秋篠川から西の京へ


巻2もまずは、生駒市の北部を南に流れる「富雄川」に沿って走る。空いている快適な道をドンドン下る。
やがて道は(川も)生駒市から奈良市に入る。
この辺りは「二名(ニミョウ)」と呼ばれているトコロだ。
二名に入るとすぐ(近鉄奈良線富雄駅の1キロ半ほど上流)に杵築(キネツキ)神社の鳥居(下写真)がよく目立つ。

この鳥居で富雄川と別れ左折し参道に入る。
          

神社の前を右折南下し、法融寺と書かれた看板に沿って東に進み、坂道を登る。
ネオハイツ学園前の前の細い道に左折し、すぐに右折。北東に走り、小さな池の手前で左折、すぐに右折し東に進むと、「秋篠川」の最上流に出る。
(この辺りは次々と開発された広い住宅街で、行き止まりの道も多い)

この秋篠川最上流部の北側の小山に「御嶽山大和本宮」というトコロがあった。
御嶽教という神道教団13派の1派らしい。いい場所に広い敷地を占めている。
木曽の御嶽山にしては派手すぎる感じだったが・・・。
その東側には大渕池を挟んで東西に奈良県立大渕池公園が広がっていた。
ここも余り利用価値がなく、広い敷地がもったいないように見えた。

           

秋篠川の右岸を走り、ライオンズマンションの手前で左折、川を渡って直ぐに右折。
道なりに進むと、西奈良県民センターに突き当たるT字路。右折すると登美ヶ丘1丁目交差点。
交差点の南東のビル(ヴィブ学園前)2階の麺処「めんたつ」0742-41-7688は、麺がうまかった。


秋篠寺

腹ごしらえの後、秋篠川沿いに東に進み(左の地道に入って)直ぐに信号で右岸へ。
登美ヶ丘中学校の少し手前の信号で泉橋を渡り左岸へ。次の信号で左の道へ直進。
八幡神社の門前を過ぎ、再び秋篠川に出る。
川沿いの路を進み、中山橋の下をくぐって更に川沿いに走る。
川が南に向きを変えると見えてくる奈良大学付属高校の南を通る道(歴史の道)に入る。

道路を渡り西に向かい、県営奈良競輪場の北側を通り、すぐ右手に見えるテニスコートを越えて左折。
道なりに進むと、秋篠寺の東門が現れる。
東門を入ったところで、女学生が写生をしていた。
門の左手に写っているのは土塀の向こうの生徒を指導中の絵の先生。
見事な苔はかつての金堂の跡だ。
(この写真だけは1週間後の晴天の日に撮った。土塀の向こうに本堂が写っているはずですが・・・。 )

            
秋篠寺はこの「秋篠の里」に平安遷都の時期に完成し、平安末期に兵火に罹ってほとんどが燃えてしまった。
写真下左の本堂は、創建当時、講堂として建立されたものが、金堂焼失後、鎌倉時代に大修理を受けて、以来、本堂と呼ばれてきた。
事実上、鎌倉時代の建築であるが、端正な姿に奈良天平の匂いが感じられるそうな。
右下の写真は、大元堂とその前のちらほら咲きの梅。

       
本堂では、入口に近い左端の「伎芸天」を何度も見せていただいた。
堀辰雄が東洋のミューズと言ったらしいが、やはり、美しい。「伎芸天」は、古くは日本各地で信仰されたが、秋篠寺に唯一現存しているとのこと。
密教教典によれば、諸技諸芸の祈願を納受したもうらしい。(頭部:乾漆、天平時代、体部:寄木、鎌倉時代)
なお歴史をさかのぼると、当寺の開基当時、この地は秋篠朝臣の所領であって、秋篠氏の氏寺が既に営まれていたらしく、秋篠寺の名称と関係しそうとか。

右写真の秋篠寺南門を出て、歴史の道を南へ進む。
ここからは、民家の間に通した細い道の区間があったり、小さな石で舗装してあったりで、自転車を下りて押すのがよい。

信号で道路を渡り、近鉄を越えると、右手に小さな神社が見える。
この四つ角で細い道に左折すると、西大寺の小さな北門がある。

自転車を押して西大寺に入る。


西大寺

天平年間に東大寺に対する西大寺として建てられた大寺であったが、度重なる火災で衰退。
現在は、江戸時代に再建された金堂、愛染堂、四王堂などが残っていて、国宝、重文の数は多く、文化財の宝庫らしい。
寺に残る直径30cm、重さ7kgの大茶碗で抹茶を点てて参拝客が回し飲みする大茶盛は有名だ。
屋根では鳩が何十羽も日向ぼっこをしていた(下右写真)。

   
2回目に行った時に、女の子が金堂の鉦(カネ)を打ってお参りしていた。下写真
          

本堂の西の愛染堂の右手に、樹齢700年の菩提樹の木があったが、冬場は特に見る影もなかった。(上右写真)

下左の愛染堂の白壁、障子に冬日の影が映り美しかった。         下右の四王堂もなかなか風格のある建築だ。
           

西大寺の境内を東門から出て北へ。近鉄西大寺駅の南側を東に進んで、道路を注意して横断し、線路をくぐる地下道に入る。
秋篠川を渡ると、左岸から奈良自転車道が下流(南)に向かって通っている。
この秋篠川沿いの自転車道を走って唐招提寺、薬師寺に向かうのだが、その前に、東に広がっている平城宮跡を訪ねた。
何もないだだっ広いトコロだ。

平城宮跡・朱雀門  平城京の本来の読みは「ならのみやこ」。 奈良時代に音読みした史料はないとのことです。

元明天皇(女帝)は和銅3年(710)に、平城京を築き、大和盆地の南端の飛鳥・藤原京から北方の新都に遷った。
朱雀門は平城京南面中央の正門であり、朱雀門から南に延びる道路は朱雀大路と呼ばれ、幅70mで、平城京の正面玄関・羅生門まで続いていた。
この計画都市は唐の長安がモデルで、大路と条坊が碁盤の目のように四通し、東西4.3km、南北4.8km、さらに東北部に張り出した広大な規模であった。
近鉄奈良線のすぐ南側に下の写真の朱雀門が復元されている。(なお、「朱雀」とは南を守る中国の伝説上の鳥らしい。)
                   

平城京の右京で、朱雀大路の西にあたるトコロは、「西の京」と呼ばれていた。
やがて、田園に民家が点在する中に唐招提寺と薬師寺の堂塔がそびえ立っているのが見える。どちらの南大門も民家と向かい合っていて、その間の路は狭く時々、乳母車やタクシーが通っていた。


唐招提寺

聖武天皇の招きを受け、12年もの歳月をかけて来日された唐の高僧鑑真が天平年間(759)に創建。
道が狭いので、下写真に写っている自転車を南大門の階段に上げると叱られた。
現存最大の天平建築である豪壮な金堂を見たかったのだが、平成の大修理中で、金堂全体がすっぽり仮囲いされていた。
門番の感じも悪かったので、入らず。

                


薬師寺

天武天皇の9年(680)に、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、飛鳥浄御原宮に創建され、平城遷都にともなって718年に現在の地に移された。
薬師寺式と呼ばれる伽藍配置のうち唯一、創建当時のまま残っている東塔(右写真)はやはり美しいナァ。
高さ33.6mのこの三重塔を、かのフェノロサさんは「凍れる音楽」と絶賛したそうだ。
写真中央の金堂は、1976年に二重二閣、入母屋造りの創建当時の様式のままに復元された。
お堂の中央には高さ2.6mの薬師如来座像と両脇に従う3mの日光、月光菩薩立像の薬師三尊像(白鳳期、約1300年前)が黒光りしていらっしゃる。
火災にあって金色がはがれてしまったそうだが、これもよし。
写真左の西塔は、1981年に4.5世紀ぶりに復元された朱塗りの塔で、金、緑色の彩色も鮮やかに輝いていた。
東塔も昔、造られた時はこのように「竜宮造り」と呼ばれる豪華絢爛さだったのだナ。

        


回廊の東側に、1285年に再建された東院堂がある。落ち着いた建物で、堂内には聖観音立像(白鳳期から天平初期の作)が静かに佇んでおられた。


薬師寺の北側の境内に、玄装三蔵院の伽藍が新築されていた。
この中の八角のお堂の大唐西域壁画(平山郁夫筆)が春と秋に公開される旨の案内看板が門の前に出ていた
         


薬師寺の春の風物詩と言われる花会式(3月30日〜4月5日)は、堀川天皇が皇后の病気平癒を祈願したのが始まりで、毎年、梅や桜、椿など10種類の造花が薬師如来に供えられる。
造花といっても普通の造花ではなく、今は奈良の2軒の家で作られているそうだ。
材料や染料は、薬師様らしく昔から薬になる植物が使われ、花会式が終われば、花びらなどは煎じて薬に使われたらしい。
今度見に行きたいと思っている。

なお、この時期には大唐西域壁画も公開されている。


【薬師如来memo】

仏教で言う、人間の避けられない四つの苦しみ「生・老・病・死」のうち、「死」の救いは「阿弥陀如来」のご担当らしい。
阿弥陀 ( 梵amitDbha「無量光」、または amitDyus「無量寿」を略した amita の音訳。)は西方浄土にいて、いっさいの衆生を救われる。
浄土宗、真宗では本尊であり、阿弥陀を信じ、阿弥陀の名を唱えれば、死後ただちに極楽浄土に生まれるそうな。(私のトコは浄土真宗。よかった。)

一方、「薬師如来」は「病」のご担当。阿弥陀の西に対して、東方には薬師如来の浄土「浄瑠璃世界」があるらしい。
浄瑠璃世界は瑠璃と呼ばれる古代インド・中国で珍重された宝玉(青色が代表で外にと赤、白、黒、黄、緑、紺などがある)に満ちていて、日光・月光をはじめ、無数の菩薩が住まわれているそうな。

日本では、阿弥陀如来像が一番多く作られていて、2番目に多いのが薬師如来像だとさ。(昔から、一番怖いのは死、次は病なのですね。)

薬師寺の薬師如来座像は、座って右手で病人の体(または心)の悪いところを触って手当して下さり、左手では薬を差し出されているそうな。
右脇の日光菩薩立像および左脇の月光菩薩立像は日夜、病人の世話をして下さり、腰を薬師如来の方に少し向けているのは如来の指示を待っている状態で、いつでも病人の看護に飛んでいけるように立っておられるそうな。
やさしいな。