西国街道(山崎通)


                          JR山崎駅〜昆陽寺

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【西国街道】 サイゴクカイドウ from 広辞苑
京都から西へ向かう街道。九条通りから久世橋で桂川を渡り、淀川北岸の高槻・茨木を経由し、兵庫県西宮市で山陽道と合する。

【山崎通】 ヤマザキノミチ  from Wikipedia
西国街道のうち、特に六宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指し山崎通ヤマザキノミチといった。
大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。
現在、旧街道に並行するように国道171号線が京都〜神戸(西宮〜神戸間は国道2号重複)間を結んでいる。
なお、大坂経由の街道として京街道(京〜大坂)・中国街道(浜街道)(大坂〜西宮)が整備されており、これらは現在でも主要な幹線道路のルートとして引き継がれている。
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西国街道」という名前はどうやら、江戸時代に付けられたらしい。
ザ・ファルト自転車部会で、この街道筋に残っている古代からの跡を訪ねた。

月 日 :2010年9月18日(土)
参加者:奥田、奥野、中村(幹事)、西野、真賀里、吉田(案内)
集 合 :JR山崎駅 9時

   

   


左写真、離宮八幡宮の鳥居と四脚門。
僧・行教が宇佐八幡神の分霊を都に奉安するべく帰京した折に、“山崎の津”で霊光を見た。
そこを掘ると岩の間から清水が湧出したので、国家鎮護を願い八幡神を祀り石清水八幡宮と称した。
しかし、すぐに対岸の男山へ移されたので、山崎の里人は、この地が嵯峨天皇の河陽カヤ離宮跡だったことから社名を離宮八幡宮として、引き続き奉仕し、”元宮”として残されたらしい。

右写真、京都府と大阪府との境界線の溝。
石標には、「従是東山城國」。







左写真、溝に隣接して、関大明神社。
国境の関所もしくは、関所の跡地に設けられた関戸院(公設の宿泊施設)に付属した鎮守社との説などが有る、不詳。
(本殿は覆屋の内。)


右写真、
氏子の皆さんが秋祭の準備を始めていた。



水無瀬川を渡り、水無瀬神宮を左手に遙拝しながら先を急ぐ。


左写真、楠木正成、正行マサツラ父子の訣別の地・桜井駅跡(国指定史跡)は広かった。
桜井駅は、平城京と各地を結ぶ交通路に設けられた駅家の1つで、当初の名称は大原駅らしい。



右写真、訣別の像の下には「滅私奉公」と刻まれていた。







左写真、神南備の森跡(こすもす児童遊園) にチョット寄り道。



右写真、畑山神社と梶原寺跡








左写真、能因塚。能因はココ古曽部に隠棲した。
石碑は、慶安3年(1650)に高槻城主・永井直清が建てたもので、林羅山による顕彰文が刻まれている。


右写真、塚の右手にあった歌碑





能因の次には伊勢姫を訪ねた

永井直清と大江氏】 from おとくにHP
「大江氏」は、山城国乙訓郡で発生した唯一の古代豪族であり、当初「大枝氏」を称したが後に大江と改称した。
菅原氏と同様に文章博士を歴代出した文章道の家として朝廷に仕えた。歴史上有名なのは「大江匡房」と鎌倉幕府の確立に貢献(公文所別当)した「大江広元」である。
この流れから大名家「毛利氏」、「永井氏」などを輩出した。
堂上貴族としては「北小路家」がある。女流歌人作家として有名な「和泉式部」も大江氏の出身である。
高槻藩の藩主になった「永井直清」も大江氏の出身である。

王朝歌人の出自HPも面白い。コレによると、能因法師(橘永ト) は、喜撰法師、和泉式部、小式部内侍とともに、橘氏。


左写真、伊勢寺の山門。
金剛山象王窟伊勢寺は、今は曹洞宗のお寺で、伊勢姫が晩年を過ごした住居跡らしい。




右写真、中門の中の庭隅に萩が大きく赤く咲き初めていた。






左右写真、本堂もピカピカで、改修工事が終わったばかりのタイミングだった。

想像するに、「主従、肉親の関係をこえた愛欲の多角的複雑さ」(保坂都)に身を委ねた伊勢を訪ねる人は多く、寺は大いに潤っているようだ。



伊勢寺の改修工事は天理の宮大工松田工務店の施工で、本堂の小屋組などの写真がblogにある。






左写真、
見る人もなき山里のさくら花ほかの散りなん後ぞ咲かまし 』の歌碑。(古今68)



右写真、鐘楼もなかなか風情がある。







左写真、伊勢廟堂。(境内墓地の中)
(阪神大震災後、1998年に再建)
高槻城主・永井直清が慶安4年(1651)、右方に碑を建てて顕彰した。
能因塚と同様、林羅山の碑文595文字が細かく刻まれている。



右写真、芥川一里塚





左写真、一里塚跡の祠。





右写真、この一里塚から西に210m、芥川の手前までが芥川宿だった。
(画面中央左手に酒屋)





左写真、酒屋の屋根上の古い看板。
樽酒・菊養老の絵の上に「高級清酒」、右に「製造元・大門酒造」、左に「特約店・西田本店」。
大門酒造は交野市で、我が家に近い。生酒(新酒や寒搾り)を何回か買いに行ったことがある。
高槻の酒屋が淀川を越えて交野の酒を売るとは面白いナァ。

右写真、酒屋の店内。
「池田酒・呉春入荷」の札、町興し酒「芥川」の提灯、右から「ビール」と書かれた昔のポスターなど賑やかだった。






左写真、芥川宿の西の端。
画面中央の車は芥川橋の真上。
左手には又、酒屋がある。



右写真、芥川宿を振り返って写す。
芥川の増水時に、街道筋を守る水門の石柱が写っている。
この溝に厚い板を落とし込む。





左写真、芥川橋の上流側。
摂津峡、ポンポン山方面だ。



右写真、太田茶臼山古墳
ココは茨木市で、1.3km東の今城塚古墳(高槻市)が真の継体天皇陵である可能性が高いらしい。






左写真、椋の大樹の陰で昼食休憩。
(名神高速と交差する手前)



大きな椋の木は、画面左端から地を這うように幹を伸ばし、
画面中央で直立している。
黒い実もいくつかあった。





左写真、白井河原合戦跡



右写真、幣久良橋ヘクラバシから茨木川の上流側を写す。








左写真、中河原の道標。
東西に走る西国街道と南北に走る亀岡街道の交差点。
明治30年(1897)に建てられた道標が破損し、復元された。


いよいよ、郡山宿に入る。この宿は山崎通のちょうど真ん中で、東西8丁余(約900m)。

右写真、郡山宿本陣の前は道幅が広くなっていた。


西国街道の6つの宿場の中で、最もにぎわった郡山宿には、享保6年(1721)に再建された本陣の建物がほぼ当時のままの姿で残されている。


左写真、御成門。
門の左手には今も見事な椿の木が見える。



右写真、逆光線だが、椿の大樹。








左写真、大玄関の中。
鶴の壁画の前の板敷きに殿様の駕籠を置いたとのこと。



右写真、上段の間。







左写真、庭。



右写真、庭の端っこにあった手水鉢?。
形と苔が見事だ。







左写真、鉄砲と宿札。
この宿札は大名行列の数日前に先遣隊が訪れて書いたそうだ。




右写真、楠水龍王
延元元年(1336)楠木正成が湊川への行軍の途中、ココの井戸水を飲んだらしい。





左写真、我々は「左」から来た。



右写真、勝尾寺の大鳥居。









左写真、萱野三平旧邸
左は三平が切腹した部屋。


右写真、萱野三平のお墓にも行った。




ぼろ塚にチョット寄り道した。




左写真、牧落の高札場跡。




右写真、瀬川・半町立会駅所付近。
走ってきた街道を振り返って写す。火の見櫓の上には半鐘が付いている。







左写真、弁慶の泉。



右写真、浄源寺









左写真、銀杏の大木に桐と椋木が寄生している。おそらく、豊富な地下水脈がうまい具合に流れていて、年中、元気な大銀杏なのだろう。



右写真、その説明板。









左写真、辻の碑イシブミ
西国街道と(多田院へ向かう)多田街道との交叉点に建っている。(写真は北方向)

右写真、碑は読めないが、『摂津名所図会』によると,「距関戸(せきとにいたること)七里,距須磨(すまにいたること)七里,
距天王(てんのうにいたること)七里,距大小路(おおしょうじにいたること)七里」と刻まれているそうな。
ココは、四方の国境からそれぞれ七里で,摂津国の中心である。



 関戸

山城国との国境

京都府大山崎町の関戸院のこと 

 須磨

播磨国との国境 

神戸市須磨のこと 

 天王

丹波国との国境 

三田市母子(もうし)の天王嶺のこと 

 大小路

和泉国との国境 

堺市大小路のこと 


左写真、伝・和泉式部の墓





右写真、昆陽寺・山門(楼門)。
江戸時代初期(明暦年間)の建立。





昆陽寺
昆陽寺(こんようじ)は兵庫県伊丹市寺本にある高野山真言宗の寺院である。
山号は崑崙山(こんろんさん)。行基が畿内に創建した49院のひとつである。
西国街道(現・国道171号)沿いに位置し、地元では「こやでら」や「行基さん」と呼ばれて親しまれている。
行基は荒地を開墾して、昆陽池などを築き、水田を開き、その中心に昆陽寺を建てた。行基の徳を慕う人たちの参詣で賑わい、行基没後も隆盛していたが、天正7年(1579)織田信長の伊丹城攻めの兵火で、堂塔伽藍はことごとく焼失。
その後、山門、諸堂が再建された。阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが、完全復興している。

左写真、山門で記念写真。



右写真、本堂(薬師堂)。
本尊は半丈六の薬師如来像で、行基の作。








左写真、観音堂。



右写真、行基堂(開山堂)。









JR福知山線伊丹駅で解散し、私はJR学研都市線・河内磐船駅まで電車1本で帰宅した。


今日は句碑に一つも出会わなかった。
でも、伊丹といえば「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた上島鬼貫での出身地である。
最後に、2010年4月28日に撮影した 鳳林寺境内にある上島鬼貫の墓を右に載せておきたい。
鳳林寺は由緒あるお寺で、江戸時代には七堂伽藍の大寺院だった。
この鬼貫の墓は 鬼貫の200年忌に当たる昭和13年に無縁の墓石の中から発見されたそうな。





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追加 :

丁度2週間後の10月1日(土)に、たまたまJR高槻駅に行ったので、序でに、西国街道を芥川1丁目から離宮八幡宮までを今度は東向きに走った。
その時の写真を以下に載せておく。
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左写真、西国街道に面して天神さんの鳥居が建っている。
(JR高槻駅の西側の南北の道路が天神さんの参道である。)



右写真、天神さんの入口。天神1丁目。
この上宮ジョウグウ天満宮は、大宰府に次いで2番目に古い天神さんらしい。







左写真、上宮天満宮の岡は広い。
菅原道真はココは通っていないのにと不思議に思ったのだが、「道真の霊を鎮めるために大宰府に赴いた勅使が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、
調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥ゆかりの地であることを知って、ここに道真を祀った」らしい。



右写真、お参りする人が絶えなかった。
この本殿は柱、壁、屋根のほとんどが竹で作られている






左写真、梶原一里塚跡のお地蔵さん。



右写真、水無瀬神宮。(水無瀬川の南)
(西国街道に面して大きな石碑あり)

この参道でポリタンクを持った何人もの人と出会った。離宮の水を汲みに来ていたのだ。






左写真、萩の向こうに拝殿。



右写真、見事な萩だった。









【水無瀬離宮跡、水無瀬神宮】 from 歴史街道HP

後鳥羽上皇はこの地が非常に気に入り、鎌倉時代初期に水無瀬離宮を造営した。
上皇は淀川を舟で下って頻繁にこの離宮に行幸し、その回数は約20年間で30回におよんでいる。
離宮では管弦の催しや歌会、狩猟などを楽しんでおり、新古今和歌集に「見渡せば 山もと霞む 水無瀬川 夕べは秋と 何思ひけむ」と詠んだ歌がある。
また、
後鳥羽上皇は第1皇子で19歳の土御門天皇に譲位して院政を始めた。
朝廷をないがしろにする鎌倉幕府の横暴が日に日に増していくのを耐えていたが、遂に承久3年(1221)倒幕を決意して立ち上がった。
しかし京へ攻め上ってきた幕府の大軍にあっけなく敗れ隠岐へ流された。
隠岐の地で19年間過ごし、60歳で崩御したが、亡くなる前に手形を捺した「後鳥羽上皇御手印置文(国宝)」の遺言状を臣下に残した。
この遺言状に従って臣下の者が水無瀬離宮跡に御影堂を建立し、上皇の画像(国宝)などを納めて菩提を弔ったのが水無瀬御影堂で、現在の水無瀬神宮の起こりである。

水無瀬離宮は非常に広大であり、現在、JR線を越えた北側に、「後鳥羽上皇水無瀬宮址」の石碑(大正八年 大阪府)が建っている。
しかし、むかごの高槻HPによると、水無瀬離宮跡と思われる遺跡が水無瀬神宮の西600mほどの地で発掘されたらしい。(2010年2月)


左写真、JR山崎駅の手前で、線路の向こうにサントリー。手前左はマンション。



右写真、最初の訪問地だった離宮八幡宮に再び寄った。
油祖像の横にはよく目立つ”油脂販売業者の店頭標識”が夕陽に輝いていた。








左写真、拝殿の右手の井戸を覗くと、水が見えて、水位は高かった。やはりこの辺りは水が豊富なのだ。


右写真、画面中央に”菅原道真公腰掛の石”、その右手の小さな祠は腰掛天神社。
道真が九州に流された時に、この石に座って、『君が住む 宿の梢をゆくゆくも かくるるまでも かえり見しかな』と詠んだらしい。



多分、道真は京から山崎まで来て、”山崎の渡し”を渡って橋本に着き、淀川左岸の道を下って太宰府に向かったのだろう。

なお、嵯峨天皇の河陽カヤ離宮跡だったことから社名が離宮八幡宮となったのだが、「河陽」とは、淀川の北の意味だ。
漢和辞典で調べると、「”陽”は、山の場合は南側、川の場合は北側をいう。」とのこと。


左写真、淀川右岸河川敷の水無瀬ゴルフ場辺り。天王山が迫っている。
「高浜の渡し」はココと対岸の楠葉を結んでいた。対岸も今はゴルフ場だ。


右写真、右遠景には比叡山。
左はライオンズガーデン水無瀬という横長のマンション。







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追加 :
またまた、その2週間後の10月17日(日)に、大山崎歴史資料館を訪ね、周辺を回った。


左写真、饂飩屋かぎ卯で昼飯に「狐うどんカツ丼定食」を食った。
大正元年創業で、谷崎潤一郎の小説「蘆刈」に登場する老舗だ。山崎の地下水を使ったダシが自慢で、店主は三代目。



右写真、アサヒビール大山崎山荘美術館の落ち着いた庭園。







左写真、大山崎山荘2階のテラスからの眺めは素晴らしい。



右写真、錦木が十数本植わっていた。
紅葉の時にまた来たいモノだ。







左写真、サントリーの山崎蒸溜所を見学した。



右写真、「山崎」の樽が眠っていた。








左写真、椎尾神社。
饂飩屋かぎ卯で聞いた氏神さんだ。


帰路は淀川の左岸河川敷を走った。

右写真、蘆の花。






左写真、枚方大橋のすぐ上流にある島。
ブラックバス釣りでは今注目のスポットらしい。
50〜60cmの大型バスばかり釣っている同年配の釣り人に暫し話を聞いた。
サントリーで買った「山崎」を少しラッパ飲みした。


右写真、淀川の土手の上に、延命地蔵と書かれた小さな古い祠があった。





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久我畷、鳥羽作り道方面へは、平安の古道・久我畷の今をゆく・・・HPがある。

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【参考文献】
1)西国街道:(高田健一郎)、向陽書房、昭和62年8月1日第2版第3刷
2)百街道一歩の西国街道HP
3)西国街道沿いの史跡H