きさいちハイキングMAP ショート絵巻 巻2  傍示(ホウジ)の里


『 交野市には、古くから呼び交わされ、言い伝えられていた伝承地名が多く有る。
一口に地名と言っても、発生の時期、由来、その語源、意味など千差万別で、きわめて多彩な要素を持っている。どんな小さな地名にも、庶民の歴史のつながりがある。
明治以降、町村によっては、地名の統廃合による改変がなされ、加えて住宅団地の造成等により、地名は次々に失われつつある。
このような時期、急激に消え去り、減びつつある地名を集めておくことは、歴史を解明する上で重要である。 』

との思いで、昭和63年、当時の住居表示審議会のメンバーが中心となり、地域の多くの方が協力して、「ふるさと・交野の地名」が編集された。
しかし、当時は資金がなかったため製本・出版されなかったのだが、10数年を経て、その内容の豊富さ、確かさに驚いた方々(交野情報ステーション“夢咲ぃ人”)が、ホームページ「ふるさと・交野の地名」を立ち上げられた。


そのHPを2002年3月31日に知り、4月1日に以下の5行を引用・編集させていただいた。
労作に感謝し、そのHPに出会えたことを喜んでいる。



傍示は、「榜(フダ)を立てて国境を示す」ことであり、「傍示」は河内国と大和国の境で、河内と大和をむすぶ「かいがけ道」の峠に当たる。

古来、この道を往来する入々が多かったことから、国境に標柱を立て、旅人に示したらしい。

たとえば、東大寺建立の際に、大仏の銅の鋳型の仕事に熟達した九州・宇佐八幡宮の渡来人の鋳型師の一行が、枚方市の百済寺と交野市の獅子窟寺に宿泊し、この「かいがけ道」を通り奈良の都に向かった。
また、平安時代以降は熊野参りにこの道が広く利用され、傍示にある八葉蓮華寺は熊野参りの道標にもなる八王子社の一つであった。



・傍示の里(大阪府交野市)

傍示(ホウジ)の里で案内標識に従って狭い急坂道を右手方向に上がると、突き当たりに八葉蓮華寺がある。
閉まっている小さなお堂(右写真)の中に、鎌倉時代の快慶作、重文阿弥陀如来立像(3〜7月、9〜11月の第3日曜日13:00〜15:00に拝観可)があるはずだ。



舗装路が右(南方向)に90°曲がる三叉路で左の山道に進むと、狭い棚田を経て、交野市・野外活動センターに行き着く。


その三叉路手前の鬱蒼と茂る崖下の薄暗い道端に菅原神社の古い石鳥居が立っている(右写真)。
左側に急な石段があり、登っていくと、崖の途中に小さな祠(左写真)がある。
近くには巨木が茂っている。立派なお社があったのだろうが、社殿が台風で崩壊し、今ではささやかな祠でおそらく数軒の村人によって心を込めて祀られているようだ。
案内標示もなく、ハイカーも寄らないだろう。







・傍示の里(奈良県生駒市)

傍示の里を東に進むと、いつの間にか大阪府と奈良県の境界を過ぎ、府道枚方大和郡山線に出る。
この道を北に上り、300m先を右に入って下った。
この辺りは、生駒市の傍示というところらしい。ここも、落ち着いた昔からの集落だ。
三叉路(右写真)があり、左に進むと、京都府に接する枚方市の穂谷に行くとのこと。
庭先に居た親切なおばあさんが教えてくれた。

右に下っていくと、大きな茅葺き屋根の民家(下写真)が見える。
なかなかの風情ではないか?

           
うまい具合に、犬を散歩に連れて行ってた子供達が帰ってきた。写真の許可を得る。

    門の左右に納戸が造られていて、塀を兼ねている            母屋の全景
              

       黒壁と障子戸と、懐かしいナァ。 子供の頃のオヤジの里を思い出した。

            

瓦に茅葺きを併用している屋根。先人の知恵が残されているが、子供達には不評だった。
「うちらエエと思わへんねん。」 「寒いしなー」





その1軒南側も茅葺きだった。
日向で黒豆を選り分けていたお婆さんの許可を得て、左の1枚。
左裏側の老大木は、榧(カヤ)の木だと自慢そうに教えてくれた。

碁盤や将棋盤に使われると聞いたことがある榧の木だ。
きっと、この地で生まれ育ったというお婆さんの思い出が詰まっているのだろう。
この南面の茅葺きは数年前に葺き替えたらしいが、北面はだいぶ古くて困っているご様子。
そういえば、苔が生えて緑色がかっていた。



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落ち武者の里を尋ねて (伊丹茂氏)
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以下は、http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/Part_4/page10.html より、抜粋、編集、紹介させていただいた。

昭和六十年頃、交野市にある(伊丹氏の落ち武者の里と聞いていた)傍示村を尋ねた。
ココは昔、伊丹村とも呼ばれていたそうな。
村といっても四軒しかなく、四軒のうち三軒に「伊丹」の表札がかけられていた。
長老の方にお話を聞くと、
昔は三十戸程あって、ほとんどが伊丹姓だったが、ココは生活が不便ということで、多くが大阪や、奈良に移り住んでいる。

菅原神社の石の鳥居の裏側には「京都 伊丹氏宗宣」と彫られていて、表側は「伊丹庄兵衛」と刻まれているようでした。

氷室山八葉蓮華寺の前庭には、かなり古いと思われる五輪塔や大小の石塔が整然と並んでいて、いずれの塔の礎石にも伊丹某と刻まれていた。
本堂の中には、阿弥陀如来立像菩薩の端正な姿があり、その気高い美しさに驚いて、是非役所に届け出て、調べてもらうようにお勧めした。
その数カ月後、たまたま見ていたNHKの「歴史招待」番組で、この仏像が映し出されて驚いた。
仏像の上部が取りはずされ、中から取り出された書物によって、快慶作の仏像であることが判明していった。
伊丹氏がなぜ快慶の仏像を持っていたのか、不可解であるが、強いて考えれば、鎌倉時代、かなりの権力、地位があった証として、大切に保存していたのか。
それにしてもです、あの戦国時代、敗戦して、山に逃げ込んだ落ち武者が、仏像を手放すことなく、この山中に担ぎ込んだということなどでしょうか。
数枚の仏像の写真が、送られてきたのは、それから半月ばかり後でありました。

なお、八葉蓮華寺・阿弥陀如来立像菩薩の詳しい紹介が、上記HPの続きにある。


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(三叉路に戻って、)村社の天満神社にお参りした。
交野市の傍示の菅原神社と同じく天神さんだった。