交野ヶ原の祭1       初 詣
  

【目次】 集落名
a) 山田神社 山之上 2002 2003 2004 2006 2010 2011
       b) 菅原神社 傍示 2002 2004 2011
c) 天田神社 私市 2002 2003 2004 2006 2010 2011
d) 機物神社 倉治 2002 2003 2004 2006
e) 獅子窟寺 2002 2003 2004 2006 2010
f ) 住吉神社 2003 2004 2006
g) 意賀美神社 2004 2010 2011
h) 八葉蓮華寺 傍示 2004
i) さだ神社 2010 2011
j) 朱智神社 天王 2011
k) 極楽寺 天王 2011
l) 笠上神社 高船 2011

野が原には神社仏閣が数多くある。いつものサイクリング・ルート上で見かけたお正月風景を神社毎にとりまとめて、年順にご紹介します。
第2京阪道路のお陰で、2011年からは、京田辺市の天王や高船にも足を延ばすことができるようになった。
a)山田神社、b)菅原神社(傍示の里)、c)天田神社、d)機物神社、e)獅子窟寺、f)住吉神社、g)意賀美神社、h)八葉蓮華寺、i)さだ神社、j)朱智神社、k)極楽寺(天王)、l)笠上神社(高船)



 a) 山田神社

 ・ 2002年

     まずは、氏神さんである山田神社。
            

マコトにローカルな話ですが、山之上の地はもともとは一の宮・片埜神社の氏地だった。
が、弘安2年(1279)に訳があって、山之上に居住していた社務職の一人が現山田神社のある小さな山(宮山)を神地として、新たに一の宮の御神霊を勧請して山之上神社を造建した。
明治5年に村社に列せられた。明治6年田宮村に祀られていた素戔嗚命を合祀した。両村の頭文字をとって山田神社と改称。祭神は、素戔嗚命と稲田姫命

【素戔嗚命memo】
素戔嗚命は、記紀・風土記などに見える神。
伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命の子。天照大神の弟。その凶暴さによって高天原を追放され、出雲に下った。
八岐大蛇(やまたのおろち)を退治、稲田姫と結婚して宮を営んだ。後に子とともに新羅に渡り、わが国に植林法を伝えたという。
暴風神・農業神・英雄神など多面的な神とされる。  Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban Shogakukan 1988


 ・ 2003年

2003年の初詣。今年の正月は天気がよくなかった。それに年末に淀川河川敷の寒風の中を走り過ぎて、風邪気味だった。
元旦の晴れ間にまずは、氏神さんの山田神社に詣った。
   
今年の初詣はお礼の気持ちを込めて、各神社ともに、お賽銭を奮発することに決めていた。その最初が氏神さんの山田神社であった。
で、楽しみに引いた御神籤はナント、「凶」が出た。「・・・。しかし、神仏の御加護を念じ身を慎み誠を尽くせば遠からず幸いは訪れる。・・・」
その日から、家に引きこもって謹慎した。
3日は雨であった。そして、4日(土)は寒波襲来とかで寒かったが、思い切って初詣めぐりにスタート。3社1寺に詣った。


 ・ 2004年


2004年の元旦はいい天気だった。まず我が家の2階から初日の出を拝んだ。
 『 鉄塔を燃やす初日や生駒山 』
生駒の山並みの向こうから上ってきた初日は、稜線の鉄塔を燃やしているようだった。


昼から今年も初詣サイクリングで、交野ヶ原の神社仏閣を5軒をハシゴした。



山田神社は大勢の参拝客で賑わっていた。本殿の前からの行列は長い石段の下まで続いていた。
こんなに大勢の老若男女がお参りしている姿は初めて見た。よっぽど景気が悪いのかなー。
神社側は大張り切りで、焚き火に大きな丸太をサービスしていた。

     【略式お詣りの手順メモ】
      1) お賽銭を入れる
      2) 鈴を振る
      3) 2礼
      4) お願い事をする
      5) 2拍手
      6) 1礼
             (山田神社で神主さんに教えてもっらった)


 ・ 2006年

早朝ウォーキングの途中で、6時半頃、最初の初詣。10時過ぎに女房殿と正式初詣。お神籤は、「吉」。(くじ運のいい女房は大吉)。
病気:頂点を超えたのでやがて快復する。旅行:慎みあればよし。ウンウン。
平成12年の神社行事のビデオを見る。秋祭の「お湯上げ神事」は一度見てみたいモノだ。


 ・ 2010年

元旦に女房と名古屋から帰っていた長男の3人で初詣に行った。
長男は厄年なのでお賽銭も弾み、お札も買っていた。

私のお神籤は珍しく大吉で、右記のように書かれていた。
「枯木に春が来て花が咲くようである」が大いに気に入った。


 ・ 2011年

元旦に女房と二人で詣でた。
門松の松に松ポックリが付いていた。松ポックリ付きの門松は初めて見た。
お神籤は吉であった。




 b) 菅原神社

 ・ 2002年

傍示の里を大晦日に走った。
菅原神社の年季の入った石鳥居の前に門松が設えてある。
そして、鳥居の間に円を描いて土が丸く盛られている。これは何なのだろう。
今度村の人に会ったときに聞いてみよう。清楚な清々しい正月準備が整っていた。(氏子は多分、西傍示の5軒の伊丹さんだけらしい。)
2006年のお正月に星のまち交野HPの村田さんから「交野広報に”砂もち行事”が載っていたのでHPにアップしたよ」とメールで知らせていただいた。
『倉治・寺・森・傍示地区では大晦日に、家の庭先に砂で丸や桟を書く「砂もち」の風習が残っている。
「砂もち」は砂を持ってくるという意味で、地域によって採取場所が決まっていて、家庭が丸くおさまるようにとか、綿の実がたくさんなるようにとの祈りが込められていて、正月三が日続けられる。』

              


 ・ 2004年

菅原神社の石鳥居の前の正月飾りは、2年前のと比べると大分、質素になっていた。
しかしながら、門松には、松と竹とまだ小さすぎる蕾みを付けた梅がちゃんと入っていた。
土で丸く円を描いて盛りつける飾りは、門松とのバランスからか少し小さめの円だが、2年前に比べると随分太いしっかりした盛り土になっていた。これはこれで素朴な味があるな。





 ・ 2011年

砂で丸や桟を書く「砂もち」の風習は健在だった。


左写真、鳥居の前の砂もち。



右写真、本殿のお社から石段の下を写した。
参道にも砂もちが続いている。









 c) 天田神社

 ・ 2002年

大晦日に通りかかると、当番の氏子さん達の手で掃除が終わっていて、幕が張られ、注連飾りが付けられて、すっかり歳旦祭の準備が整っていた。そこで写真を1枚。
                 

まもなく、神主さんが手元を連れて車で乗り付けた。
まず、持ってきた餅、米、鯛、大根、人参、昆布、するめ、もちろん御神酒などを取り出して、三宝に載せ始めた。年に1度のことゆえ、少し手順を思い出しながら、打ち合わせしながらやる。
やがて、神主さんはバケツと新しい雑巾を持って、本殿の扉を開けた。まず2つの棚を拭き浄め、次に中を念入りに拭き掃除。掃除が終わると、三宝に載せたお供えが順番に棚に並べられていった。

         

翌日は元旦だ。暖をとるための焚き火が燃やされていて、時々氏子が参拝にやって来る。
          

 ・ 2003年


4日目ともなると、正月気分は大分薄れる。
天田神社はすっかり静かだった。社務所では氏子の主だった方々が集まり、歳旦祭の労をねぎらって宴会の真っ最中だった。

お賽銭もはずんだのだし、少し邪魔をしてもイイだろう。
御神籤を頼んだ。
「吉」だった! ウン、よかった!





 ・ 2004年

天田神社も今までよりは賑わっていた。少し遠くの人もお参りに来ているようだった。

氏子の大門酒造の御神酒をいただいたが、甘くて美味しい酒だったので、お代わりをした。








 ・ 2006年



元旦の15時で、賑わっていた。



御神酒の入っている徳利は年代物で、値打ちを感じた。










天田神社の本殿は楠の大木に囲まれていて、小さいが立派だ。


右は開いていた神主さん用の本殿への戸口から写した。









・ 2010年

1月3日の夕刻、獅子窟寺の山中で少し遅くなったが、寄り道参拝した。










・ 2011年


1月3日16:00、京阪奈を回る初詣サイクリングの最後に寄った。ココでは必ず御神酒が頂けるので、楽しみだ。
大きい方の盃になみなみと注いで頂いた。

















 d) 機物ハタモノ神社

 ・ 2002年

写真の焚き火は、大晦日に点火し3日3晩、1尺ぐらいの径の丸太を次々と燃やし続けるとのこと。火番の氏子さんが5、6人いて、大焚き火を自慢していた。。
          

 ・ 2003年

4日。粉雪が舞ってきたが、ご近所の方が時々は詣られている。
ご自慢の大焚火も消され、途中まで燃えた松丸太が何本か残っているだけで、祭りの後の雰囲気だ。
御神籤は「小吉」だった。





引き返し、住吉神社に向かうべく山手の寺地区に登って行った。
坂の途中で白壁や板壁の家に混じり土壁の土蔵が建っている。
この地区の家並みも私の好きな風景である。





 ・ 2004年

機物神社の東参道(下左写真)は昔の情緒が残っていて好きだ。
社務所では御神籤を求める人が絶えず、本殿前に結ばれている御神籤の数の多さが賑わいを表しているようだった。御神酒は2杯いただく。



 ・ 2006年

元旦。
右近の橘に実がいっぱいになっていた。



車が3台、交通安全の祈祷を受けていた。
この鈴を鳴らしていた巫女さんは半時間後には、ブーツを履いて友達と帰って行った。









機物神社の焚火には太い松丸太が使われる。大晦日の夜から三日三晩燃やされる。大日オウビと呼ぶそうな。
寒いから焚くのでなく、日が早く沈んで暗くなるので、証明のために燃やすそうな。


松丸太を運ぶのはフォークリフトの仕事だ。


まず、焜炉コンロを揺する。











松丸太を3本入れた。これで夜の火番は見ているだけでよい。


松丸太はすぐに燃え上がり始めた。











 e) 獅子窟寺

 ・ 2002年

この正月に初めてお参りした。こんな急な坂が延々と続く参道は初めてであった。(MAPでみると、標高100mから200mまで上がっている。)ともかく自転車を押し続けた。
昔からのそのまま、山寺の参道である。手がほとんど加えられていなくて、気持ちいい。さすがは、役小角(エンノオズヌ)が開基し,行基が堂塔を建立した山寺である。

                      本堂                       国宝・薬師如来座像(薬師堂)
          

  ココの自転車初詣は大変だったが、面白かった。詳しいレポートは、『獅子窟寺の谷と山を歩く シリーズ』プロローグをご覧下さい。

本尊 薬師如来像
獅子窟寺のご本尊の薬師如来坐像(収蔵庫)は、平安初期の榧の一木造で国宝(昭和43年に指定)である。
寺伝によれば行基の作とされ,両手先が後補ではあるが、ふくよかさに溢れる名品である。
翻羽式衣紋ホンバシキエモンが肩から足へと美しく流れていて、衣紋によって両足が覆われ足の先が見えない。
光背には紫雲に乗った九躯の如来が見える。 http://www.kokuhoworld.com/bb43.html
(なお、同じ交野市の八葉蓮華寺・阿弥陀如来立像は重要文化財である。)




 ・ 2003年

自転車を参道口に止めて、尾根筋に付けられた急な坂道を登っていく。地図上では、3kmほどの山道で約100m上がっている。
山間部に入ったからか急に雪が南西方向から吹き付けてくる。(今日は南西の風が強いようだ。)風下側の山は白く靄っている。寒い山道を一人で進む。


   
    参道登り口付近                      獅子窟寺本堂                               本堂前の木漏れ日

お賽銭を入れ、危うく柏手を打つのを止めて静かに合掌する。ここの御神籤は一つずつが小さな赤い筒に包まれていて値打ちがありそうだ。
折って巻かれた御神籤を凍えた手でもどかしく拡げる。「大吉」だった。
雪が止んでお日様が射してきた。木漏れ日が輝いていた。どうもココの御神籤が一番信用できそうだと合点しながら、帰り道を急いだ。

帰りに山田神社にまた寄ったので、本日は5軒を初詣ハシゴしたことになる。これだけ神仏の御加護を念じれば、元旦の「凶」も転じたことだろう。


 ・ 2004年

獅子窟寺では、3年後くらいを目処に本堂を建て替えるそうだ。
確かに今の本堂は相当古びていて、土壁も剥がれ掛かっている。しかしこんな山の上のお寺の工事は大変だろうな。
相当馬力のある四駆でないとあの坂道は上がれないものな。
新しい本堂ができると、今は鉄筋コンクリートの薬師堂に移されている国宝・薬師如来も本堂に戻られるそうな。やはりそれがイイものな。

ココでは御神酒は湯呑で供してくれる。松竹梅の金粉入りを結局3杯いただいた。






 ・ 2006年


1月3日に初詣を兼ねて、「獅子窟寺の山歩き」を楽しんできた。
詳細は『2006年1月3日初詣歩き』をご覧下さい。









 ・ 2010年

1月3日、久し振りに獅子窟寺に行ってみたくなった。
獅子窟寺の谷と山を歩く-7 土生川第Bルートを取ることにし、土生川@ルートの500m地点に自転車を止めた。

土生ドジョウ川
の土手は大分崩れていて水量も少なかったので、歩いて渡った。急斜面に竹が伐り倒されていて登るのは結構きつかった。
ようやく上の山道らしきトコロに出たが、伐採された雑木が覆い被さっていて進めず、真上方向に登っていくと、急な石段が付いていた。
石段を上ると、庫裏の建物敷地だった。恐縮して、枝折戸をそっと開けて出していただいた。

まずは、本堂にお参りする。

魔法瓶とお茶菓子が置かれていたので、ご馳走になった。そういえば、以前は一升瓶の御神酒が並べてあって、お湯呑でぐいぐいと頂戴したものだ。



奥に向かうと、庫裏の前に蝋梅がきれいに咲いていた。その写真を撮っていると、おばあさんがやってきて、話しかけてくれ、いろいろと教わった。
(実は、先代のご住職の大黒さんで、86歳と言われていた。)

庫裏の前は崖(相当風化が進んだ花崗岩)になっていて展望がよく利く。写真正面の山並みは六甲山で、左手には大阪市内の超高層ビル群が写っている。
晴れた日には淡路島も見えるとのこと。
61年前に獅子窟寺に嫁いだ時には、大坂城の天守閣より高い建物はなかった。
大阪湾を進む船が小さく見えて雄大だった。
40年前に電気を引く(電柱18本を含む工事代金は約1千万)まではランプの生活で、今でも(参道が急なので)宅急便も来ないとのこと。

その後、収蔵庫におわす国宝・薬師如来坐像を拝み、4月12日の春季法要に是非来るようにとお誘いを受けて暇乞をした。



 f) 住吉神社 (寺)

 ・ 2003年




かいがけの道の登り口の住吉神社は無人だった。御神籤もなかった。
海上安全の守護神にカヌー旅の安全を祈願して下がると、ナント晴れてきたではないか?

ラッキー。この後暫し、住吉神社の北方向の山裾を散策し楽しんだ。

右写真のような段々畑が続いている。





 ・ 2004年




住吉神社でも元旦だからだろう、氏子の世話役の方が拝殿横の部屋に詰めておられた。
しゃべり声のする拝殿でお参りするのもひなびた雰囲気でイイモノかも。

氏子の子連れカップルは鳥居のトコロで、往きも帰りも手を合わせていた。皆さん行儀がいいのだ。






 ・ 2006年

元旦も15時半になると、氏子の世話役の方も帰られたようで、拝殿横の部屋には新鮮なバナナなどのお供えの品?も沢山置いてあるのが見えた。


 g) 意賀美神社 オガミジンジャ

 ・ 2004年


この名前の神社は全国にあるようだ。
どの意賀美神社も、闇淤加美神(くらおかみのかみ)か、高淤加美神(たかおかみのかみ)を祭祀され、雨乞いの霊験で崇敬されているとか。
大阪府では、岸和田市の意賀美神社が有名らしい。
この枚方の意賀美神社は、古くは伊加賀村宮山にあって淀川の鎮守であったと伝えられている。
祭神は「★大神タカオカミノオホカミ」(★=雨冠の下に龍を書く字)で、
「意賀美オカミ」という名前は水の神・”★大神タカオカミノオホカミ”(★=雨冠の下に龍を書く字)を祀っているからとのこと。
ココは式内社の1つ。
式内社:10世紀前半に作られた法令集「延喜式」に記載されている神社。全国に2861社ある。


 ・ 2010年


1月17日、阪神・淡路大震災から15年目の今日、女房と意賀美神社に参った。

ココは枚方の梅の名所で、梅林では早々と数本の木が咲き始めていた。







 ・ 2011年

1月2日、女房と二人で自転車で行って、お参りした。
梅園では、一番西側の2本の紅梅がそれぞれ一輪ずつ花を付けていた。





 h) 八葉蓮華寺


 ・ 2004年


傍示の里
の八葉蓮華寺に寄った。
ここで左右の写真に写っているが、円を描いて土が丸く盛られているのを発見した。
2002年の初詣の時に古い菅原神社の石鳥居の前で初めて見た「砂もち」の風習だ
この地域の正月の儀式だそうな。しかし、ココのは、通行の邪魔になるナァ。


「砂もち」のことは、村田さんの星のまち交野HPに詳しい。



八葉蓮華寺のすぐ近くの昔からの民家には、注連飾りと門松がちゃんと付けられていた。(左写真)
傍示の里では、昔からの風習がそのまま続いているのだなぁ。




 i ) さだ神社

・ 2010年

今年の恵方は庚カノエの方向だと聞いて、我が家から西南西にある”さだ神社”にお参りすることにした。

年の十干 方 角 西暦年末尾 の数字
甲・己の年 甲(寅卯の間) 東北東(東微北) 4 または 9
乙・庚の年 庚(申酉の間) 西南西(西微南) 0 または 5
丙・辛の年 丙(巳午の間) 南南東(南微東) 1 または 6
丁・壬の年 壬(亥子の間) 北北西(北微西) 2 または 7
戊・癸の年 丙(巳午の間) 南南東(南微東) 3 または 8

なお、恵方とは「その年の縁起のよい方角で、その年の干支によって定められ、歳徳神トシトクジンの宿る方角である。」(from Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shogakukan )
2010年は庚寅カノエトラの年であり、右の表によって、十干が庚の年の恵方は庚(申酉の間)の方角で、西洋的に言えば、西微南である。

左の恵方図には、外周に中国式の24分割した方位が書かれていて、4つの恵方方向(甲、丙、庚、壬)が柿色に着色されている。
すなわち、恵方はその年の十干によりこの4つの方位を巡行するのだ。

(なお、ここの2つの図表は北海道釧路市の厳島神社HPから借用させていただいた。)

具体的には、
右下表のように、「甲、庚、丙、壬、丙」を繰り返すことになる。

甲・己 甲の方位(東微北) 1994 1999 2004 2009
乙・庚 庚の方位(西微南) 1995 2000 2005 2010
丙・辛 丙の方位(南微東) 1996 2001 2006 2011
丁・壬 壬の方位(北微西) 1997 2002 2007 2012
戊・癸 丙の方位(南微東) 1998 2003 2008 2013












【蹉だ神社縁起】

蹉だ神社(”だ”は足偏に它)の縁起によると、901年2月、菅原道真が太宰府に左遷の途中、娘の苅谷姫は父を見送るためにこの地まで来たが、
道真は既に出発した後で逢う事が出来ず、足ずり(さだ)して嘆き悲しんだので、この旧跡は「蹉だ山」と名づけられた。
951年道真が自ら作った木座像を、村人がこの蹉だ山に社殿を造営して祀ったのが当神社の始まりである。
1614年(慶長19年)大坂冬の陣の兵火により社殿は焼失したが、ご神体は無事であったため再建され、現在の社殿は1889年(明治22年)に改築、現在に至っている。

右図は、「河内名所図会 巻之六」にある「蹉だ山 天満宮」  



蹉だ神社の参道は200mほどある。住宅が建て込んでいるが、参道は真っ直ぐ通っている。左写真は境内の入口である。

石段を上ると直ぐに絵馬堂があり、蹉だ村の消防手動ポンプが鎮座している。このポンプは明治、大正に活躍し、昭和9年まで使われていたとのこと。

節分の豆まきの看板が出ていたが、ココは夜に豆まきをする。










さいが、落ち着いた本堂である。











我が家からは裏参道が便利だが、アクセスは丘陵地の上に、少しずつ開発された住宅地の生活道路を曲がりくねって走る必要があり、分かり難かった。




お神籤は「吉」で、右の一文が大いに気に入った。







・ 2011年

4日に女房と自転車で行った。

裏参道に行くつもりが、池のトコロですぐ右に回るのを間違って、香里園桜木町のニュータウンの方へ行ってしまい、表参道からお参りした。


4日なのに、結構、賑わっていた。











紅梅が蕾が大分膨らんでいた。







帰りは裏参道へ回って帰ってきた。






 j ) 朱智神社

・ 2011年

1月3日、急坂道を自転車を押して上って、本日メインの朱智神社に到着。
(標高280m)


右写真、拝殿で参拝する。   13:30

ただし、3日も午後になっていたので、初詣の片付けが始まっていて、何十本と供えられていた1升瓶も軽トラックに積込み中だった。
来年からは元旦か二日に来よう。






 j ) 極楽寺 (天王)

・ 2011年

左写真、極楽寺の門は閉まっていた。
(そういえば、前回は右手の潜り戸を開けて入ったが、今日は正月でもあり、憚られた。)



右写真、極楽寺の上の夢殿は眺めが素晴らしい。素朴な正月飾りが華を添えている。









 j ) 笠上神社

・ 2011年

笠上神社は標高300m。

狐と朱い鳥居なので、お稲荷さんの様に見えるが、そうではない。
なお、ココ(高船)の
氏神さんは石船神社である。