富雄川を下って法隆寺へ


2002年3月上旬の暖かい日に傍示の里へ上った。黒かった田圃もうっすら萌葱色になっていた。
畑も耕されて水が少し引かれていた。この峠の里は山からの湧き水があって、きっと昔から農耕に適していたのだろう。

    

今日はくろんど池、高山溜池から始まる富雄川に沿ってひたすら南に走り、斑鳩の里までちょっと遠足だ。
「富雄川」は、生駒市の中央部を北から南に横切り、奈良市の西部を走り、大和郡山市に入って、斑鳩町に至る。
そして斑鳩町の南東隅で、町の南を西流する大和川に合流している。
うまい具合に斑鳩の里まで一本道なのだ。しかも、車道を走らずに、快適な路が川沿いに続いていた。

近鉄奈良線の高架を富雄駅の西側でくぐり、阪奈道路を過ぎると、右手に霊山寺の広い境内が目に入る。今日は先を急ぐのでパス。

第二阪奈道路をくぐっると、約2kmで、大和郡山市に入る。
郡山城なども今日はパスだ。川沿いには桜並木の公園が整備されていたが、蕾はまだ固かった。(右写真)

左岸から右岸に渡ると、左写真の「奈良西の京斑鳩自転車道」の道標があり、法隆寺に至ることが示されていた。
富雄川沿いにさらに南下し、慈光院のところで西に入る。

案内にしたがって、ちょっと小高い大和小泉の市街を西南に越えると、やがて、法起寺の三重塔が民家と畑の向こうに見えてきた。
道に下りて、南から訪問する。
法起寺の土塀の際は畑で、大きな大根が土から首を出して日光浴をしていた。
高さ24mの三重塔は703年の完成とみられ、現存最古のものらしい。

    
帰り道では、法起寺の西側の土塀がのどかな夕陽を浴びていた。バイクを門前に止めて写真を撮った。(右下) まさに、斑鳩の風情ではないか?


法起寺から西に進むと、すぐに法輪寺だ。ここの三重塔も見事である。(下の三枚の写真)
法隆寺、さきほどの法起寺とともに「斑鳩三塔」のひとつに数えられた三重塔は、昭和19年に焼失し、昭和50年に再建されたので、朱塗りがまだ残って見える。
ガイドブックによると、春と冬は境内自由と書かれていた。ラッキーだった。

法輪寺は山背大兄王(ヤマシロノオオエノオオキミ)が、父、聖徳太子の病気平癒を願って建てた。

法起寺は、聖徳太子が法華経を講じた岡本宮のあとに、山背大兄王が開いたとのこと。

       

法輪寺の門前の道を南下すると、いよいよ、法隆寺の境内に入る。
まずは、東大門(奈良時代)をくぐって、西院(サイイン)伽藍に向かう。
飛鳥時代の木造建築を目の当たりにし、久し振りに感激した。
縁起文によると、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されたが実現しないままに崩御された。
そこで次帝・推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古天皇15年(607)に寺とその本尊の「薬師如来」を造られたのが法隆寺(斑鳩寺イカルガノテラとも呼ばれている)である。
残念ながら670年に一度焼失し、現在の伽藍は8世紀初頭に飛鳥時代の様式により再興されたものとみられている。

現在、法隆寺は五重塔(飛鳥時代)と金堂(飛鳥時代)を中心とする西院伽藍と、夢殿のある東院伽藍に敷地が分かれていて、広さは13万uを越えるそうな。
下の2枚の写真はどちらも、中門と左右に連なる回廊(飛鳥時代)、そして左後ろに五重塔が写っている。
    

下左は、西側の回廊。エンタシスの柱にこれから西日が届くところであった。
右は五重塔。高さは、基壇より31.5m。我が国最古の五重塔。
               

堂々とした重層入母屋造の金堂(飛鳥時代)には、薄暗い中、中央に(飛鳥仏の傑作といわれる止利仏師作の)聖徳太子のために造られた金銅・釈迦三尊像があり、
左右に、太子の父君・用明天皇のために造られた金銅・薬師如来座像(飛鳥時代)、母君・穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇后のために造られた金銅・阿弥陀如来座像(鎌倉時代)が安置されている。
そして、これらを守護するように、樟クスで造られた我が国最古の四天王(白鳳時代)が邪鬼を踏んで静かに四隅に立っている。

平成10年に完成した大宝蔵院で、(我が国の仏教美術を代表する仏像として世界的に有名な)百済観音像(飛鳥時代)、(推古天皇ご所持の仏殿と伝えられる)玉虫厨子をはじめ数々の宝物を見た。

東大門を再びくぐって東に向かい、(聖徳太子の斑鳩宮の跡に建てられた)東院にある八角円堂の夢殿(奈良時代)を訪ねた。
聖徳太子等身の秘仏・救世観音像(飛鳥時代)や聖観音菩薩像(平安時代)の姿はなく、がっかりした。
(見られるのは春、秋の夢殿本尊・特別開扉の時だけらしい。)


            夢殿                                      中宮寺の門 (16時で閉門だった)