を分け入って進むと、小さな池が見えてくる。
三叉路になっていて、左に進むと、くろんど園地に入り、右に登っていくと送電鉄塔で行き止まり(展望よし)。