夕陽丘、天王寺七坂


夕陽丘、天王寺七坂が吟行地になったので、訪ねた。なかなかよかった。

1)1回目

まず、2010年1月24日、俳句仲間と夕陽丘界隈を散策した。BD-1は押して歩いた。
なお、料亭・浮瀬跡の浮瀬俳跡蕉蕪園(大阪星光学院内)は別途、我がHPの「俳句の小部屋」シリーズにまとめている。


吉祥寺

天王寺区の吉祥寺は忠臣蔵の“義士の寺”だ。
毎年12月14日、同寺を中心に”義士祭”が開かれる。何故?
江戸時代に赤穂藩の塩の商いの中心地であった大坂において、その成功を赤穂藩が吉祥寺に祈念したこともあり、浅野家の大坂における菩提寺となっている。


同寺HPによると、先の大戦により堂塔伽藍寺宝に至るまで灰燼に帰したため、現存するのは浅野内匠頭並びに四十七義士の墓石のみ。
討ち入り300年を記念して47義士の石像を建立した。




蝋梅が晴れ渡った冬空に輝いていた。
去年の実が黒々と大きく残っていた。

「臘梅の花に隠れず去年の実」(2008年2月の拙作)


天王寺区民センターの1Fの喫茶店・薔薇の木で昼食(ハンバーグ定食)を食った後、天王寺7坂のうちの口縄坂に向かい、その後、北に向きを変えて、源聖寺坂、生國魂神社、真言坂に向かった。



天王寺7坂

   


1)口縄坂    (以下、訪ねた順番に7坂に連番を付すことにする。)

左写真、口縄クチナワ坂の下りの始まり左手に、織田作之助の文学碑があり、「口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた…」以下数行『木の都』の一節が刻まれていた。



右写真、坂を下りると、大阪府立夕陽丘高等女学校跡の碑が立っていた。
旧高女の学生もこの口縄坂を上っていたんだ。





左写真、絵を描いている方が2,3人おられた。



右写真、こうして見ると、長いが蛇のようにクネクネとはしていない。






左右の写真は2回目(2010年4月28日)に訪れた時のもの。

右写真の善龍寺の枝垂れ桜は、咲いて散って葉桜になっていた。

芭蕉の『口とぢて蛇坂を下りけり』の時期は過ぎていた。






2)源聖寺坂

左写真、源聖寺坂の上り口。左手の壁に錆だらけの波板トタンが張られているのが源聖寺ゲンショウジ。



右写真、上から写す。右手の上等の壁は齢延寺。







左写真、坂を上っていった左手、齢延寺レイエンジ。
金に糸目はつけていない豪華な造作の寺だ。

山門の上の鐘楼はガラス張りだ。






3)真言坂

左写真、生國魂神社の北門から出て、真言坂を写す。
坂の向こうは阪神高速。



右写真、下から写す。





生國魂神社


左写真、生國魂イククニタマ神社、いくたまさんの拝殿でお祓いをして貰っていた。



右写真、神社境内にあった芭蕉句碑。
元禄7年(1694)9月9日(重陽の節句)に奈良から難波に入り、ここ生玉で「菊に出でて奈良と難波は宵月夜」と詠んだ。





左写真、井原西鶴像。賽銭入れがちゃんと立っていた。
さすが、しっかりしたはる、いくたまさん。
しやけんど、このご立派な賽銭入れの制作費と管理費に足るお賽銭が入ると思わへんけどナ。

碑文には、
井原西鶴は寛永19年(1642)に生まれ元禄6年(1693)大坂錫屋町(現谷町3丁目)で没した。
「好色一代男」「好色五人女」「本朝二十不孝」「武家義理物語」「世間胸算用」など多くの名作を残し、延宝8年に一昼夜4千句の独吟矢数俳諧の新記録を、この地、生国魂神社南坊で樹立した。
西鶴の作品は世界各国で翻訳され、その文学的評価は高く、1968年ユネスコは、世界的偉人の一人として西鶴を選んだ。




2)2回目

3ヶ月後の2010年4月28日、天王寺7坂の南の部分を訪ねて、BD-1で走った。

左写真、地下鉄の谷町9丁目で下車した。
交差点の南西角地に朱い目立つお寺があった。
藤原家を治める寺ということで、「藤治寺」と称し、代々藤原一門の祈願寺として栄えてきた藤次寺である。
昭和35年、京都大学の村田、棚橋両教授の設計管理により、当時の建築技術の粋を集めて復興されたとのこと。

右写真、本堂の左手に、阿波野青畝の句碑があった。
『動く大阪うごく大阪文化の日』と彫ってあった。

上町筋、谷町筋には多くの寺院があるが、昭和20年の空襲でほとんどが焼けてしまったらしい。
谷町筋を南下して、11時に大阪星光学院に予約してあった「浮瀬俳跡蕉蕪園」を再び訪ね、10日後の俳句吟行会に備えて句作を試みた。
句会場1Fの喫茶店でランチの後、月江寺を訪ねた。
ココは、織田信長が本願寺との石山合戦に当たり築いた天王寺城(砦)の中心地だったらしい。

月江寺

左写真、月江寺ゲッコウジ。
左の潜り戸からそっと入れていただいた。


右写真、見たことのない白い小さな花が満開だった。
どうやら、シジミバナ(蜆花)というらしい。





左写真、芍薬もきれいだった。



右写真、本堂からは尼僧の読経の声が聞こえていた。






鳳林寺

左写真、鳳林寺
鳳林寺は 由緒あるお寺で 江戸時代は 七堂伽藍の大寺院だったが、ココも戦災で全てが破壊され、昭和34年に本堂、山門が再建された。


右写真、境内にある上島鬼貫の墓
鬼貫の墓は 鬼貫の200年忌に当たる昭和13年に無縁の墓石の中から発見された。
上島鬼貫は1661年、摂津国伊丹郷の酒造業の家に生まれた。
東の芭蕉、西の鬼貫といわれたが 芭蕉ほど有名でない。 
鬼貫は、門人を持ったり、点者となって俳諧を生計の糧とするのを嫌がったらしい。


眞光院

左写真、眞光院。(六万体地蔵尊の寺)


右写真、本堂の中には、本尊・阿弥陀如来の左に地蔵菩薩が安置されていて、コレを六万体地蔵尊と呼ぶらしい。
「六万体交差点」の地名はココからきている。
写真の右手前には無縁仏?の墓石が積まれている。




4)逢坂 (7坂には、訪ねた順番に連番を付す。)

左写真、天王寺7坂のうちの一番南の坂で、車の路だ。
道の上に四天王寺の五重塔が小さく写っている。
右手は一心寺。


右写真、道の南西には通天閣が聳えている。




安居神社

左写真、逢坂の途中から安居ヤスイ神社に入る。
菅原道真が太宰府へ左遷の途中、ここで夏安居ゲアンゴの修法を行ったらしい。



右写真、社務所の崖下に見える「かんしずめの水」(七名水の一つ)。道真がこの井戸水で癇気を癒したという。





左写真、安居神社の社殿。



右写真、社殿の左手前にある真田幸村戦死跡碑。
大坂夏の陣で茶臼山に布陣した幸村は、徳川家康の本陣を急襲、窮地に陥れたが戦いに利あらず、ここで戦死したという。 




一心寺

左写真、逢坂の道向かえにある一心寺に北門から入ると、すぐ右手に鮮やかな真っ黄色の花が咲いていた。
ブラジル産のノウゼンカズラ科で名前は、イッペイとかイペとか言い、ブラジルの国花。
ちなみに、ブラジル代表サッカーチームのユニフォームの黄色と緑色は、イペの花と、葉からとられたものらしい。


右写真、イッペイには夏のような青空が似合う。



5)天神坂

左写真、天神坂は安居神社の北側である。



右写真、坂の下の民家で大手毬がきれいに咲いていた。その上の花水木とよく似合って、天神坂が輝いていた。





清水坂は飛ばしてしまった。スミマセン。

6)愛染坂・愛染堂

左写真、愛染坂の上り口。


右写真、坂を登り切ると、左手に愛染堂勝鬘院

愛染さんの夏祭り(6月30日〜7月2日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られている。





左写真、正面は藥医門(赤門)。
本柱2本の後方に控柱2本を立てたのを藥医門と呼ぶらしい。


右写真、金堂






左写真、愛染かつら
樹齢数百年の桂の木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、桂とカズラが一体となっている。
画面右から上には、3本目の「愛染かつら」主演の吉田輝男が植樹した若い桂の木の新緑が写っている。(1本目は上原謙、2本目は鶴田浩二が男の主演)


右写真、多宝塔
豊臣秀吉が再建したもので、大阪市最古の木造建造物として国の重要文化財に指定されているそうな。




大江神社

左写真、大江神社の境内は広く、西に開けている。
この地は西側が傾斜地で、その昔は海。大江の岸と称していたので、大江神社となった。


右写真、本殿。
四天王寺の鎮守として聖徳太子が創祀した七宮の1つ。太子自作の毘沙門天を本尊に、四天王寺の僧が祭祀を司っている。




左写真、「夕陽岡」の碑。
画面中央の新緑の後ろに通天閣がぼんやりと写っている。
ココは昔から夕陽の名所だったそうで、境内に「夕陽岡」の碑が立てられた。

右写真、芭蕉句碑「あかあかと日はつれなくも秋の暮」。
大坂の俳人三津人ミツンドが文化14年(1817)に建てた。
原句は「あかあかと日は難面も秋の風」で、奥の細道のゴール大垣で詠んだ。
「 あかあかと照りつける日は汗ばむほどに残暑の中にあるが、風は秋のさわやかさである。」といった内容らしい。
この一帯が「夕陽丘」と称するのにちなんで建碑したらしい。



左写真、大江神社の下(西)の鳥居。



右写真、大きな「文楽翁之碑」が塀越しに見えたので、これが初代植村文楽軒のお墓かと思ったが、実は3代目文楽軒の碑だった。