玉露と古墳の丘・飯岡(イノオカ)


京都府の京田辺市は、西で大阪府(枚方市)、奈良県(生駒市)と接している。
「京阪奈丘陵」と呼ばれる丘陵地帯が市域の西側にあり、東は木津川である。
京都・奈良・大阪を結ぶ三角形のほぼ中央に位置し、丘陵の麓には木津川が造りだした肥沃な田園地帯が広がっている。
このような地理的好条件によって古くから文化が開け、南山城の中心であった。京都・奈良間の交通の要衝でもあり、遺跡や文化財も数多く残されている。
宇治茶の中でも最高級品の玉露は、京田辺市の特産であり、全国的に知られている。
タケノコ、田辺なす、一休寺納豆、茶筅なども有名とのこと。
『飯岡』は、京田辺市のもっとも東の地区で、木津川の堤防とつながった名前の如く小さないい岡で、岡の周りには田畑の広がる恵まれた地形だ。
木津川サイクリングロードを走っていて岡の集落に出会い、その落ち着いた優しげなたたずまいに心引かれて寄り道をした。
2001年4月に初めて訪ね、手入れの行き届いたきれいな町というのが第一印象だったが、古墳の在処を聞きたいと思ってもあまり人と出会わなかった。
ところが、5月になると、にぎやかになっていた。
やはり飯岡は玉露の丘である。
なお、『飯岡丘陵』は、木津川の蛇行浸食過程で、周りを川の浸食によって削り取られてできた孤立丘陵であり、平野部にあるものとしては珍しいとのこと。


茶摘みと製茶

2001年5月12日、快晴。先週に続いて飯岡を訪問した。
大勢の地元の女性のにぎやかな話し声が丘の茶畑の方から聞こえる。
行ってみると、ちょうど休憩時間で茶摘女の方々が茶畑の黒い覆いから出て、斜面の上から下に1列に陣取っている。
近寄りがたく、ちょっと行き過ぎて、行ったり来たりして時間を費やす。
そのうち茶摘みが始まった。恐る恐る近づき何枚か写真を撮らせてもらった。
やがて大きな袋を3つほど持った男性が軽トラでやってきて、女性の手元の茶摘み籠から新茶を集めて回る。見る見る袋がいっぱいになる。
「すぐ先の家で製茶をしているから、寄っていけばよい」と親切に教えてくれた。
厚かましくもお邪魔させていただく。農家の納屋のような建物が製茶工場である。挨拶もそこそこに勝手に写真を撮らせていただいた。


 
山青し玉露の茶摘み菰の中
 飯岡の玉露の丘の茶摘みかな
 晴れやかに茶園に揃う女子衆

 歌よりもお喋り一番玉露摘み
 しゃべり摘み一人摘み皆玉露摘み

 飯岡の玉露摘む中茶髪あり
 玉露摘み歳の差はなし薦(コモ)の中
 茶摘女の三時の休憩賑やかさ





 『茶畑は黒一色』 

 宇治茶ブランドで知られる京都府南部に茶畑を覆う黒いシートが増えている日光を遮ることでうまみを引き出す「被覆栽培」が広まったためで、若葉の緑まぶしい茶摘み風景は、急速に様変わりしている。
国産の茶葉を使ったペットボトル茶の消費拡大や後継者難で、京都府南部の茶畑は減少気味。
そんな中、玉露や抹茶など高級茶生産に注目、黒色の化学繊維シートが約10年前に開発されたのをきっかけに普及が進み、一躍、利用されるようになった。  (読売新聞2001/5/26夕刊より)


   茶を摘みて 蒸して揉み揉み 乾かせり

   下図は、茶を蒸して、揉んで、乾かしている情景  (Microsoft/Shogakukan Bookshelfより転載)
            


              茶摘籠男の子は運搬掛なり
              飯岡の軽トラ往復玉露摘み
             門入れば納屋の茶作り匂ふなり


       
    まず、目方を量る。顔がほころぶ。    次に、蒸し器に少しずつ入れていく。

      
    湯気とともに出てくる柔らかい葉。    精揉機が揉むのを思わず手伝ってしまう。

      
        左は中揉機、右は精揉機。やかんの中は玉露かな。

       
           『 薄暑中 玉露の最終 仕上げかな 』

主と思われる貫禄のあるおっちゃんが茶筒を持ってきて「あげる」と言う。
びっくりするも有難く、『飯岡の玉露・新茶』を頂戴した。写真を持ってまた来ますと、礼を述べて失礼する。
(帰りに表札を確認すると、「ix」と書かれていた。)
道を少し上がると、咋岡(クイオカ)神社があった。
夜、頂いた玉露の茶筒をそっと開けて、その香りを胸一杯に吸い込んだ。

 今日摘みし茶筒を開けて深呼吸

                          (2001/5/12)

【玉露の豆知識】


春先には玉露の茶畑に黒い覆いが掛けられる。
この覆いによって、茶葉が霜から護られるとともに、光合成が抑えられてクロロフィル(葉緑素)が増え、葉の色がより濃くなる。
また、玉露のうま味、甘味の成分であるテアニン(アミノ酸の一種)が急激に増加し、香りの元となる揮発成分が凝縮される。
この覆いを掛けるタイミングは重要で、最上級品の玉露の場合には、0.5〜2葉期に(一年中、設置されている)枠組みの上に黒い合成繊維のキャンバス地または薦筵(コモムシロ)をかぶせる。 
この覆いは一気にかぶせず、2、3日かけて徐々にかぶせて、新しいつぼみの成長を徐々に遅らせる。茶摘み前の3週間以上、日光の95%を遮る。
なお、茶摘みが終わったらすぐに茶畑は刈り取られて葉は茎からはずされ、刈り株を守るために、葉のない小枝をその上に広げておく。


【お茶の豆知識】

茶はツバキ科の常緑低木。中国南部(四川・雲南・貴州)の霧の多い山岳地方の原産。
10〜12月にかけて、芳香のある径3cmくらいの白色の5弁花を下向きに咲かせる。やくは黄色。
(頼朝が鎌倉幕府を開いた)1192年、栄西が宋から茶の種子を製法とともに持ち帰ったことによって、栽培が盛んになり、我が国に喫茶の風習が広まった。
茶葉には酵素が含まれていて、茶の葉を摘み取ると発酵が始まる。
が、緑茶の場合は加熱によって酵素の働きを止めてしまう(不発酵茶)ので、成分の変化がほとんどなく、ビタミンCが多い。  
ちなみに、紅茶は発酵茶で、よく揉んで1〜3時間、発酵(タンニンを酸化)させた後、加熱、乾燥する。
そのため、ビタミンCは酸化で消失するが、他の成分の化学変化により紅茶特有の色と香りが醸し出される。ウーロン茶は、発酵を途中で止める半発酵茶。

右の写真は、飯岡丘陵の西端から西を望む。左の茶畑は茶摘みが終わり、黒い覆いが開かれて、ちょうど茶の葉が大胆に刈り込まれたトコロだった。田植えの始まった田圃の向こうには、天神山そして同志社の建物も見える。(5/26)


白鷺の並んでいる田植風景

上述までの本ページのリリース許可を「ix」家にもらいに行ったところ、お留守だった。
木津川堤防からは田植え風景が見えていたので今日は田植えかも知れないナと思い、丘を降りて普賢寺川方向の田圃に向かった。なかなかいい景色である。
飯岡丘陵をバックに田圃と田植機が入り、逆光にならないアングルを求めて農道を走り、軽トラの後ろに自転車を止めた。
カメラを構えようとして、女性に挨拶すると、なんと「ix」さんの田圃ではないか。またまた、写真協力をお願いした。(2001/6/10)

この地区に昨日、木津川から下記の「樋、用水路」によって通水され田圃に水が張られたので、今日は日曜日でもあり一斉に田植えの様子。

飯岡は丘陵地のため水不足に悩まされていたが、豊田武兵衛によって、足かけ19年の歳月を掛けて1772年「万年樋」が築かれ、飯岡地区に大きな恵みをもたらすことになったとのこと。

木津川サイクリングロードで、玉水橋の手前300mくらいの堤防に「飯岡の渡し跡」の標示がある。
すぐ横に、堤防と接する飯岡(イノオカ)集落の道路に面して、お墓のような古い石碑(写真)があり、「用水発起豊田碑」と彫られている。
裏側の碑文はもう読めない。石碑の左手の大きめの石柱には「水路開削 祖贈従五位豊田義憲翁旧蹟」とある。こちらの裏面には、昭和四年春・・・と書いてある。

この石柱の4m左に「飯岡山開拓祖 小山伊織翁・・」と彫られた、さらに古い小さな碑があった。

先人の苦労によって豊かな農耕の地、飯岡があるようだ。

右上の田植えの写真を撮った後、普賢寺川の堤を下流方向へ走っていると、飯岡の田圃の端っこ、木津川と普賢寺川の堤防に隣接する辺りに白鷺が何十羽も並んでいる。
すぐ隣の田圃では耕耘機が快音を出して田おこしをしている。そっと堤防を降りてカメラを構えシャッターを押すと、一斉に飛び立ち1つ向こうの田圃に移った。
畦道を進み、またカメラを構える。今度もシャッターを押すとその音で、隣の田圃に移ってしまった。
耕耘機のすさまじい音は気にならないらしい。田おこしが終わって田植えをしている田圃の方には行かずに、耕耘機の近くに集まっているのは、田を掘り起こして出てくる虫などを楽しみにしているのだろうか。



飯岡古墳群
      

写真左のゴロゴロ山古墳と右の薬師山古墳は、飯岡の丘の頂上部に、東西に並ぶようにあった。
薬師山古墳は全体に桜の木が植わっていて花見時には、見晴らしもいいのでさぞかし賑わうことであろう。
一方、ゴロゴロ山古墳の方は鬱蒼と木々が茂り、カラスの住処になっていた。丘の頂近くでアンテナ塔にも好立地なので、側には、ツーカーホンのベースステーションがあった。

車塚古墳の案内立て札が丘陵の西端にあったが、お茶が植えられていた。
  

飯岡 車塚古墳 古墳時代前期後半(4世紀末)に造られた丘陵端利用の前方後円墳。全長90m、後円径60m。後円部の頂上に竪穴式石室がある。古墳の表面は葺石でおおわれ、周りは埴輪で囲まれていた。 副葬品、句玉、菅玉、など多数出土して、東京国立博物館に展示されているとのこと。なお、車塚古墳とは前方後円墳の1呼称で、墳丘を車の両輪に見立てたものを言う。
ゴロゴロ山古墳 飯岡丘陵のほぼ中央、頂上付近に位置する古墳。5世紀のもので、南山城地方を代表する円墳。径60m、高さ9m。
 (継体天皇の皇子の椀子(マリコ)皇子の墓と伝承されている。)
薬師山古墳 5世紀の円墳。径38m、高さ6m。頂上に江戸期の石仏が安置されている。
 (椀子皇子の皇子にあたる桜井王の墓と伝承されている。)


上表以外にも、古墳時代を通じて多くの墳墓が造られ、木津川の水運に関係する一族の墓と考えられている由。



飯岡から、普賢寺川の堤に沿って西へ進み、近鉄とJRの線路を渡ると、直線距離で500m(飯岡丘陵の中央から2km弱)西方向に小高い天神山があり、弥生時代の集落跡(右写真、木々の間から隣接する同志社の建物が見える)が残されている。
立ち寄ったので、この辺りの歴史の一端を示す「おまけ」として、以下に、同志社大学のパンフ「遺跡と考古資料」より抜粋・引用紹介させていただく。(同志社大学文学部考古学研究室によって1968年に調査されたとのこと。)


田辺天神山遺跡

木津川流域に展開する南山城の平地を一望できる平地との比高差約40mの丘陵端部の小平坦面を利用して、弥生時代後期に集落が営まれた。
集落跡は20戸の竪穴住居が、広場(Q太郎注:下の遺構配置図で、中央柱穴群と書かれているトコロ)をとり囲むように位置している。
住居跡は中央に炉をもち、4〜8本の柱により建てられ、その平面形は円形と方形が大半を占め、前者から後者へと変化している。
広場には高床倉庫をはじめとした集落居住者の共有施設が存在したとみられる。
出土遺物には舶載とみられる裏に装着装置のある半球形青銅製品(類例は佐賀県布施ケ里遺跡・西山田二本松A遺跡、熊本県神水遺跡より出土)のほか、
鍬先形鉄器をはじめ、刀子・やりがんな・鏃などの鉄器、斧・鏃・収穫具などの石器が弥生式土器とともに出土し、利器としては石器が減少傾向にある。
弥生時代以降の集落は低地に立地することが多いのに対し、天神山遺跡は丘陵上に立地する高地性遺跡(集落)で、「魏志」倭人伝にみる「倭国乱れ相攻伐すること歴年」という動乱と関係する遺跡とみられている。

      


【参考・引用サイト】
・京田辺市 : http://www.kyoto-np.co.jp/keiji/kyoto/tanabe/
玉露・茶  : http://www.melangee.com/world/tea_and_coffee/1998_7_2.html
・古墳・遺跡 : http://village.infoweb.ne.jp/~murata35/kansaitanboki/2000.11/kyotanabe/index.htm