善光寺道(善光寺西街道)(洗馬〜松本、青柳〜善光寺)


秋日和に誘われ、急遽、1泊2日の旅に出た。

2010年10月6日(水)〜7日(木)
往き:しなの5号で塩尻着10:50 (しなの号各車両長野側にBD-1が置ける荷物スペースあり))。
帰り:長野17:00発しなの22号乗車、名古屋発20:07のぞみ253号・京都着20:44。
平日ゆえ、往復とも自由席で正解だった。

善光寺道は京、大坂など上方から善光寺参りの人々が通った道で、逆に善光寺の方からは伊勢参りの道だった。
善光寺道というのは通称で、正しくは「北国脇往還」という。
北国脇往還といえば北国街道(中山道追分宿から越後高田宿まで)も正しくは北国脇往還で、これと区別する必要があり、「北国西脇往還」と言うのがより正しい言い方である。
なお、脇往還とは江戸時代の国道ともいうべき5街道から別れる主要な道。
5街道は東海道、中山道、奥州道中、日光道中、甲州道中で、これらは幕府の道中奉行の管轄下いあり、脇往還は勘定奉行の所轄で、直接には各藩主が管理した。  (参考文献2))


善光寺街道は中山道の洗馬セバ追分から北国街道の篠ノ井追分までの17里6町(約67km)で、さらに善光寺までは3里が加わり約80km。
(1里=36町、1町=60間、1間=1.8m、1里(2,160間)≒4km)
「更科紀行」の松尾芭蕉もこの善光寺街道を馬で駆け抜け、途中、姨捨あたりで一泊したらしい。
また東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんもこの街道を通り善光寺へ詣で江戸へ帰っている(続膝栗毛)。
今回の自転車旅は、右図の縦断図のうち、松本宿〜青柳宿をJRに乗車して、パスした。
その他は忠実に旧道を走った。(猿ヶ馬場峠越えは自転車を押したり担いだりした。)

善光寺街道の一里塚 Googleマップで善光寺道の全貌が分かる。


【1日目】



走行map:
1)塩尻駅に立っているflagがスタート地点。ココから赤線の軌跡の如く、もう1つのflagが立っている点、すなわち中山道と善光寺道の分去れワカサレ(分岐点)まで走った。(ただし、チョット西に行き過ぎて戻っている。)
2)洗馬宿の分去れワカサレ、すなわち善光寺道の始点から青線の軌跡の如く、松本宿まで走り、松本城などを見て回り、JR松本駅に到着。


左写真、塩尻駅の東口に降りた。
駅前の道を南下して、JR中央線を地下道でくぐり抜けて、駅西口に出る。そのまま真西に進む。


右写真、桔梗ヶ原口のT字路。(写真は北方向)
ココで左折し、南下。コスモスがきれいだった。


中央線を今度は高架で越えて、旧中山道に入った。




左写真、すぐに平出一里塚。
(写真は塩尻方向)



右写真、同地点から見た中山道の洗馬方向。
(西方向)






左写真、平出遺跡に寄り道した。
縄文時代から平安時代の長期間にわたる集落跡が見られる複合遺跡とのこと。
尖石トガリイシ遺跡(八ヶ岳西山麓)、登呂遺跡とともに日本3大遺跡と言われた老舗の遺跡らしい。



右写真、蕎麦。
ココでは5世紀頃に蕎麦の栽培が始まっていたらしい。さすが、信州だ。





左写真、平出史跡公園には葡萄も実っていた。



右写真、小さな小さな比叡山。








左写真、中山道右手は昔の桔梗ヶ原。今はブドウ畑が広がっている。



国道19号線との交差点で左折して国道を進むべきトコロ、直進して仕舞った。(昔の地図を見ていたので、まだ新中山道は載っていなかった。)


右写真、善光寺道を横断して、さらに西進。
赤いりんごが道まではみ出していた。




左写真、奈良井川の下流方向を琵琶橋から写す。
橋の袂に「琵琶の名手蝉丸伝説」が記されていた。


ココは洗馬を通る仁科街道で、琵琶橋は、江戸時代には奈良井川を渡る重要な橋だったらしい。


右写真、橋のすぐ向こうには、道祖神や石標が並べられていた。
ココで引き返す。




左写真、奈良井川の上流側。



右写真、洗馬の分去れワカサレ。
画面の奥は中山道洗馬宿(南方向)。







左写真、分去れ(北方向)。
右が旧国道19号線。善光寺道は左へ。


右写真、本当の分去れ。
江戸時代の中山道は、この右手に入っていた。
ココから左手に善光寺道は始まる。

(この本当の分去れを進み、細い坂道を上り、旧国道19号線に出た。)




左写真、旧国道19号の洗馬宿側。
画面右の松が”細川幽斎肘懸松”。
細川幽斎が旅の途中、松に肘を付いて月を見たそうナ。江戸時代の中山道は肘懸松の左手の細い坂道を下る。


右写真、中山道(旧国道19号)の塩尻側。


善光寺道を走り始めた。




左写真、善光寺道の左手には奈良井川が流れている。(下流、進行方向)



右写真、奈良井川(上流方向)。








左写真、太田の清水
『木曽どのの馬あらふ里よ水清し』



右写真、ブドウ畑の向こうに変電所や送電所が見えてきた。まもなく、郷原宿だ。







左写真、「郷原宿」の石碑を見て、宿に入る。
なかなかに落ち着いた街道筋だ。
旧道沿いに信州特有の本棟造りと横屋造りの家々が点々と見え、屋敷割、治水割、耕地割が当時のまま残されているそうな。



右写真、上問屋。






左写真、本陣・山城屋。



右写真、古井戸。








左写真、下問屋。



右写真、郷福寺。








左写真、郷福寺の本堂。



右写真、原新田の分去れワカサレ。
画面右の善光寺道を走ってきた。







左写真、国道19号線に合流して走り、この先で長野自動車道の高架をくぐる。


旧道に戻り、村井宿に入る。


右写真、村井宿・新明社。






左写真、なまこ壁の商家も残っている村井の宿場。



右写真、脇本陣・問屋の山村家。








左写真、本陣・中村家。(現在、中村酒造)



右写真、明治天皇村井御小休所」碑のある旧家・中村家。(明治13年6月25日、松本から木曾に向かう途中に休憩)



国道19号線に合流。スゴイ交通量だ。




左写真、村井の一里塚跡の碑と芭蕉句碑をやっと見つけた。



右写真、句碑には、「信濃なる富士見橋こゆる日は 雨降て山皆雲に隠れたり」の前書きに
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き







旧道に入って、

左写真、出川イデガワ町村(間の宿)の多賀神社。



右写真、正殿は奥まっている。






左写真、立派な本棟造りの旧家・中田家住宅。



右写真、その門内、玄関前に「明治天皇信楽御小休所」の碑。(明治13年6月24日に休憩)








左写真、豊田橋を渡って旧道を進む。



右写真、栄橋を渡ると道幅も広くなり、松本城下の博労町。








左写真、栄橋の右手、上流側。



右写真、松本城へ真っ直ぐに向かう道路を北進。
なんと、自転車レーンがあった。







左写真、「左、野麦街道」の標石。
ココから西南、野麦峠に向かう街道だ。



右写真、千歳橋はお洒落な橋だった。
女鳥羽川の上流側を写す。


松本探訪地図HP



左写真、橋を渡って東側の四柱神社。


大手門跡を通り、さらに北進。

右写真、松本城の天守閣(国宝)。



(お堀を時計回りに一周する。)



左写真、真っ赤な埋橋と天守閣。



右写真、天守の北東方向のお堀端に白鳥がいた。








左写真、太鼓門の枡形。


(お城を出て、城下を回る。)


右写真、源智の井戸。
次から次に名水を汲みに来ておられた。
”松本街中の酒造は盡く此水にて制するなり。”




左写真、大松寺にある芭蕉句碑(手前)。
『けふばかり人も年よれ初時雨』


右写真、天守の東の善光寺道を少し進む。








左写真、中町まで戻り、西方向を写す。



右写真、松本駅到着。

JR篠ノ井線 松本発16:34→坂北着17:00 の列車に乗車。






左写真の坂北駅まで車で迎えに来てもらい、村営の坂北荘に向かう。
温泉に漬かり、お勧めの地元産松茸のフルコースを贅沢にご馳走になった。
地元産の松茸をふんだんに食した。
特に、土瓶蒸しは最高だった。
宿泊客は私1人で貸切だった。(温泉入浴に来る村の人は何人かいたが。)

筑北村諸施設差切峡温泉保養センター坂北荘
0263-66-2223
住所 〒399-7601
長野県東筑摩郡筑北村坂北9828




【2日目】



走行map:
1)左下のflagは泊まった坂北荘。左上への茶色の軌跡は、朝食前の差切峡観光。
2)朝食後、スタートし、青色の軌跡の如く、善光寺道を北上。
3)猿ヶ馬場峠にflagが立っている。
4)長野市内に入ってのflagはGPSのバッテリー切れ地点である。
5)その後の軌跡を赤線で示しているが、長野駅に寄って切符を買い、善光寺まで往復した。
下の速度・高度グラフは、上のmapの青線軌跡部分。(最初に高度が急に400m上がっているのはおかしい。今回のGPS高度データは信頼性に欠けるが、その後のグラフの形には問題はないと思う。)




【朝飯前の差切峡観光】

坂北荘は差切サギリ峡にある。差切峡は麻績オミ川の奇岩奇勝の渓谷である。川は北東方向に流れ犀川に注ぐ。6時過ぎに宿を出て、犀川を目指した。


左写真、奥が”ドの淵”。



右写真、ドの淵の下流。








左写真、麻績川はゆるやかな流れのトコロもある。



右写真、犀川と合流。
左が犀川、右手から麻績オミ川が入っている。







左写真、山清路橋。



右写真、山清路橋から新山清路橋を写す。
画面左手で崖崩れあり、引退した(旧)山清路橋が使用されていた。








左写真、復路振り返って写す。



宿に戻って、朝飯を3杯食った。









【坂北駅まで】

8時過ぎに、まずは坂下駅に向かってスタートした。

右写真、元気な野生のコスモスが見送ってくれた。




左写真、重文仁熊大日堂。
本尊の大日如来像は国指定重要文化財で、お祭りの時にしか見られない。



右写真、境内の樅の木も立派だ。樹齢600年







左写真、仁熊神明社も参道。
(昔は舟森山神明宮と呼ばれたらしい)


右写真、本殿。
画面左に古い歌碑あり。
作歌者は志津部真顔シカツベマガオ。
江戸中期、寛政、文化年間に活動記録あり。
文政年間の建立らしい。




左写真、曲がりくねっている麻績オミ川を渡る。



右写真、線路を横断して、坂北駅の東側に出る。
(正面が坂北駅舎)



9:00



左写真、青柳宿入口のお墓の下に並ぶ石仏。
右から、猿田彦尊、大日如来・馬頭観世音、二十三夜塔、南無阿弥陀仏と彫られている。



右写真、青柳宿を上っていく。
街道右側の石積みに文政年間に造られた暗渠用水路が復元されている。(画面右下に水路の出口が見える。)
前方(東方向)の山が青柳城址のある城山。




【青柳】 中世の青柳は戦国武将・青柳氏の城下町として開け、帰農した青柳氏が青山宿の本陣と問屋を世襲したとのこと。
明治8年の8ヶ村による合併で、”青柳”の名がなくなり、”立峠”の北に位置しているので、新しく”坂北村”と名付けられた。

左写真、本陣・問屋の青柳家。
郵便ポストもココに立つ。



右写真、すぐ隣の畑に林檎の木が何本かあり。
同年配の方が居たので挨拶する。「今年は暑かったのでリンゴの出来がよくない」と言っていた。(多分、青柳家の人だった感じがする。)






左写真、大切通し。



右写真、大切通し前の馬頭観世音や供養塔。







【切通し】
天正8年(1580)に領主・青柳伊勢守頼長により切り開かれた。
その後、享保元年(1716)、明和6年(1769)、文化6年(1809)と3回にわたって切り下げられた。
昭和30年(1955)にトラックが通れるようにと両脇の岩肌の下部が掘削機で削られたが、その上には鑿で削った荒々しい跡が鮮やかに残っている。
”善光寺道名所図会”に「是に依て旅人并ナラビに牛馬の往来、聊イササカも煩はしき事なく」と記されている。

左写真、大切通の入口右側の斜面には多くの観音さんなどの石仏が置かれている。



右写真、








左写真、小切通し。
前方は長野自動車道。
北進し、麻績川を越え、JRを渡り、403号線に合流する。



右写真、大きな笠の見事な燈籠。
二十三夜塔、右端に嫁の泣き石。





左写真、一口坂で旧道に入る。



右写真、道標跡。








左写真、道標跡の前に、馬頭観音。



右写真、駒が石。
木曾義仲軍の勢いが強く、通った後の石には蹄の跡が残ったとのこと。ホントかな。







左写真、(西国秩父坂東百番の)巡拝塔。
宝永5年(1708)。



右写真、叶里の道祖神。







左写真、善光寺道にエライ大きな石燈籠が新設されていた。下ってみると、麻績神社だった。



右写真、麻績神社本殿。広い敷地だ。








左写真、「ガッタリ」。木曾義仲の愛馬が長途の疲れからココで”ガッタリ”と膝を折ったので、この辺りの地名を「ガッタリ」と呼ぶようになったとさ。



右写真、麻績宿に入る。


麻績オミは、飛鳥時代に高麗からの渡来人に麻を紡ぐ技術を伝えられ、江戸時代には善光寺西街道の宿場として栄えた。





左写真、本陣跡(臼井家、屋号:瀬戸屋、1860年代に本陣職を名乗ったとのこと。)



右写真、本陣跡(臼井家、屋号:中橋)。








左写真、臼井畏三氏宅(旅籠屋”花屋平右衛門”の跡)。


この屋敷の右端部に芭蕉句碑あり。

右写真、芭蕉句碑。
『更級日記』から、「身にしみて大根からし秋の風」、「ひようひようとなほ露けしやをみなへし」。


筑北中学校の角で左折し、北進する。
(403号線にほぼ平行。)


左写真、なかなかイイ道だ。



右写真、市野川の番所跡で橋を渡る。








左写真、一里塚碑。



右写真、高札場跡。








左写真、峠を控えた市野川の落ち着いた集落。



右写真、まずはコスモスが迎えてくれた。








左写真、猿ヶ馬場サルガバンバ峠上り口の石仏群。禅宗の僧侶の墓卵塔(無縫塔)や墓塔。


続いて上に

右写真、家形の庚申塔、馬頭観音、如意輪観音(頭部欠落)。







左写真、峠の山道に入って、馬頭観音。



右写真、馬の水飲み場が復元されていた。
ココで我が人馬とも給水。







左写真、曲がりくねった急な登り坂に(現代の多分、応募した俳人の)句碑が並んでいる。



右写真、お仙の茶屋跡。
左手奥の左に傾いた碑が芭蕉句碑。(表に「芭蕉塚」、裏に「さゝれ蟹足はい登る清水かな はせを」)
寛政3年建立)
手前には「南無阿弥陀仏」塔(寛政8年)などの石仏が並んでいる。





左写真、お仙の茶屋跡の左手に弘法の清水。
今も湧き出ていた。

さらに、現代の句碑の並ぶ坂道を進む。

右写真、国道403号線に出る。
(画面左手から上がって来た。)






左写真、夜が池(今の名前は聖湖)に辿り着く。
11:40



右写真、聖ヒジリ湖の一帯は聖高原と名付けられ、ホテルや別荘で賑わっている。

湖畔の村営レストラン(聖レイクサイド館)で蕎麦定食をいただく。さすが旨い蕎麦だった。





昼食後、猿ヶ馬場峠を国道で通り抜けて、すぐ、
左写真、左手の林道?に入る。


この道を進むと、すぐ、
右写真、「善光寺道」の案内があった。
(画面右手から来たのだが、手前の砂利道がもう少し上から付けられているようだ。)
案内の山道を下る。





左写真、なかなか雰囲気のある道だ。



右写真、天気が続いているのに、水が湧き出てくるのか、じゅくじゅくの道だ。
自転車を担いで下る。







左写真、念仏石。


403号線に出る。


右写真、馬塚。






左写真、猿飛池。



右写真、火打石茶屋。








左写真、火打石茶屋の標石(左)と句碑(右)。
芭蕉が更級紀行の際に詠んだ「をばすては これからゆくか かむことり」の句碑がココの茶屋に立てられていたが平成に復元されたようだ。



右写真、松崎茶屋跡。







左写真、一里塚が急カーブのトコロに、1基だけだが残っていた。



無事、猿ヶ馬場峠を越えられたようだ。
右写真、ココで着替えてスッキリした。







左写真、くつ打場。
これは馬のわらじをはかせることをいったもので、ここは善光寺より20kmの地点で、わらじをはき替えるのにかっこうの場所であった。


長野自動車道をくぐって、

右写真、千曲市循環バスの開眼寺前バス停。
ようやく集落に出た。





左写真、開眼寺にちょっとだけ寄り道。



JR篠ノ井線を横断する。


右写真、「善光寺道名所図会」にも載る和田家は江戸時代から続く「姨捨正宗」の造り酒屋(長野酩醸)。





桑原宿に入り、
左写真、伴月楼記念館として公開されている建物。
土塀に囲まれ、土蔵2つ、瓦門(巡検使門)と長屋門の2つを構えた旧家だ。佐久間象山が上洛した時に泊まったそうだ。


バイパスも横断して、市街地、住宅地を走る。


右写真、治田町の分去れワカサレの道標。
「右、西京街道」「左、八幡宮道」
西京は江戸・東都に対する京都のことだろうか?


左写真、治田町の交差点を北進する。



右写真、左に鳥居を見て、さらに北進。



ちょっと枡形で右にずれて、仲町に入る。
(稲荷山郵便局のトコロ)



左写真、稲荷山宿の町並み。
画面左の角が1時期問屋を勤めた田中家。(白麹の看板があった)



右写真、旧家の清水家。







左写真、真っ赤なリンゴがなっていた。



右写真、「長谷観世音菩薩道」の標石。








左写真、天用寺。



右写真、聖川を聖徳橋で渡る。
長野自動車道が広がっている。

自動車道をくぐる。





左写真、「篠ノ井追分宿跡」の碑。



右写真、多分、東方向の善光寺街道を写す。
千曲川の向こうの高速道が写っている。







左写真、前方に長野新幹線の鉄橋が見える。

東進して、新幹線をくぐる。

直角に曲がり、信越本線にほぼ平行に北進する。

右写真、宝昌寺。






左写真、北原集落にある江戸時代の大仏



右写真、丹波島宿の於佐加神社。
この辺りも最近、整備されている様子。







左写真、多分、丹波島宿の本陣跡。



右写真、犀川に出ると、「丹波嶋の渡し」の大きな碑。








左写真、犀川の上流側。



右写真、犀川の下流側。
丹波島橋は直ぐそこだ。







左写真、丹波島橋を渡る。



右写真、木留神社の欅の老大木。








左写真、木留神社の本殿。
境内は広い。


右写真、観音寺。



JRの線路を陸橋で越える。
駅で帰りの切符を買う。



左写真、長野駅前の中央大通りを北進し、善光寺さんへ。
善光寺HP
善光寺参りHP



右写真、大門交差点をさらに北進。






左写真、仁王門。



右写真、








左写真、山門。



右写真、本堂。








左写真、無事、お参りを済ませた。



右写真、大勧進。








左写真、大本願。




右写真、JR長野駅。
17:00発ワイドビューしなの号にて帰阪。






【参考文献】
1)「新装版今昔中山道独案内」、今井金吾、日本交通公社、平成6年
2)「善光寺道を歩く」、傳田重義、東峰書房、 2004.04