交野ヶ原 ショート絵巻 4     交野市 昔々


交野カタノ および 私市キサイチ、私部キサベ の地名の由来

この地方は、昔から「かたの」と言われていた。
「かたの」の「の」とは、もちろん「野」、すなわち平たんな低地のことであり、「かた」は「潟」で、水が差したり引いたりする所という意味である。
「交野」の名称の起源については、丘陵と平地が交迭(かたがた)に在るからとも、また、淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称せられたとも言うが、明らかではない。

4世紀頃、肩野物部(カタノモノノベ)氏の祖先が、天野川流域で「米作り」を始めて農耕文化を広めた。
その後、肩野物部氏はこの地を領有し、6世紀後半、その一部を敏達天皇の皇后(後の推古天皇)に献じた。それでその土地が今でも、私部(きさいべ)と呼ばれ、交野市に残っている。
「私」は「后」と同じ意味で「きさき」と読み、「きさい」は音便。「部」は、朝廷に属する職業人の集団であり、「私部」は、皇后のために稲作をする人々の集団であった。
この「私部」の範囲は、天野川を中心に(現交野市の)私部、寺、森、私市、星田、郡津、(枚方市の)茄子作を合わせた地域の総称であったようだが、現在の「私部」「私市」は、皇后領の中でも主要集落だったので、皇后領廃止後もその名称は残ったと思われる。
なお、「私市」は(南東は山になるが、)その周りを「きさいべ」の村々に囲まれた中心集落だったので、「きさいべの内」すなわち略して「きさいうち」と称し、後に「きさいち」と変化したものと思われる。


 (以上、「ふるさと交野の地名」http://www.yumesaito.com/timei/index.htm 等を引用・参考させていただいた。)


機織り技術の伝来

4世紀末、 漢人庄員が大陸から一族を率いて帰化し、(交野市の)倉治を中心とする山麓地域で機織りの技術をおこした。
そして7世紀、壬申の乱の後、一族はその際の功によって、天武天皇から交野忌寸(カタノイミキ)の姓(カバネ)を与えられている。



機物ハタモノ神社

機物神社は、倉治を開いた漢人庄員がもともとの祭神であったが、平安時代、この地を遊猟に盛んに訪れた京都朝廷の人々の間で好まれた七夕伝説から、祭神が織女星に転じて現在に至っているらしい。
この七夕伝説の織姫(天棚機比売大神アマノタナバタヒメ)が祀られている機物神社は随分古い建物で、毎年七夕祭の日には境内は飾り付けられた笹でいっぱいになる。

右上写真の鳥居をくぐり参道を真っ直ぐ東に進むと、左手に左写真の本殿が南面していて、参道右手前方、交野山の方向に小さめの鳥居がある。
機物神社のご神体は交野山であり、その遙拝所(右下写真)が設けられているのである。

(なお、冬至の日に遙拝所に立てば交野山から日が昇るそうだ。
すなわち太陽の昇る位置は交野山より南には下がらない。 機物神社は天体測量の重要なポイントだったとの説あり。
→ で、「交野が原の歴史ミステリー」を選択すると、著名な彗星捜索家の木内鶴彦氏の壮大な交野が原の星物語が繰り広げられる。)

この神社の南の畦道や農道をゆっくりペダリングすれば人影もなく、何百年も前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。

2001年7月7日(土)に七夕の機物神社に出掛けた。
梅雨の晴れ間に恵まれ、境内は無数の短冊が結びつけられた七夕竹の林になっていた。

memo【何故、七夕と書いて「たなばた」と読むのか?
 :
「たなばた」は棚機と書き、はたを織ることで、その織機や織る人(女性)も言う。
棚機津女(タナバタツメ;ツはノの意の格助詞)を祭る日本の風習と、その後中国から伝わった七夕(シチセキ)の節句が結びついて、七夕祭りとなったようだ。

機物神社の七夕祭りが盛大なわけだ。