京都国立博物館・方広寺・豊國神社など


2010年2月24日(水)、 京都国立博物館へ”THE ハプスブルク”展覧会を見に行った。
京都国立博物館
上の看板の女性の絵は、
”フランツ・クサファー・ヴィンターハルター、《オーストリア皇妃エリザベート》(部分)、
1865年 油彩、 カンヴァス。国家家財管理局 宮廷家財庫 ウィーン家具博物館蔵”

この展覧会は、600年以上にわたりヨーロッパを治め、芸術を愛好したハプスブルク家の栄華をたどるもの。
ウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の選りすぐりの名画と工芸・武具116件も展示されている。

右図の広い敷地の庭には、石仏、石塔、石柱が野外展示されていて、これも楽しめた。







博物館でゆっくりした後、直ぐ北側に隣接する秀吉ゆかりの地をいくつか訪ねた。
なんでも、現在、博物館西と南の一部に大仏殿敷地の石塁が残されており(国指定史跡)、博物館構内北部の一部が大仏殿の場所に相当。
平成9(1997)年の発掘調査で、大仏殿の遺構として石垣や柱穴列、南門と回廊の基礎跡、大仏瓦、石組溝、鋳造遺構、南面石垣などが見つかった。

まず、
左写真、大仏殿跡緑地
写真の奥に、豊国神社の建物が少し写っている。
コノ地は、発掘調査によって大仏殿の基壇に相当していたことがわかり,大仏殿跡の台座などが見つかった。
大仏殿跡の遺構は地下に保存され、今は緑地公園になっていた。

右写真は、『都名所図会』に描かれた江戸時代の大仏殿。大仏の顔が見えている。手前には巨大な石塁がある。

【京の大仏つぁん】  from 京都市の 都市史19 大仏殿
天正14(1586)年,豊臣秀吉は奈良の大仏に匹敵する大仏を京都東山山麓に建立することを計画,高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像大仏を造営しました。
大仏が安置された大仏殿は二重瓦,高さ二十五間(約49メートル),桁行四十五間二尺七寸(約88メートル),梁行約二十七間六尺三寸(約54メートル)という壮大なもので,文禄4(1595)年頃に完成しました。
 大仏殿は西向きに建てられ,境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,各種の洛中洛外図屏風に描かれています。
現存する石垣から南北約260メートル,東西210メートルの規模であったと推定されています。
慶長元(1596)年閏7月に起きた慶長大地震により開眼供養前の大仏と築地が倒壊しました。
慶長2(1597)年,秀吉は信濃国善光寺(ぜんこうじ)の阿弥陀如来を安置しましたが,翌年8月秀吉の容態悪化によって善光寺へ阿弥陀如来を返還,同月18日秀吉が死去,秀吉の死は外部に伏されたまま,慶長3(1598)年8月22日大仏のない大仏殿で開眼供養が行われました。
その後,秀吉の遺志を継いだ秀頼(ひでより)が大仏の再建に着手しましたが,慶長7(1602)年鋳造中の大仏から出火炎上しました。
慶長13(1608)年秀頼は再度大仏再建を企図し,慶長17(1612)年に完成。しかし,寛文2(1662)年の地震で再び小破し,寛文7(1667)年に造り直されました。
寛政10(1798)年7月1日夜,大仏殿に落雷し,本堂・楼門を焼失,木像の大仏も灰燼に帰しました。
その火災は「京の大仏つぁんは,天火で焼けてな,三十三間堂が焼け残つた,アラ どんどんどん,コラ どんどんどん,うしろの正面どなた」とわらべ歌にうたわれました。
天保年間(1830〜44)尾張国の有志が半身の大仏像を造り,仮殿に安置しましたが,昭和48(1973)年3月28日深夜の出火により半身の大仏と大仏殿は焼失してしまいました。

【大仏殿と豊臣家】  from 京都市の 都市史19 大仏殿
秀頼の大仏再建では大仏はほとんど完成しましたが,慶長19(1614)年,家康が突如開眼供養の延期を命じました。これが世にいう「鐘銘ショウメイ事件」の発端です。
鐘銘事件とは,豊臣秀頼が大仏再建の際に鋳造した釣鐘の銘のうち「国家安康」(こっかあんこう)の部分が,家康の胴を切るものだとして家康が難癖をつけ,これをきっかけに大坂の陣が開戦した事件です。
豊臣秀頼は母淀殿とともに自刃し豊臣家は亡びました。豊臣家滅亡後も鐘は残され,方広寺に現存し,重要文化財に指定されています。
(右写真、方広寺の鐘。白く塗られている部分の向って右が「国家安康」、左に「君臣豊楽」の文字。)



左写真、方広寺の本堂。
大仏殿を管理する寺として豊臣秀吉によって創建された天台宗の寺だが、財政的に逼迫しているご様子だった。









左写真、豊国トヨクニ神社の石鳥居。



右写真、豊国神社の本殿。






【豊国神社】  from 京都市の 都市史19 大仏殿
豊臣秀吉を祀る。俗にホウコクさん。慶長3(1598)年,秀吉の遺体が東山の阿弥陀ヶ峰山頂に葬られ,翌年,社殿が山麓に創建されました。
秀吉七回忌では盛大な臨時祭礼が行われ,その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」に描かれています。
豊臣家滅亡後,徳川幕府は社号を廃し,社殿は朽ちるに任され,その跡は太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広場になっています。
明治13(1880)年に旧大仏殿境内に社地を移し,社殿が造営されました。唐門(国宝)は南禅寺金地院から移され,伏見城の遺構だと伝えます。

豊国神社の西に向いた石鳥居の前は、正面通りと言う広い道路(東西方向)になっている。豊国神社の正面の通りと言う意味だ。


左写真、耳塚。
正面通りに面している。



右写真、耳塚の五輪塔の右上に上弦の月が小さく淡く上っていた。





【耳塚】  from 京都市の 都市史19 大仏殿
豊国神社の西に小高い墳丘が作られ,その頂に五輪塔が立っています。これが耳塚で,国指定史跡「方広寺石塁および石塔」に含まれ「石塔」のひとつです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)で,配下の武将が朝鮮軍民の鼻や耳を切取り,戦利品として日本に持ち帰りました。
耳塚は慶長2(1597)年,これを埋めて供養した塚です。
当初は鼻塚と呼んでいましたが,次第に耳塚の名で知られるようになりました。
大仏殿や豊国神社や豊国廟とあわせて,東山における秀吉の遺跡のひとつです。



左写真、 正面通りを西に走って鴨川に出ると、角っこに京菓子の甘春堂があった。
雛菓子がきれいだった。