大和のちょっと 岩船寺、浄瑠璃寺


2002年2月下旬の暖かい日だった。午後2時半を回って、笠置(フジタカヌーの工場)をスタートした。
岩船寺と浄瑠璃寺は京都府相楽郡加茂町になるが、奈良市との境界線から1kmも離れていない。
平城京が大和盆地の最北部に造られたので、当時は両寺は都の北東方向の郊外という感覚だったと思われる。それで、「大和の国」の章に入れた。


岩船寺
岩船寺口バス停から北に入り、上り坂を結構走って、3時半過ぎに、岩船寺山門前に着いた。

山門からは朱塗りの輝く三重塔が見えた。
前に来た時には確か古色蒼然とした塔が新緑に映えていたはず。
聞くと、1年半ほど前に改修工事を施したとのことでピカピカ。

この寺は、天平年間に聖武天皇が阿弥陀堂の建立を発願され、行基に命じて建てられたのが始まりで、堂塔伽藍が整備されて、寺号が岩船寺となったのは平安時代に入って、813年。

門を入ると、誰もいなかった。
真っ直ぐ進み、塔の左手を少し上がって鐘楼(下右写真)に向かう。
ここの鐘はつかせてもらえるのだ。ゴーンと響いている間、一人静かに合掌した。

本堂では、まず本尊の阿弥陀如来座像に手を合わせた。
10世紀半ばの作でケヤキの一木造り(大きな両手は別)。
お体には金箔が塗られ、衣は朱塗りだったそうだ。そういえば朱もかすかに残っている。
阿弥陀さまの四方には鎌倉時代作・四天王立像の持国天(東:向かって右手前)、増長天(南:左手前)、広目天(西:左奥)、多聞天(北:右奥)が固めておられる。
平安後期作の象に乗った普賢菩薩騎象像も住職が孫の相手をしながら自慢していた。

お堂を出ると、入れ違いに、黒いブーツを脱いでドイツ人の青年二人と日本女性が上がって来て、阿弥陀さまに手を合わせていた。
彼等は7半のバイクツーリングだった。次の浄瑠璃寺でも出会った。
アメリカ人よりもドイツ人の方がお寺には似合う感じがした。



岩船寺から下り坂を走って、浄瑠璃寺に向かった。(浄瑠璃寺も岩船寺と同様、真言立宗)


浄瑠璃寺

山門に着くと4時半を回っていた。冬場は閉門が4時なので、門扉は片方が閉まっていた。
遠慮がちに門をくぐると、人の姿はなかった。落ち着いた雰囲気をゆっくり味わった。

             

         


浄瑠璃寺の伽藍配置は池を中央にして、東に薬師如来を祀る三重塔が、西に阿弥陀如来9体を祀る本堂がある。
薬師如来は東方浄土(浄瑠璃浄土)の教主で現実の苦悩を救い、西方浄土へ送り出す遣送仏。阿弥陀如来は西方浄土(極楽浄土)へ迎えてくれる来迎仏。
浄瑠璃寺では、東の薬師仏に苦悩の救済を願い、その前で振り返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝の形であると後から知った。

                 
浄瑠璃寺は平安中期、後期のいわゆる藤原時代のお寺である。
この時代以前の古い寺院の金(本)堂、あるいは、都の大極殿などでは南面(ミナミオモテ)が原則であるが、平安中期から京都を中心に、阿弥陀如来を東面に祀り、その前に池を造る型が出てきた。
平等院鳳凰堂はその典型。
ちなみに、法隆寺の金堂は南面し、その中に、東側に薬師如来、中央に釈迦三尊、西側に阿弥陀如来が安置されている。



【如来と菩薩memo】

釈迦の教えにしたがって進む人を菩薩と呼ぶ。その道の最終目標は、煩悩の河を渡った向こう岸の彼岸である。
彼岸にまで到達し完成した偉大な人格を如来(仏)という。
礼拝の対象となる如来像は、装飾はなく、大きな徳と次元を越えた智慧を示す二重の頭(肉髻ニッケイ;髻は、もとどり)、ならびに彼岸へ到達した象徴である指の間の膜(曼網相)を持つ。
眉間には、普通の眼では届かぬところを見通す光を放つ白毫があり、喉には、円満な人格の完成を表す3つの輪(三道)がある。
菩薩像は、飾りを着けていて、肉髻と曼網相は持たない。