大阪天満宮発 淀川右岸


ザ・ファルト自転車部会の「淀川右岸」サイクリング(淀屋橋〜高槻)が参加者の日程都合によって、2回に分けて実施された。

1回目 : 3月9日(水)、中村(幹事)、松田、吉田。
2回目 : 4月3日(日)、奥田、奥野、中村(幹事)、西野。 お花見サイクリングになった。

以下は2回目の記録である。(当初予定は3月12日(土)であったが、11日(金)に東日本大震災が勃発して、延期された。)

   

  


淀屋橋に集合。




左写真、中ノ島図書館前の桜。   9:18




右写真、大阪天満宮の西の門から入ると、「神武天皇東征 聖蹟 難波之碕ミサキ顕彰碑」の前で今朝、”ご命日祭”が行われたとのことだった。
(紀元二千六百年奉祝事業として、橿原宮・竈山以外に計19個所の聖蹟が選定され、花崗岩製の同一規格・設計により、神武天皇東征聖蹟顕彰碑が建てられ、
大分・福岡・広島・岡山・大阪・和歌山・奈良の府県に点在するらしい。





左写真、天満宮の本社。
今日は朝から賑わっていた。



右写真、天満宮の表門(大門)。
(この門前、右前方あたりに紙屋治兵衛の店があったと、中村氏の説明あり。)







表門前を東に行って、
左写真、川端康成生誕地の碑。



東南に進み、
右写真、滝川公園。
大阪三郷(北、南、天満)の内の天満組惣会所跡があるとのこと。






造幣局の官舎敷地に入って、
左写真、大塩平八郎の洗心洞跡。


同敷地内に、
右写真、天満与力の役宅門。
”桜クラブ”の表札が掛かっていた。



東天満交差点を東進。



左写真、仮囲塀の向こうは泉布観
明治4年に造幣寮(現、造幣局)の応接所として建設された。完成の翌年に明治天皇が行幸し、 「史記」の一節”宝貨之行如泉布”から命名され、
泉布(貨幣)の観(大きな館)を意味するらしい。



右写真、造幣局北門。
通り抜けの時はココが出口になる。






左写真、北門の中、造幣局の通り抜けの桜はまだ早かった。



右写真、桜宮橋。国道1号線に架かる。
前方の桜宮橋は関西建築界の父・武田五一の設計。画面左手は新桜宮橋で、安藤忠雄の設計。どちらも、土木屋でなく建築屋さんの設計だ。さすが!




大川左岸沿いの公園の道を少し南下。



昔、大長寺があり、遊女小春と紙屋治兵衛の情死事件(近松の心中天網島)の舞台跡付近の公園を訪ねる。


左写真、その上流側。
景観的には少し大きい新桜宮橋が上流側に架かっていて正解だ。


右写真、下流側。
真ん中は川崎橋。桜が咲き始めている。





左写真、桜宮橋北東の現・大長寺に小春・冶兵衛の比翼塚(画面左手)を訪ねた。



毛馬桜之宮公園を少し上って、
右写真、桜宮神社。








左写真、桜宮神社の境内の桜は見頃で、ハイカーが多く訪れていた。



右写真、今日の4人の記念写真。









左写真、公園で桜を愛でる。
前方(北方向)は源八橋。




右写真、大阪市水道発祥の地碑の前を北上する。







左写真、大阪拘置所前の差入屋。



右写真、蕪村公園









左写真、公園の向こうに毛馬水門が見えている。        10:45





右写真、近代産業遺産として淀川河川公園に保存されている毛馬第1閘門。
2008年に旧毛馬洗堰とともに国の重要文化財に指定された。






左写真、毛馬第1閘門
第1閘門(明治40年竣工)は煉瓦造で端部や要所は花崗岩貼り。両開扉構造(上部にある4つのハンドルで動かすそうだ)であったが、
昭和3年の改修工事で開閉作業の迅速化のために引き上げ式の鉄製扉が新設された。




右写真、毛馬北向地蔵尊






左写真、毛馬基標
”BM.OP.15.50、4.697M”との刻字。
BM(ベンチマーク)OP15.5尺、4.697mを表す。



右写真、淀川大堰と淀川河川敷公園。







左写真、蕪村の句碑
「春風や堤長うして家遠し」


右写真、
赤川鉄橋(人が渡れる鉄道橋梁)


鉄橋を渡って、下の道に降りる。
右手に神戸大漕艇部のボートをチラッと見て亀岡街道を進む。




左写真、最初の曲がり角。
「左 大さかみち、右 大坂みち」の道標。
画面右手へ行くと、昔の渡し場へ。



右写真、光台寺の西に古い家が残っている。







左写真、左は亀岡街道。
我々は右へ。



右写真、菅原天満宮。








左写真、浄土真宗・定専坊。


東海道新幹線の高架下を少しくぐって、
右写真、瑞光寺の鯨橋。

この辺も、中村さんの遊び場だったそうな。







左写真、三千樋のトコロで淀川堤防の中段の道に上がる。小さな橋は三千橋。”三千”は地名か?





すぐに、江口君堂(宝林山普賢院寂光寺)

右写真、画面左端の「南無妙法蓮華経」が西行法師と遊女・妙が詠った問答歌の石碑。(歌は左右の面に刻まれている。)
右手の花が飾られているのは常磐津塚
(丁度この日、関西常磐津協会の人々が集い、供養が行われていた。)



左写真、問答歌石碑の左面の歌の下に「江口妙」の文字が確認できた。




右写真、本堂。燈籠には「江口君堂」








左写真、君塚と西行塚が並んでいた。




右写真、鐘楼の下には石仏等が集められていた。
上の鐘は平安朝の昔、淀川を行き交う船に諸行無常を説いて鳴らされたそうな。







左写真、鐘楼の石垣の下に少し遅い木瓜の花が咲いていた。


君堂で昼飯休憩し、13:10出発。




右写真、一津屋村・宮ノ下渡し跡。
対岸の大庭と結んでいた。




左写真、味生神社。
左手の古い木造建物は集会所になっていた。



右写真、浄土真宗誓源寺








左写真、恵照院殿釈寿栄大童女の墓碑。 
元禄13年(1700)、松平縫殿頭乗成が大坂城へ赴く途中息女の急逝にあい誓源寺に葬った。

右写真、宝暦22年(1752)菩提供養のため、松平家より藤原国次鋳造の梵鐘と鐘楼が寄進され、梵鐘は第二次世界大戦中に供出されたが、鐘楼堂は現存。




鳥飼大橋をくぐる。





左写真、三本松天神社跡
延喜元年(901年)正月、菅原道真が大宰府に流される途中、鳥飼の地に船を着け食事の後、自ら楊枝松を植え、神社を建立したと伝えられる。
「摂津名所図絵」には「管公筑紫御下向の時ここに船をよせ給ひし旧跡なり。
この村に下り松、義経松、踊り松とてあり」と記されている。

鳥飼の渡し跡に続いて、
右写真、堤防に向いて建っているどこやらの鳥居前を走る。







左写真、堤防の上に「千本つきの歌」の碑が立てられていた。
(千本つきには調子がござる足と手と口三拍子)




右写真、”千本つき”とは堤防築造の地固め作業。







左写真、前方の鳥飼仁和寺大橋は優美な斜張橋。





淀川新橋もくぐって、
右写真、桂本の堤防上に「くらわんか舟発祥地」の碑。
対岸は枚方市の蹉蛇。





左写真、桂本の河川敷は京阪GC。



右写真、三島江の堤防下の妙見燈籠









左写真、『淀川両岸一覧』の三島江浜。
右頁真ん中に妙見燈籠が描かれている。



右写真、三島江で上流側を写す。
右手に枚方大橋と高層マンション。



芥川沿いに北上して、高槻に向かう。



東海道新幹線の下を抜けて、
左写真、芥川堤防上で休憩。
画面中央右に高槻のイオンの赤い看板が写っているはず。



右写真、芥川の下流側。
高架道路を左へ行けば、辻子のはず。






左写真、高槻市立歴史民俗資料館。



右写真、高槻城跡の高山右近の像。









左写真、野見神社の摂社の永井神社の唐門。金ピカに修復されたばかりだった。



右写真、藤井竹外邸跡の碑。
(頼山陽の高弟、高槻藩士)








左写真、カトリック高槻協会。



右写真、高山右近の像。
イタリア・カララ産の大理石らしい。