上 町 台 地 (大阪城〜四天王寺)


2003年12月中旬に、大阪の上町台地、その中心部の上町筋を大阪城から四天王寺まで走った。
大阪の歴史もなかなかよかった。

上町台地とは

縄文時代、大阪平野には住吉辺りから北側に「上町台地」が岬となって突き出ていた。
岬の西側は、もちろん大阪湾。東側は「河内湾」であった。
その後、河内湾が淀川や旧大和川の土砂堆積により次第に狭く浅くなって、岬の突端が対岸に届き、「河内湖」になった。
右図(BAMBOOCLUB HPより抜粋)はその頃の地形を表している。

JR環状線森ノ宮駅の近くに大規模な貝塚遺跡があり、下層(縄文中期から後期)からは海でとれるマガキが、上層(弥生中期まで)からは淡水産のセタシジミが見つかっている。
海岸から10kmもある森ノ宮に、何故、貝塚があり、何故、下層は海水の貝で上層は淡水の貝なのか?
右図の如く、縄文時代には海は生駒山麓の近くにまで深く入り込んでいた。
そこに突き出していた岬が「上町台地」で、森ノ宮遺跡はその岬の岸辺にあった。
その後、岬の先端に砂州が延び、弥生時代には陸地側に取り残された海域が「潟」になり淡水化していった。
さらに古墳時代になると、砂州が対岸に届き、潟は湖に変わった。
なお、上町台地部分の現在のマップがネット上にあった。 
私はこのマップを見ながら「上町台地」を走った。感謝で〜す。


OBP(大阪ビジネスパーク)

京阪電車の京橋駅で下車。
エレベータで4階にあるホームから地上まで降り、BD−1を組み立ててスタート。
右手前方にクリスタルタワーを見て寝屋川を南に越え、総面積26haの再開発ビジネス街OBPの高層ビル群を縫って走る。
左にそして右に曲がり、ホテルニューオオタニの南西の橋で第二寝屋川を渡ると大阪城公園だ。(右図はOBP開発協議会のHPから転載)


大阪城公園

大阪城公園写真大阪城公園は、107.7haが完成しているそうな。
結構広いのだ。左写真で、超高層が林立しているOBPと比べても、やっぱり広い。
中心にある天守閣は昭和6年に桃山建築の様式を取り入れて建てられたもの。
秀吉の大坂城は1615年(元和元年)、大阪夏の陣でほとんどが焼失した。
その後、徳川初期に修築、修造されたが、天守閣などは雷や失火で再三焼け、明治元年、鳥羽伏見の戦いで、本丸、二の丸の大部分が焼けてしまった。

今回は、下記の地図の北東に記されている噴水のトコロから大阪城公園に入った。
(上の写真と下の地図は(財)大阪市公園協会ホームページから転載)


噴水の周りにはいつも人々が集まっている。この時は土曜日の早い時間だったので、若者のグループがが縄跳びで遊んでいた。
右手のガラス張りの高層ビルはクリスタルタワー。左手は大阪城ホール。



大阪城ホールの南の通路を西へ抜けて、外堀を渡ると、青屋門。
この門は徳川に入って元和6年(1620)頃創建され、大阪城の非常口になるらしい。
昭和20年8月の大空襲で大破したものが復元された。



青屋門をくぐると、内堀の向こうに天守閣が見える。


今や大阪市内の梅の名所である大阪城公園・梅林の小径に入る。
冬の梅林越えの天守もきれいだ。



梅林の東手から東外濠越しに東北方向に見るOBPもなかなか絵になっていた。
梅林を出て内堀を右手に見て登り坂を上がり切ると、「蓮如上人碑」が建っている。
南無阿弥陀仏と彫られている字は蓮如真蹟の写しとのこと。
本願寺第8世・蓮如が1496年に、摂津国東成郡の大坂に坊舎を築いた。
この「大坂」という地名は、1498年に蓮如の「御文章」に史上初めて現れたとのこと。
大阪の始まりだったのだ。
1532年、山科本願寺が炎上すると本願寺は大坂に移され本願寺教団の中心になった。
やがて大坂(石山)本願寺は織田信長と対立し、1570年から11年間の石山合戦の後、大坂を退去し、1591年には京都へ移転した。
そして豊臣秀吉が大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設したが、大坂夏の陣で炎上し、江戸幕府によって再建された。
大坂(石山)本願寺の遺構は未だ確認されていないが、この辺りが遺跡と推定されている。フムフム・・・。(以上、大阪市教育委員会の説明から抜粋)



蓮如上人碑から東に進み、大坂城の東南にある搦手口の玉造口に向かった。
明治元年の城中大火で消失し、陸軍によって玉造門の撤去、石垣部分の変形がなされ旧観が全く残っていない。
なお、玉造の名称は玉造部(宝石加工技術者)の集落がこの南方に古代からあったことによるらしい。



玉造口から真っ直ぐに南下し、ピース大阪の建物に併設されているスロープを上がって、歩道橋で中央大通り&阪神高速東大阪線を越えた。
中央大通りの歩道を少し西に走って、上町筋の1本東にある名前のない?南北の筋(上町筋と玉造筋の中間の筋)が、上町筋より車の量が少なくて落ち着いた雰囲気であり、輪行にお薦めである。
そこの交差点に左写真のような道標が出ていた。
この矢印は筋の南に面しての方向である。「大阪歴史の散歩道」の案内標識らしい。


ココで上町台地を南下する前に、右(西)0.4kmの難波宮跡に寄り道することにした。






難波宮 ナニワノミヤ 跡
難波宮跡は大坂城のすぐ南西にあり、上町台地の最も高い位置になる法円坂に広がっている。
大阪市教育委員会の説明看板によると、大化改新(645)にともなう難波遷都以来8世紀末まで約150年間、難波宮は日本の首都として、また副都として、
日本の古代史上に大きな役割を果たした。
昭和29年(1954)以降長年にわたる発掘調査の結果、「前期」・「後期」2時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地に残っていることが明らかになった。
現在、内裏・朝堂部分約9万uが、国の史跡に指定され、史跡公園として整備が進められている。
右写真は上記看板の説明図で、下が北。赤い部分が「前期」、青い部分が「後期」の遺構だ。
左上の史跡公園の写真(公園の南から北方向を撮った)の真ん中あたりに石造りの壇が写っている。
この壇は「後期難波宮」の大極殿の基壇を復元したもので、右写真下中央の青く彩色された部分の中心部に当たる。

(財)大阪都市協会のHPにさらに詳しい説明がある。以下の図は同HPから転載させていただいた。

「前期難波宮」は大化改新による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)であるらしい。難波津周辺
そして「後期難波宮」は、聖武天皇が難波復興の中心事業として、神亀3年(726)から造営を行ったものだという。

言うまでもなく、古代の政治の中心は飛鳥・奈良地域であったが、これらは内陸部に位置していた。
一方、難波の地は海上交通の要衝であり、西日本各地を治めるにも、中国や朝鮮と交流するにも、 非常に重要な意味をもっていた。
特に難波津(なにわづ)は、当時の我が国きっての国際港だった。(右図は5世紀後半の難波津の様子)
復元イメージ「大化改新」のはじまりとともに新しく即位した孝徳天皇は、気分を一新して政治を行うために、 大化元年(645)12月、難波に遷都した。
難波の地が選ばれたのは、難波津という国際港を擁し外交や流通の中心として重要な位置にあったからであり、孝徳天皇は、新政権のシンボルにふさわしく、 内外にその権勢を誇示できる宮殿づくり(難波長柄豊碕宮)に着手した。
この「前期難波宮」の外観上の大きな特徴は、建物が掘立柱形式で、屋根に瓦を用いない’日本古来の建築様式’だった。
宮殿中心部の左右には八角形の楼閣建築がそびえ立っていた。大極殿
左図は「前期難波宮」中心部の復元イメージである。

奈良時代に入って、聖武天皇は神亀元年(724)、皇位につくとすぐに難波宮の造営を計画した。
当時首都は平城京で、 難波は「副都」であったが、そのシンボルともいうべき「前期難波宮」は火災で焼け落ちたままになっていた。
これを復興するべく、「 後期難波宮」の造営が神亀3年(726)から始められた。前期難波宮が’日本古来の建築様式’で建てられたのに対して、「後期難波宮」では’大陸式の建築様式’が採用された。
基壇上に礎石を据えその上に柱を立て、屋根には瓦が葺かれた。
7世紀末に造営された藤原宮以降でも、 大極院や朝堂院などの中心部の区画は、’大陸式の建築様式’で飾られるようになっていった。
なお、延暦3年(784)に桓武天皇により平城京から長岡京への遷都が行われた時には、「後期難波宮」の大極殿や朝堂院の建物が解体・移築されたそうだ。
なお右図は「後期難波宮」大極殿の復元図である。



越中井 エッチュウイ


右写真の案内標識のトコロに戻って、いよいよ上町台地を南下する。

すぐに「越中井」だ。左写真の左下に見える四角い石造がそうだ。
細川
越中守忠興の屋敷の台所にあった井戸らしい。忠興公の夫人であったガラシャ(明智光秀の娘で、熱心なキリシタン)が石田三成に屋敷を取り囲まれて、
ぜひもなく家来に首を打たせ家屋敷に火を放って火中に果てたと言われている。

ここはいつも地元・
越中町の皆さんによって掃除されていて、きれいだ。




聖マリア大聖堂

越中井から100m南下した玉造2交差点の北東に聖マリア大聖堂の立派な教会がある。
南壁の中央上部には聖マリアの大きな立像(左写真では木の陰になっている)がある。
そして、右端には細川ガラシアの立像(右下写真)があり、左端には高山右近が立っていた。

聖堂の中もなかなか立派で、正面祭壇のマリア様は、寺社仏閣の障壁画を多く描いている堂本印象画伯が描いたものだ。
ステンドグラスも実にきれいだった。
遠慮がちに一番後の椅子に座って暫し目を閉じた。


細川ガラシャは上町台地の地にしっかりと生き続けていた。






次に、玉造2交差点を少し東に行って、玉造稲荷神社を訪ねる。




玉造稲荷神社

この神社の創祀は垂仁天皇18年(B.C.12年らしい)にさかのぼると境内に書いてあった。ともかく古いのだ。
聖徳太子が物部氏と仏教受容問題で争った時に、この玉作岡に陣を敷き、この神社に戦勝を祈願したとか。
また豊臣時代には大坂城の守護神として豊臣家の崇敬が厚かったとか。

大坂城三之丸に当たるこの神社の南西には千利休の屋敷があって、当時お茶の水を邸内の井戸で汲んでいたらしい。
この近くの’清水谷’という地名も良質の水脈があるので名付けられた由。(摂津名所図絵大成)

大阪女学院

この上町台地の道筋には学校が多い。それも皆美しい佇まいだ。街の景観として正門付近をカメラに収めることにした。

最初は空堀カラボリ町交差点の少し手前にあるミッションスクール、大阪女学院(中学・高等学校・短大)だ。
落ち着いた物静かな雰囲気が印象的で、緑と正門のアーチが気に入っている。




府立清水谷高校

空堀カラボリ町交差点の南西に清水谷高校がある。
船場中学校で同窓だったいい女の子の多くが、清水谷高校へ行った。
半世紀近く前のことだから、校舎、建物は変わっているだろうが、雰囲気は残されていることだろう。

大阪明星学園



空堀町交差点を300mほど南下すると、明星学園がある。明星中学、高等学校からなるカトリックの学園で、暁星学園(東京)、海星学園(長崎)、光星学園(札幌)とは姉妹校である。







府立高津高校

餌差町エサシ交差点を越えてさらに300m南下すると、高津高校だ。
緑も多く風格があって、上町台地を代表する高校の感じがした。


小橋町交差点(千日前通) オバセチョウ

難波(なんば)、上六を通る大阪・みなみの東西の幹線道路、千日前通を小橋町交差点で横断する。
西には上本町の繁華街が見える(左写真)。
通りの南には都ホテル、北には淺沼組の本社ビルが写っている。
五輪会の穂積恒雄氏はどうされているかな。

さらに南下して、近鉄の線路をくぐると、左手に大阪赤十字病院(右写真)の広い敷地が広がっている。

次の信号(細工谷)で、なぜかココより西側だけが広くなっている道路に惹かれて右折し、上町筋に向かう。



清風学園

道の北側にある清風学園(中学・高等学校)のガラス張りの円形校舎がよく目立つ。

まもなく上本町7丁目交差点に出るので左折し上町筋を南下する。





国際交流センターを過ぎると、まもなく折畳自転車専門店の「Loroサイクルワークス」(右写真)だ。
今回の上町台地のペダリングも直接の目的地は実は、Loroさんだったのだ。
私のBD−1と家内のBROMPTONがお世話になっている、良心的なエンジニアのショップである。
今日は、伸びきったチェーンと、すり減ったスプロケット(フリーホイール)を交換してもらった。
(Loroさんは、2004年に北浜に引っ越しされた。)


Loroさんから600m南に四天王寺がある。




  --- 四天王寺 --- 


6世紀の仏教伝来の後、古代豪族蘇我・物部両氏の間でおこった勢力争いが、崇仏・排仏両派の武力争いに発展した。
四天王寺は、排仏派の物部氏を倒した聖徳太子によって、難波の荒陵(あらはか)の地に西暦593(推古天皇元)年に建立された
。現在の境内は1963年に再建されたものであるが、南大門・中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置は創建当時と同じもので、「四天王寺式」として有名である。
(以上、(財)大阪市文化財協会HPの四天王寺旧境内遺跡より引用)






この四天王寺をゆっくり訪ねた。上の写真は左が北である。

東大門(左写真)から入って西に進んだ。

まず、本坊の庭園を見学。冬場なので大したことはないが。
右写真のほぼ中央に見える薄水色は八角亭。明治36年(1903)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会場内に建てられたルネサンス風の八角のパビリオンというが、かわいいものだ。




左写真は極楽の池。真ん中にあるのは阿弥陀三尊石。

右は方丈。これは重要文化財で、いい感じだった。一丈四方というが、随分広かったな。









さらに西に進んで、左写真は六時(禮讃)堂。六時とは、昼夜を六分した念仏読経の時刻で、その時刻に三宝を礼拝して、その功徳を賛嘆するらしい。

六時堂の前の「亀の池」では、過保護の大きな亀が甲羅を干していた。





古代の上町台地は四天王寺のすぐ西側の坂下まで海だったので、夕陽がきれいだったらしい。そこで、日が傾き始めた西門に向かう。

西門には神仏混淆の名残の石の鳥居があって、その扁額(高さ1.5m、幅1.1m)には「釈迦如来・転法輪処・当極楽土・東門中心」の16文字が書かれている。
その金文字に夕陽が反射して美しく輝いていた。
この西門を出ると、すぐに極楽浄土につながっていて、この門は極楽の入り口の東門だと信じられていたというのも宜なるかなと思った。


鳥居の奥には西大門サイダイモンが写っている。


西大門(右写真)の鴟尾も夕陽を浴びて輝いていた。


左写真は西大門の下で、奥には五重塔が見えている。


門の内側両端では子供が「転法輪」というのを回している。
右に東大門で写した転法輪の拡大写真を示しているが、法輪は仏法のことらしく、合掌して心が清浄になりますようにと願い、転法輪を軽く右に回すとイイらしい。





左写真は境内の南端の南大門である。

南大門からはいると、正面に中門(仁王門とも呼ばれる;、右写真)があって、その後には五重塔が真後ろに並んでいる。









五重塔(左写真)の高さは39.5m。

金堂(右写真)

講堂(右下写真)

拝観時間は(冬季は)16時までだったので写真だけを撮らせてもらった。










帰り道は大阪城を西へ

帰りも大阪城を通ったが、玉造口から入って西に進み、多聞櫓をくぐって、大手門から出た。


左写真は多聞櫓。








左写真の右奥が大手門。中央に写っているのは多聞櫓。左端には千貫櫓が見える。
中央手前の小さい自転車は、愛車BD-1だ。





大手門から降りてくると、左手にNHK大阪放送会館と大阪歴史博物館の複合建築(右写真)が聳えて見える。難波宮跡に建てられているので、地下に眠る難波宮の遺構をビル全体で抱きかかえる構造になっているそうだ。



左写真は我が母校、大手前高校である。大阪城大手門の斜め向かいにあり、大阪府庁に隣接している。真ん前のバス停は「大手前」だ。
情緒ある前庭もなくなって高層の近代的な校舎になってしまった。
40年も昔の思い出だもんな。





大阪城の外堀の西側、続いて北側を走って、暮れなずむOBPの高層ビル群を眺めながら京阪電車京橋駅に向かった。