賎ケ岳合戦、秀吉の「大返し」

                大垣 → 木之本

ザ・ファルト自転車部会の中村健一氏から
『秀吉・賎ケ岳合戦のマラソン行軍(5時間): 美濃路「大垣」→北国脇往還「木ノ本」、52キロ』
の案内があった。
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日時:2010年11月3日(水、文化の日)
コース:JR大垣〜垂井〜関ヶ原〜伊吹山麓〜JR北陸本線木ノ本駅
集合場所・時間:JR大垣駅改札09:53
列車時刻:東海道本線米原行き新快速=大阪駅07:30-高槻駅07:46-京都駅07:59-米原駅08:56
(乗り換え、熱海行き快速)09:15-大垣駅09:53着
参加者:奥田、中村(幹事)、西野、真賀里、吉田
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秀吉が柴田勝家との賤ヶ岳合戦に際して、大垣からの「大返し」に通ったルートである。
すなわち、街道とすれば、次の3つの道を走る。
A)美濃路 大垣→垂井
B)中山道 垂井→関ヶ原
C)北国脇往還 関ヶ原→木之本

走行map:
下図右のflagがスタートのJR大垣駅。
赤線のルートを走り、左上のJR木之本駅がゴールであった。



GPSの速度・高度グラフを次ぎに示しておく。



A)美濃路 大垣→垂井

大垣宿(=大垣城下町)の走行ルートは、右図(大垣観光のパンフレット「芭蕉と大垣」)が分かりやすい。

図の左上から右下に引かれている青線が旧・美濃路である。このラインを走った。

正確には、我々の美濃路スタート地点は右地図の右上部の東本願寺大垣別院(黄色部)の南西、赤坂口橋の袂にある大垣城東総門跡(名古屋口門跡)であり、ココから西へ向かった。



水門川
右地図で上から下へ流れているのが”水門川”である。
この水門川は、1635年(寛永12年)大垣藩主として大垣城に入城した戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれた。
大垣駅の北西3km付近(笠縫町)が源で、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、南へ流下し、牧田川に合流して、すぐに揖斐川に注ぎ込んでいる。

水門川は、大垣城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ舟運の運河の役割を持っていた。
松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町であり、芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿を経由して江戸に戻っている。
現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合もあり、川湊であった船町港には昔の住吉灯台も残っている。

なお、水門川の名前は、1653年(承応2年)に作られた「川口村水門」に由来するらしい。




今回の美濃路のルート等は、Network2010HP大垣宿を参考にさせていただいた。





左写真、赤坂口橋の袂にある名古屋口御門跡(大垣城東総門跡)。
本日のスタートポイント。 10:13



右写真、脇本陣跡の碑。
丁度この日は、本町商店街で「山の市 里の市 海の市」が本町貴船神社・お火焚き祭協賛で行われて賑わっていた。






左写真、問屋場跡。



右写真、本陣跡。









左写真、京口御門跡(大垣城西総門跡)。
大垣宿は本日スタート地点の名古屋口からこの京口の間で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋11軒、家数903軒、人口5136人と美濃では最も大きい町であった。



右写真、船町の道標。
京口御門の南の美濃路沿いにあったモノ。
「右 京みち、左 江戸道 」






左写真、貝殻橋から北を写す。


右写真、貝殻橋の北西の芭蕉句碑。
『さびしさやすまに勝ちたる浜の秋』
この句の解説:
敦賀湾北西岸にある色の浜は、西行が「潮染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」と詠んだ地で、芭蕉にとってはぜひとも訪れたい場所だった。
舟で渡った芭蕉は、秋の夕暮れの寂しさを、「源氏物語」の「須磨」のシーンになぞらえている。





奥の細道むすびの地・大垣
芭蕉が元禄2年(1689年)に江戸深川を出発し、5ヶ月間かかって、600里(2400km)を巡遊し、ここ大垣で「奥の細道」を結んだ。
今、大垣市では、市内を流れる水門川沿いを「ミニ奥の細道」として整備していて、左図の如く、芭蕉の句碑が並んでいる。
上の句碑もその1つだ。


下右地図は大垣輪中HP輪中マップで、大垣市域には川が網目状に流れていることがよく分かる。ほぼ全域が海抜3〜4mの低地で、地下水も豊富である。






























また、下の右図は大垣市内の芭蕉ゆかりの句碑を示している。
芭蕉は、貞享元年(1684)から元禄4年(1691)にかけて4度、大垣を訪れていて、市内のいたるところに芭蕉と大垣俳人の足跡が残されている。


下の2枚の写真は、奥の細道むすびの地記念館で写したモノ。



芭蕉の旅姿













谷木因コーナー












左写真、谷木因タニボクインの屋敷は住吉燈台の川を挟んで向かえにあった。



右写真、住吉燈台。









左写真、住吉神社。



右写真、高橋から北(水門川上流)を写す。
赤い橋は住吉橋。


大垣観光の後、高橋から一路、美濃路を西進した。





左写真、杭瀬川を旧塩田橋で渡る。



右写真、杭瀬川はきれいな川だった。
この杭瀬川も先ほどの水門川も牧田川に注ぎ、揖斐川に合流している。

1530(享禄3)年の大洪水により、揖斐川は杭瀬川筋から東寄りの現在の河道に変わったとのこと。杭瀬川は昔の揖斐川だった。






左写真、塩田の常夜燈。
中山道赤坂宿にある赤坂港と桑名港との舟運のために必要だったといわれている



右写真、よく手入れされた小菊が真っ盛りだった。








県道31号線を北に渡ると、
左写真、右手の堤防の上に谷汲山常夜灯があった。



300mほど西進して、
右写真、久徳一里塚。
南塚のみだが、美濃路に現存する一里塚は尾西市冨田の一里塚(一対)とこの久徳の2ヶ所のみらしい。






左写真、瓊瓊杵ニニギ神社。
久徳の一里塚の向かいにある。


右写真、美濃路に残っている松並木を通過すると、まもなく垂井の追分けだ。








揖斐川地図
左写真、垂井の追分け。 11:35
標識には「右 旧美濃路、左 旧中仙道」



右図、揖斐川紀行HPより転載させてもらった。
美濃路大垣を流れる水門川、杭瀬川は牧田川に合流して、揖斐川に流れている。
なかなかイイ水系だ。





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B)中山道 垂井→関ヶ原

中山道は半年前に東向きではあるが、走っているので、素っ飛ばす。


左写真、垂井の泉。 11:37
大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こり。
歌枕としても知られ、藤原隆経は『昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける』(詞花集)と詠んでいる。
芭蕉も『葱白く洗ひあげたる寒さかな』の1句を残している。



右写真、玉泉寺(禅宗)格式があるお寺だ。






左写真、「垂井の泉」の上の専精寺(真宗)。


右写真、この辺りに垂井城があったらしい。



(垂井の泉のベンチでちょっと早めの昼食休憩)






垂井と関ヶ原の中ほど、右手、
左写真、伊富岐神社の一之鳥居。
この鳥居から北北西1kmほど先(伊吹山の方向)に社殿があるそうな。

        12:18









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中山道の垂井・関ヶ原間は、2010年5月9日(日)に逆方向ながら走っているので、その記録を転載し、不足を補う。


左写真、JR西からJR東海に乗り継いで、関ヶ原駅に着いた。いよいよ、中山道へ走り出す。9:20



右写真、旧中山道松並木(関ヶ原町指定天然記念物)。






左写真、松並木の側に六部ロクブ地蔵が祀られていた。
六部ロクブとは「六十六部」の略で、全国六六か所の霊場に一部ずつ納めて回るために書写した、六六部の法華経。また、それを納めて回る行脚僧。
室町時代に始まり、江戸時代には、僧侶のほかに、鼠木綿の着物に同色の手甲・甲掛・股引・脚絆をつけ、仏像を入れた厨子を背負って、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた。
  from Kokugo Dai Jiten /Shogakukan 1988
宝暦11年(1761年)この地で亡くなった六部を里人が祠を建て祀った。その前に、基本水準点もあった。



右写真、垂井の一里塚。




左写真、垂井宿(第58宿)、西の見付跡。
東の見付まで766mの大きな宿場であった。


右写真、安藤広重の垂井宿版画。
雨の降る松並木の中を、正面中央から大名行列が西より垂井宿の見付へ入って来るところ。
本陣からの出迎え、茶屋の様子も描かれているとのこと。





左写真、本龍寺。



右写真、境内左手、時雨庵の脇の狭い庭に句碑が幾つも立てられている。一番奥の高いのが「作り木塚」。
『作り木の庭をいさめるしぐれ哉 芭蕉翁』

【作木】 盆栽や庭木などを思うような枝ぶりにするため、糸や針金などで曲げてたわめること。また、その木。
  from Kokugo Dai Jiten /Shogakukan



左写真、垂井宿の商家。(本龍寺の道向かえ)



中山道に立っている石の大鳥居をくぐって、南宮大社へ寄り道すべく長い参道を南下。
途中、垂井の泉を右手に見てさらに南下。


右写真、新幹線のガードを越えたところに立っている南宮大社の朱い巨大鳥居。



Img_36951

南宮大社は美濃国の一之宮。
朱色の鮮やかな大きな立派な神社である。
社地内に椿の森があるため「椿大社」と呼ばれることもある。
祭神は、鉱山・金山などの鉱物をつかさどる金山彦大神カナヤマヒコノオオカミ。


【垂井宿】
美濃一之宮(南宮大社)の門前町として賑わった宿。
また、中山道と(東海道を 結ぶ)美濃路との追分宿としても賑わっていた。
宿場名にもなった垂井の泉は 古代から和歌にも詠 まれた名泉で、今も滾々と清水が湧き出しているそうな。




左写真、楼門。



右写真、舞殿。







左写真、旅館・亀丸屋。
垂井宿の旅籠として200年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業しているらしい。


右写真、相川に泳ぐ鯉幟。(相川橋から)

【相川の人足渡跡】
相川は昔から暴れ川で度々洪水があった。川幅100mのこの川は大井川と同じく江戸時代は人足渡で、姫君や朝鮮通信使等の特別の大通行には木橋を掛けた。


相川を渡り、東の見付を過ぎると、まもなく、



左写真、追分道標。
松の右手に宝永6年に建てられた石の道標がある。


右写真、道標のアップ。
「是より、右東海道大垣みち、左木曾海道たにぐみみち」と彫られている。






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C)北国脇往還 関ヶ原→木之本

右図は「中山道分間延絵図・巻九(関ヶ原宿)」(from 参考引用文献1))である。中山道・関ヶ原宿が左右に延びていて、北国脇往還が上に分岐している。
脇往還は、まず八幡宮に突き当たり、西に少し折れて北上している。(現在もそうだ。)その脇往還の先には、逆さまの字で、「北国往還、玉村一里、藤川一里半」と小さく書かれている。
なお、中山道から下に分岐しているのは、勢州街道である。
我々は、跨線橋でJRを越えて「北国脇往還」に入った。

北国脇往還は、中山道関ヶ原宿から分岐して北陸へ向かう街道であり、木之本で北国街道と合流する。
江戸時代には、藤川、春照、小谷に宿駅が置かれている。
東海から北陸への最短路として盛んに利用されており、壬申の乱(672)においてもこのルートが使われていたものと考えられる。
北陸脇往還の名称は、明治以降に定着したものであり、それ以前の文献・絵図には「北国往還」「越後路」「北国道」等の名称が見られ、
北国街道の脇道ということではなく、東海と北陸の最短路として独立した街道と捉えるべきである。
(参考文献1)より抜粋)

なお、「脇往還」とは、拙HP善光寺道の冒頭でも記しているように、江戸時代に5街道から別れる主要な道の呼び名であり、
北国脇往還といえば北国街道(中山道追分宿から越後高田宿まで)のことを、少なくとも関東の人は指すようだ。


左図は参考引用文献1)の冒頭頁にあり、「北国脇往還」のルートが分かりやすい。
我々は、この地図右の関ヶ原から木之本までの「北国脇往還」を北西方向に走った。



























左写真、脇往還に入ると、すぐ、東首塚がある。コレは東首塚割合広いの敷地の南東にある”松平忠吉、井伊直政 陣跡”である。



右写真、東首塚。 12:35









上の関ヶ原古戦場のmapは参考引用文献3)から複写転載させていただいた。非常に分かりやすい。


左写真、関ヶ原古戦場 決戦地。



右写真、前方の小さな祠は子安地蔵。
このすぐ近くに一里塚跡があったはず。
手前の苔が生えた石は、国境のシンボルの夫婦岩の”女岩”かも知れぬ。
(参考文献1)では子安地蔵の200m先となっているが。)
この先、藤古川に架かる道路橋の先は通行不能なので、円通寺のトコロで国道365号に戻った。
なお、藤古川は滋賀県の川では例外的に琵琶湖に注がず、牧田川に合流して揖斐川になっていく。




藤川の信号の先で右折して、旧道に入るべきを直進してしまい、藤川宿を飛ばす。
北国脇往還は道標が不十分で、この後も、屡々旧道を見失った。


左写真、寺林集落の案内図。


右写真、寺林の八坂神社。
この左の道を上ると、湖北の守護だった京極高清の城館・上平寺ジョウヘイジ跡に至る。






左写真、八坂神社左手にあった道標。


寺林の先で旧道が通行止めのため、山側(北側)の車の道を西進する。まもなく、左の林を抜ける快適な坂道に出会い、下った。
ソコは大清水の集落だった。
日本名水百選の泉神社に寄らずに、北の車道に戻る。


右写真、大清水から北の坂道を上り、車の道に当たる直前。伊吹山が真っ正面だ。

すぐに左の細い旧道に入るべきトコロを直進。


大阪セメント伊吹工場を左に見て、専用線を横断してから、気付き、左折、南下して、春照スイジョウに向かう。


左写真、春照宿・本陣跡。



右写真、春照スイジョウ宿の落ち着いた街道を北西に進む。






左写真、谷川沿い、北國橋の袂の柳岸寺。
伊吹に見守られている。



右写真、その向かえの福永伝四郎商店。
昨日、熊が出たそうな。今年は酷暑だったので木の実の出来も悪いのかな。







左写真、長浜街道との分岐点がすぐ。
「左 ながはま道、右 北國 きのもと・ゑちぜん 道」の道標が八幡神社の角に。


右写真、小田ヤナイダ集落の手前に小さくて古いが、立派なお社があった。


北国脇往還は小田に入らず、その東を進み、小田橋(通行不能)に至るが、我々は小田、井之口を経由し、姉川を(小田橋の1つ下流側で)渡り、相撲庭を確認した。


佐野の集落を通過。



野村(間の宿)、草野川橋(越前橋)を通るべきところを、佐野から北進してしまった。

左写真、姉川の支流・草野川に至り、休憩。

  15:13

右写真、草野川の上流側を写す。
桜紅葉がきれいだ。


「福良の森」跡を抜けて、八島の集落へ。



左写真、八島の「友地蔵」。
道標には「東 関ヶ原ミち、西 虎姫駅 一里、南 内保 約四丁 木之本 約二里、北 矢島」


右写真、「左 江戸道、右 越前道」
北国脇往還沿いの道標の中で”越前”を指すのはコレだけらしい。


(矢島集落で往還は折れ曲がり、ややこしいからか、6つの道標が確認されていて、矢島は街道きっての道標メッカとのこと。)





左写真、亀塚古墳。



右写真、伊部本陣。









左写真、伊部本陣前の往還。
前方は小谷山。
画面右手には林檎がなっている。



(郡上南交差点のセブンイレブンで関東焚を食べる。)



右写真、小谷城清水谷で、多分、来年のNHK大河ドラマ「江ゴウ〜姫たちの戦国〜」のロケのセットが用意されていた。



左写真、郡上の高札所跡。

脇往還を北北西に走る。

右写真、馬上マゲは水を巡らせた落ち着いた集落だ。

西に進み、高時川を阿弥陀橋で渡る。
(昔は、渡しだったらしい。)
暫く、高時川右岸堤防の道を楽しむ。

集落の道に降りて、雨森



左写真、東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
を訪ねたが、16時で閉館だった。
ココは琵琶湖一周自転車旅で8年前に訪れたが、静かな落ち着いた雰囲気はそのままだった。



右写真、芳洲庵から北方向を写す。
画面左は水車。右上に欅。
欅ケヤキの古名は槻ツキで、高月町は多くある。高月という地名は「高い槻のある土地:高槻」だったのが、平安時代に月の名所として歌に詠まれたことから高月に変えられた。





左写真、田部の等波トバ神社を見て、木之本駅に至った。  17:14快速乗車。













左図、近江国絵図(天保6年)を基にした湖北の街道図           右図、近江・越前国境付近の交通路

最後に参考引用文献1)からmapを2枚引用紹介させていただだいた。この文献は長浜歴史博物館の力作で、大いに参考になった。

【参考引用文献】
1)「北国街道と脇往還」:市立長浜城歴史博物館、サンライズ出版、平成16年10月
2)「近畿地方の歴史の道8」:滋賀県教育委員会、海路書院、2006年6月
3)「美濃路をゆく」:児玉幸多 監修、学習研究社、2001年5月