明日香村まで


富雄川は、奈良県の最北部のくろんど池・高山溜池から南方向に流れ出し、法隆寺の南で大和川に注ぐ。
まず、この富雄川を丸々一本走り切る(約40km)。
さらに、大和川を少し溯って、左岸に大和盆地の南から流れ来る飛鳥川に入り、その源流近くまで走る(約20km)。
そして、翌日、明日香を存分に訪ねる1泊2日のプランを立てた。



プロローグ

2002年3月中旬の土曜日、9時半頃に家を出て、いつもの如く、大阪府枚方市から奈良県生駒市に入った。

私の大好きな傍示の里は、今日は白梅の揃い咲きで迎えてくれた。(右写真)
伐採した木を燃やして真上に上がる煙も春の風情だ。

富雄川は、生駒市、続いて奈良市を流れ抜けて、大和郡山市に入った。


大和郡山

市境を超えたトコロから川沿いの道が未整備なので、やむをえず左に90°曲がって集落に入る。曲がりっぱなに登弥(トミ)神社(木嶋明神)がある。物部氏の祖神が祀られているそうな。

      

郡山城跡西北西の高台の住宅地を抜けて、富雄川に戻る。
蕾のまだ少し固い桜並木の下を走って、二条橋で右岸に渡る。
四川料理と書いてある派手な店に入って、スタミナラーメンと餃子を喰らう。うまかった。
(13時前だったが、既に途中の田圃の畦で、愛妻おにぎりを2個食っていた。)

真南に流れる富雄川に沿って、「奈良西の京斑鳩自転車道」を走る。
滋光院の蓮池が見えてくる辺りから市街地になる。
JR大和小泉駅の西を抜け、国道25号線を渡る。
池が富雄川に沿っていくつかある。斑鳩高校を左手に見て走り、R109とJR関西本線を越える。
法隆寺駅の東あたりから河川敷が広がり、正面に大和川が見えてくる。
御幸橋で大和川を渡る。(ここまで、自宅から40km弱、昼食休憩を入れて4時間半。)

                            富雄川が大和川に注ぐ
                  
           右手から流れて来るのが大和川。これに富雄川が注いでいる。(合流点左岸下流から)


                            飛鳥川が大和川に注ぐ
                  
              橋の向こうから大和川が流れて来る。右手から注いでいるのが、飛鳥川だ。



--- 飛鳥川を遡る ---

大和川の左岸を少し遡り、2本目の川が飛鳥川だ。
堤防の上に自転車道が整備されている。奈良県の北葛城郡や磯城(シキ)郡のいくつかの町名を見て快適にペダルを漕いで、近鉄田原本線を横切る。
田原本町を過ぎて、橿原市に入ると、少し人家が多くなる。
(橿原市に入るとすぐに、橿原中学校が見えた。) 
新ノ口池を過ぎると、近鉄新ノ口連絡線が左に見える。近鉄大阪線の高架をくぐる。
古くからの落ち着いた住宅地が飛鳥川沿いに広がっている。
グラジオラスのような赤い花が一本だけ咲いていた。

         

JR桜井線をくぐると、「重要伝統的建築群保存地区・今井町」は、すぐ西側にある。(今度寄ってみよう。)
90°左に向きを変え東に向かう。
近鉄橿原線の小さなトンネルを抜けて、南東方向にしばらく進むと、大和八木の市街地が終わり、閑静な町並みになる。

四分町あたりでは左岸の土手道を自転車道にする工事をやっていた。
川沿いの自転車道工事は、用地(が官地なので)買収が不要だ。
やろうと決めればすぐにでもできて、しかも安いものだ。
どんどんやって欲しい。
(明日香でも工事中の自転車道が目についた。イイことだ。)

左の写真は、四分町の鷺栖神社付近から上流をみたもの。

本薬師寺は、飛鳥川のすぐ西にあるはず。

雷(イカズチ)橋を過ぎると、いよいよ明日香村に入る。

よく整備され空いているロードを快適に飛ばし、飛鳥川をさかのぼる。
道は、下左写真の左前方に上っていく。なだらかなスロープで、自転車でも苦にならない。
下右写真は、振り返って、あまりにもきれいな明日香の里を写した。


       

飛鳥川に沿って、豊浦、川原、岡、橘、祝戸(イワイド)の千数百年以上昔からの集落を過ぎる。

稲渕(イナブチ)に入ると、飛鳥川の上に陽物を形どった「男綱」が掛け渡されていた。(下左写真)


綱掛神事は、栢森(カヤノモリ)大字にも伝わっており、毎年正月1日に行われるとのこと。
子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などがこの道と川を通って侵入するのを押し止め住民を守護するための神事らしい。


稲渕大字の綱掛は、神所橋と呼ばれる橋に祭壇を設け、神職がお祓いをして、全体が神式で行われる。















さらに上ると、栢森(カヤノモリ)には、陰物を形どった「女綱」が掛け渡されていた。(下右写真)

この綱掛神事も稲渕大字と同様であるが、こちらの神事は仏式で行われるとのこと。
福石と呼ばれる石の上に祭壇を設けて、僧侶の法事の後、飛鳥川の上に「女綱」が渡されるらしい。









下の注連縄の掛かっているのが福石らしい。
福石の右にあった抱擁のレリーフに大らかな太古からのエロティシズムを感じ、暫し見入った。

           

日暮れも近いので、「飛鳥川さかのぼりペダリング」はここで終了。飛鳥川を約20kmさかのぼったことになる。

                     



--- 明日香を走る ---

橿原神宮駅前のホテルから東に走り、和田池を経由して、まず甘樫丘(アマカシノオカ;148m)に登った。
展望台からの眺望はさすが素晴らしかった。
北には天香具山があり、その左、ちょっと遠くに耳成山が見える(下左写真)。 
西側の畝傍山を背景センターに入れて、マイ・バイクの晴れ姿も写した。

       

丘を降りると、下左写真のような明日香村の農家が点在していた。

丘の北東の甘樫橋で飛鳥川を渡ると、下中写真の「水落(ミズオチ)遺跡」がある。
右の図には、中大兄皇子が日本で初めて作った漏刻(水時計)の様子が描かれているが、この水時計の仕掛けが、水落遺跡の20m四方の壇上に建つ建物の中にあったらしい。
      

飛鳥寺(下写真は、江戸時代の建築)は、6世紀末に完成した我が国初の公式寺院で、発掘調査によると、200m四方の寺域をもち、塔を中心に3つの金堂があった。
その造営には百済の寺工、瓦工、画工が当たったらしく、伽藍配置や瓦の模様にも当時の朝鮮半島の影響が強く出ている。
本尊は、聖徳太子が仏師・鞍作止利(クラツクリノトリ)に作らせたといわれる金銅の釈迦如来座像で、丈六の巨像。これが日本最古の仏像で、飛鳥大仏と呼ばれている。
ただし火災にあったりで、顔面、左耳、右手指3本だけが当初のものらしい。仏前で手を合わせている時に、たまたま胡蝶蘭を届けた人があって、早速、大仏様に供えられた。
大仏の右側に写っている白い花がそうだ。

          

飛鳥寺のすぐ西の田圃の中に五輪塔(下左写真)がある。
蘇我入鹿の首塚だ。中大兄皇子と藤原鎌足に暗殺された入鹿の首がここに埋められたと伝えられている。


田圃の中の散策道を南に走ると、伝板蓋宮(イタブキノミヤ)跡が広がっている(右写真)。
蘇我入鹿はこの宮殿で殺されたのだ。






飛鳥川を西に渡って、聖徳太子創立七寺の一つ橘寺を訪ねる(下写真)。
石段を上ってに東門(正門)から入ると、正面に本堂。その両脇の剥がれている白壁が聖徳太子誕生の地と伝えられる歴史を感じさせてくれる。
(ただし、現存する伽藍は江戸時代以降のもの。)
本堂の南にある二面石は、人の心の善と悪二相を表しているとのこと。
             

橘寺の道路を挟んで北側に、川原寺(カワラデラ)跡が右写真のように史跡公園になって広がっている。
斉明天皇の川原宮の跡である川原寺は、天武天皇の頃には、飛鳥寺、大官大寺とならんで飛鳥三大寺に数えられた。

下左の写真は、7世紀に造られた「石舞台古墳」を東側から撮ったもの。
巨石を使った雄大な横穴式石室であり、総合的には日本一の大きさ。
南側の天井石の重さは75トンあるらしい。
中央の模型の写真で分かるように、下段の封土(盛土)は方形だが、上段の盛土は取り去れれていて、もと円形だったか、方形だったかは不明である。
封土の周辺には石が張りつめられ、空濠がめぐらされている。
蘇我馬子の墓との説が有力。
今では、周辺は右写真のように公園として整備され、家族連れが春の日をのんびりと楽しんでいた。(石舞台は写真右奥にある)
なお、石舞台の名は、昔、狐が美女に化けてこの上で舞ったという伝説かららしい。
    

石舞台公園で休憩の後、快適な東の山裾のロードを走った。

岡寺(右写真)にちょっとお参りした。
ここは、厄除観音として信仰を集めている西国三十三ヶ所第七番札所である。
観光バスでやって来た白装束のお遍路さんたちが元気に階段を上っていった。


脇の地道を進むと、大きなみかん(八朔)がたわわに実っていた。


最後に、ゆっくり訪ねたかった「奈良国立文化財研究所・飛鳥資料館」に寄って、見学・勉強した。

飛鳥地方には、4、5世紀の古い古墳はないのだ。
6世紀になって蘇我氏が有力になるにつれ、その勢力範囲であるこの地方に、古墳が造られるようになり、7世紀には、宮や京の地域の外に、天皇や皇族など有力者たちの古墳が造られた。
飛鳥地方の古墳は、花崗岩の切石を用いるなど、全国的にも例の少ない精巧な横穴式石室や特殊な構造の石室があり、新羅、百済、高句麗の古墳の影響が大きい。
古墳に葬られた有力者あるいは古墳を造った技術者が、朝鮮半島からの渡来人と深く結びついていたと思われる。

飛鳥地方に次々と「宮」が造られるようになったのは、推古天皇の豊浦宮(トヨウラノミヤ)からである。
宮は、初めは天皇の住まいが主で、同時に政治の場も兼ねていたらしい。
天皇が代わるごとに移されて、火災などによって、一代の間に2、3回移されたこともあるとのこと。
国家の仕組みが整備されるにつれて、中国の制度にならい、天皇の住まいのほかに多くの役所が「宮」の中に建てられるようになり、さらに「宮」の周囲に、京(市街)が造られるようになった。
下写真は、「藤原京」の模型を南から撮したものである。
東側に天香具山が迫っていて、北には耳成山が、西には畝傍山が見える。
藤原京は唐の首都長安をモデルに、我が国初の本格的な都市計画によって建設された宮城
で、平城遷都までの16年間、持統、文武、元明天皇の都として栄えた。



飛鳥には、よそでは見かけられない風変わりな石のモニュメントが数多く残されている。
7世紀の都の地で生まれたこれらの石造物が何のために造られ、どんな風に使われたのかはすっかり忘れらてしまったのだ。

左は亀石。ただしこの写真は奈良国立文化財研究所・飛鳥資料館の庭にあった模造品。

右の石人像は飛鳥資料館の庭にあり、男(神)と女(神)が抱き合っていて、水が流れ出るようになっている。
このような洒落た噴水施設があったとは飛鳥人も粋だったのだナァ。




帰路は、雷丘あたりで飛鳥川沿いの道に入り、大和八木まで走った。
近鉄電車に乗って、新祝園で下車。
駅舎がつながっているJR祝園から学研都市線に乗り換えて、河内磐船で降り、天野川沿いに走って帰宅した。
2日間の走行距離は100kmであった。