枚 方 市 昔 々


特別史跡・百済寺跡 (2001/7)

聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上した百済王(クダラノコニキシ)敬福(キョウフク)が750年、交野郡中宮(現枚方市)の地を賜り、氏寺として百済寺を建てた。
この百済寺跡は大阪府下では大阪城と並ぶ国の特別史跡になっていて、七堂伽藍(左写真は、その配置図)の名残が公園として整備・公開されている。
2001年7月に訪れると、敷地の西に隣接する百済王神社の拝殿が改築工事中(正確には、工事を中断して枚方市教育委員会による発掘調査中)であった。
旧拝殿には天保7年の遺構が残されていて教育委員会からの要請もあり移築保存することになった旨、掲示されていた。
右写真は、その移築された旧拝殿を額縁に東に広がる史跡公園のごく一部を見たものである。(公園が広く、その姿を1枚の写真では伝えられないので。)

なお、百済王(クダラノコニキシ)とは、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた百済国王が朝廷に仕えることになり、賜った姓(カバネ)である。

平成18年1月15日に作成された応請矩明(Don Pancho)氏のレポート「百済王氏の氏寺だった百済寺跡(くだらじあと)を訪れる」が充実している。




いにしえの枚方の住まい2つ (2001/7)

    
夏でも涼しい弥生時代の竪穴式住居(左、田口山遺跡の復元)の中から、江戸時代の住まい(右、旧田中家を移築)を見た。(どちらも無料)

田口山遺跡(市内田口山2)は、弥生時代中期後半の高地性集落で、40棟以上の竪穴式住居跡が見つかっている。上左写真はその復元。

田中家は、河内鋳物師として代々鋳造業を営んできた。
枚方市は、市内上之町にあった鋳物工場と主屋の寄贈をうけて、藤阪に移築復原し(上右写真)、「旧田中家鋳物民俗資料館」として整備。
主屋は、鋳物師という火を扱う職業の性格上、建築当初から瓦葺。工場は近世の鋳物工場として全国に例を見ない珍しい建築遺構。
主屋の建築年代は元文4年(1739)を下限とし、工場もあまり隔たりのない時期の建築と考えらる。どちらも府の指定有形文化財。

右写真は、上之町の旧田中家跡地に残っている椋の老大木。大阪府の指定天然記念物。




ムクゲの花が満開の伝王仁墓 (2001/7)

      

昔から藤坂の山中に「おに墓」と呼ばれる1個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があったとさ。
江戸時代になって、この「おに墓」は王仁墓の訛ったものと言われ、石の後に墓碑が立てられた。
「おに墓」は王仁墓に変わった。(「伝王仁墓」:現在、大阪府指定史跡。)
なお、王仁博士は4世紀末に百済から渡来し「論語」10巻と「千文字」1巻をもたらしたと伝えられる。日本における漢字の祖。

下の写真は伝王仁墓の南側に設けられた韓国風の休憩所。朱塗りの柱と瓦が百済の雰囲気を漂わせている。ちょうど、ムクゲの花が満開であった。
ムクゲは韓国で「無窮花(ムグンファ)」と呼ばれて国花である。日本の植民地支配下でも民族のシンボルの花とされてきた。夏から秋まで長く咲き続ける。
韓国からの観光旅行や修学旅行で、大阪から京都に向かう途中立ち寄る人も多いらしい。99年には金鍾泌首相が山桃の木を植樹されていた。

        



万年山古墳と意賀美オガミ神社 (2003/1)

                   本殿

下の説明板にも書かれているように、
1)4世紀中頃に、この万年寺山に前方後円墳が築造された。1904年に枚方小学校運動場拡張工事で発見され、青銅鏡8面、鉄刀等が出土した。
2)奈良時代からは、密教系寺院の万年寺があった。が、明治3年の廃仏毀釈によって廃寺となり、本尊は三矢町の浄念寺に預けられた。
3)式内意賀美神社は、古くは伊加賀村宮山にあって淀川の鎮守であったらしい。
明治42年に日吉神社(岡、岡新町村の鎮守社)および須賀神社(三矢、泥町村の鎮守社)を合祀して、現在の地(万年寺の跡)に遷座した。

そんなこの地の歴史を知ってか知らずか、神社の片隅に一輪の椿が咲いていた。

    


枚方市で梅の名所といえば、山田池公園かこの意賀美神社である。意賀美神社の梅は100本余りだが、いつ行っても空いているのがよい。