Access to 木津川ロード ( 枚方 → 八幡 )


拙宅から枚方大橋の河川敷公園までは2km弱である。
淀川堤防に上がると、よく整備された河川敷が広がり楽しくなる。
ここから淀川縁の道を北に走って、樟葉で京阪電車を横切り、再び今度は旧・京街道を北進する。
町楠葉の旧市街を進み、線路際の細い道に入ると、右手に「樟葉砲台跡」の旧跡がある。ここから田圃の中の道をポタリング。
途中、久修園院を右手に見てさらに北に進むと、枚方市の北西隅で京阪電車の踏切を渡り八幡市にはいる。木津川はもうすぐだ。

【淀川河川敷公園・枚方地区】

右の噴水は2002年大晦日の夕暮れ前の写真である。
公園のほぼ中央あたりから北、すなわち天王山の方を向いて撮った。
親水公園の正月のイベントに向けた準備であろうか、噴水を試験稼動可動していたようだ。

天野川河口に架かっている河川管理道路の橋を渡って、公園に別れを告げ、雑木も生えている藪の中の道路を1.3kmほど走ると、右手の茂みの中に磯島実験池(釣り池)がある。


【磯島実験池】
こちらの方がよっぽど親水的だ。
いつも10人以上の釣り人が長閑な鮒釣りを楽しんでいる。
鯰も釣れるそうだ。鴨やバンがいる。カワセミも住み着いているとのこと。
釣り人と魚、水鳥との長年月をかけた共生が平和的に続いている。

(ココまでは、交野ヶ原周回コース”D.淀川を突っ走る”の後半を逆送することになる。)
この実験池の横を走って、いよいよ快適な幅の広い見通しのきくロード(河川管理道路)をぶっ飛ばすことになる。




【河川管理道路】
左写真は逆光であるが、ロードの中ほどで南を振り返って撮った。
どこまでも道が続いている。
道と冬枯れの藪と何本かの雑木、それに曇り切った空しか見えない。(あっ、自転車が写っている。)

右写真は進行、北方向である。
中央の山は天王山。雪に煙っているようだ。この日も寒かった。

このロードは平日には砂を運搬するダンプが群れをなして走っている。淀川の湾曲部に堆積する良質の川砂は大事な資源なのだ。

ロードの右手は実は牧野パークゴルフ場になっている。
その間には茂みの緩衝地帯があるのだが、下左写真のようにロードとゴルフ場が引っ付いている部分もある。
写真右奥は樟葉駅手前の高層マンション群だ。中央には建築中のタワーのような超高層マンションが立っている。
牧野ゴルフ場の北側を少し分断する穂谷川を渡り、牧野グランドを見て、長尾の大池から流れてくる船橋川を渡ると、今度は樟葉パブリック・ゴルフコースの南端である。
この河川敷ゴルフ場の名門で、実は小生、昔ゴルフを少しやっていた頃、超まぐれのホールインワンが出た。(1986/9/15,OUT-5 125m)

  【牧野パークゴルフ場】                        【樟葉パブリック・ゴルフコース】                    【ホールインワン楯】


樟葉ゴルフコースの南手を堤防に向かって上がっていき、淀川堤防上の旧・国道1号線を横切り、歩道をさらに北進する。
京阪樟葉駅の先でガード下をくぐり、すぐの信号を左折すると、旧・京街道に入る。


【旧・京街道】
左写真の右下の石碑には、「旧京街道」と書かれている。
枚方宿あたりと同様よく見ると街道筋は一段高く、街道から2軒目の家からは地盤が低くなっているのが分かる。
文禄堤の上に街道が走っていた証拠であろう。

右写真のような昔ながらの屋敷も残っていて、人が住み生活をしている。
門には注連飾りが写っている。先日は外回りを箒で掃いておられた。

落ち着いた「町樟葉」の町並みである。

道なりに北進すると、舗装道路は右折し、線路と平行には細い土の道が続いている。
学童用に「マムシ危険。通るな。」と書かれた小さな看板が立っていた。


この角地に『禅(曹洞)宗・久親恩寺』がある。
左写真はそこに取り壊されずに残っている朽ちかけた門である。
簡単な突っ張り棒が何本かあるが、台風の風をまともに食らうと一溜まりもないだろう。
しかし、絵になるではないか?
昔は、京街道に面した禅寺だったのだろう。

細い道は久親恩寺の北側で右折する。
桜並木の低い土手道だ。そこに「樟葉砲台(台場)跡」があった。

下左写真の石碑には、「戊辰役橋本砲台場跡」と彫られている。
そこに掲示されている枚方市教育委員会の説明(右下写真)をそのまま以下に引用する。



【樟葉砲台(台場)跡】
元治元(1864)年、徳川幕府は大阪湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸のここ楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けた。
慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、薩長軍を中心とした官軍は幕府軍を撃破したが、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利をみて官軍に内応し、
小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を浴びせた。
これにより、淀川を挟んで両台場は交戦することとなった。
楠葉台場は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、台場の守備兵は砲弾を撃ちつくしたのち、砲を破壊して退去した。
久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていたが、明治末期の京阪電鉄の敷設に伴い土砂は運び去られた。
なお両台場に設置されたのは、カノン砲4門であったと考えられている。

京・大坂間の水陸ともの交通の要衝は、幕末には国防上の重要な戦略拠点であったのだ。






【久修園院 クシュウオンイン、クズオンイン】

真言律宗・別格本山・天王山木津寺・久修園院は、行基が五畿内(大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国)に建立した49院の1つで、奈良時代の神亀2年(725)に創建されたと伝えられる。

下左の写真は、いつも閉まっている西面の山門を中心に現・久修園院の全景が写っている。下右は同院の山門。

  


久修園院の本堂は「釈迦殿」である。
           


しかし、愛染明王の方が、今の久修園院では有名な感じである。
下左の写真にも偶々であるが、愛染めぐりに訪れた中年男性の後ろ姿が写っている。また、下右のように(今は閉まっている)山門からの参道が庫裏を左手に真っ直ぐに愛染明王に延びていた。

    

【愛染明王】あいぜん‐みょうおう (梵RDgarDja の訳語。愛着染色の意)
真言密教の神。愛欲を本体とする愛の神。全身赤色で、三目、六臂(ろっぴ)、頭に獅子の冠をいただき、顔には常に怒りの相を表わす。
近世では、恋愛を助け、遊女を守る神としても信仰された。また、俗に、この明王を信仰すると美貌になると信じられていた。
     from Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shogakukan 1988

蛇足ながら、西国愛染めぐりの霊場は17番まであり、以下の如し。 (http://www.kcn.ne.jp/~hirotaku/saizen/saizen.htm から引用)
   第 1番 勝鬘院愛染堂 和宗 大阪府大阪市天王寺区
   第 2番 松泰山 東光寺 高野山真言宗 兵庫県西宮市
   第 3番 獨鈷山 鏑射寺 真言宗 兵庫県神戸市北区
   第 4番 摩耶山 天上寺中院 高野山真言宗 兵庫県神戸市灘区
   第 5番 再度山 大龍寺 東寺真言宗 兵庫県神戸市中央区
   第 6番 須磨寺塔頭 正覚院 華厳宗 奈良県奈良市
   第 7番 恵龍山 大聖寺 真言宗 岡山県英田郡作東町
   第 8番 東寺 東寺真言宗 京都府京都市南区
   第 9番 覚性律院 天台宗 滋賀県大津市
   第10番 九関山 地蔵院 真言宗御室派 三重県鈴鹿郡関町
   第11番 遍光山 愛染院 真言宗豊山派 三重県上野市
   第12番 天王山 久修園院 真言律宗 大阪府枚方市
   第13番 勝宝山 西大寺 真言律宗 奈良県奈良市
   第14番 生駒山 宝山寺 真言律宗 奈良県生駒市
   第15番 槙尾山 施福寺 天台宗 大阪府和泉市
   第16番 高野山 福智院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町
   第17番 長老坊 金剛三昧院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町
  

私は、13番の西大寺(「秋篠川から西の京へ」)および14番の生駒山宝山寺(「生駒縦走1(北へ)」)には以前、お参りさせていただいている。


参道すぐ右手に 『海上安全・霊亀社』の看板が目についた。小さなお社であるが、”赤いカヌーの一人旅”の安全祈願をさせていただいた。
          


この久修園院のある楠葉中之芝2丁目は、枚方市域の北西の角地で、北側は京都府八幡市である。
そして淀川を挟んで、大阪府三島郡島本町、京都府乙訓郡大山崎町とも境界を接している。
”ひらかた文化財だより第47号(http://www.asahi-net.or.jp/~PQ5Y-FJE/dayori/dayori_47.htm)”によると、この地で「楠葉中之芝遺跡の第33次調査」が平成13年2月14日から20日まで、
土地区画整理事業に伴う試掘調査(7本のトレンチ、約103u)として行われ、久修園院のすぐ西隣の水田で、幅約3mの鎌倉時代(13世紀)の久修園院の西端と思われる大溝のほか、平安時代以前の柱穴や溝なども見つかっている。

同地のすぐ上流で、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となっていて舟運に恵まれ、陸路では古代の幹線道路も通過していて、ここは古代から物流や人々の往来の要所だったらしい。
また、長岡京期(784〜794)〜平安時代の古代幹線道路の一つである「南海道」も、この付近を通過していたとのこと。

久修園院の淀川対岸には山碕院 (同じく「行基49院」の1つ、天平3年(731)創建) があり、その間に架けられたと言われる山碕橋など、この付近には、社会慈善事業に尽力した行基の足跡が色濃く残っている。


踏切を渡って、八幡市に入ると、すぐに旧・橋本遊郭を抜ける道に入る。

【旧・橋本遊郭】

昔の面影が残る静かな町並みで、落ち着いた雰囲気がなんともなくいい。


   

「橋本」は行基が725年にココに架けたと言われる山崎橋の橋の袂にあるのが地名の由来。文禄年間の架橋を最後に橋は架けらていず、対岸の山崎とは昭和37年まで渡し船で往来していた。
京街道の宿場町であり、淀川対岸との渡し場でもあったので、「橋本遊郭」は元禄時代から大いに賑わったとのこと。


【橋本宿】

京街道は遊郭の端で何故か鍵型に右に曲がり、すぐまた淀川に平行になっている。
橋本宿の中心部だ。京阪電車の橋本駅もあるし、橋本交番、八幡橋本郵便局もある。右写真は、そのあたりの住宅。


京街道をさらに北に進むと、文政2年の道標があった。
その辻を少し東に入ると、石清水八幡宮の常夜燈があり、天明7年と彫られている。


               


鍵型に曲がって現・淀川堤防(その上は旧1号線、今は主要地方道)の真下の道をさらに北上すると、大きなクスノキが立っている。樹齢1000年以上と言われ、橋本の渡しの目印だったらしい。
この木の根元あたりが文禄堤の天端テンバ高だったのでは? 写真左上の現在の堤防は、それより2〜3m高くなっている。

道なりに走ってから右折し、京阪電車が八幡市駅の先で木津川鉄橋に差し掛かる高架の直前で、急角度に左折して路地に入ると、突き当たりが堤防であり、木津川自転車道へのランプが付いている。
ランプを登ると、木津川自転車道の京阪鉄橋のトコロに出る。
自宅からここまで、16km強であった。真っ直ぐ走れば1時間か。