チョットずつ奥の細道 f           象 潟   キサガタ



     『 象潟や雨に西施がねぶの花 』

       ファイル:Albizia julibrissin4.jpg
上図は支倉出版編集部編 『みちのく芭蕉絵物語』(伊沢清氏 絵)から            「合歓の花」 from wikipedia
手前に咲いているのが「ねぶの花」、遠景は雨にけむる象潟の島々。
   from http://blogs.yahoo.co.jp/akasakahiro/41734570.html



   −−−−− 芭蕉の旅 −−−−−


芭蕉は、『このたび、松島・象潟の眺めともにせんことを喜び』 と 「おくのほそ道」の《日光》の段において、曾良を紹介する一節の中で述べている。
このことからも分かるように、象潟は、松島と並び称される歌枕の地であり、芭蕉の今回の旅の大きな目的地であった。


芭蕉は、1804年旧暦6月15日(新暦7月31日)、
『酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさご(砂子)を踏みて、その際十里、日影やや傾カタブくころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。
闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色またたのもしきと、蜑アマの苫屋に膝をいれて、雨の晴るるを待つ。 』
と記している。
多分、「蜑アマの苫屋」は、能因法師が象潟で詠んだ「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」 を踏まえての表現だろう。

そして、翌6月16日、念願であった 『象潟に舟を浮かぶ』ことができた。その時の句が
  『象潟や雨に西施がねぶの花』
そして、「おくのほそ道」には、もう1句、
  『汐越や鶴はぎぬれて海涼し』    (汐越:外海の波が象潟の入海に打ち寄せる浅瀬の名)
が記されている。

なお、芭蕉真跡懐紙には、
  「きさがたの雨や西施がねぶの花」
と、ある。また、この句などと併記して
  「腰長コシタケや鶴脛ぬれて海涼し」       (腰長コシタケ:浅瀬の名)
の句が書かれている。
これらは、いずれも初案であり、「おくのほそ道」では推敲されている。芭蕉さんですら推敲を重ねたのだ。


   象潟には、芭蕉(江戸前期、1644〜1694)が来る前に、西行(平安末期、1118〜 1190)、その前に、能因(平安中期、988〜1058)が訪れている。
   象潟は、「能因歌枕」を編集した能因、その能因を慕う西行、そして西行を仰ぐ芭蕉、この3人がやって来た”大いなる歌枕の地”なのだ。
   ここで、象潟の歴史を少し振り返ってみると、
   昔々、紀元前5世紀に鳥海山が噴火して大規模な泥流が日本海に流れ込んだ。やがて、浅海は潟湖になり、多数の島々が点在した。
   その九十九島・八十八潟の景は素晴らしく、「東の松島 西の象潟」と呼ばれる景勝地であった。
   しかし、芭蕉が訪ねた115年後、1804年の象潟地震で海底が隆起し、象潟は陸地になってしまい、干拓、水田開発が進められることになった。
   一旦は歴史的な景勝地がなくなりかけたが、当時の蚶満寺住職の呼びかけなどで保存の気運が高まり、現在の姿を留めている。
   今も、水田地帯に102の元・小島が点々と残されていて、田植え時に水が張られると、往年の象潟を髣髴とさせる景を見ることができる。



  象潟「九十九島」     

  左写真、鳥海山を背景に象潟「九十九島」が描かれている切手。

      右写真、蚶満寺にあった、にかほ市の説明板。



   −−−−− 我が旅 −−−−−

  2012年10月28日(日)、五輪会の仲間との2泊3日東北旅行で、伊丹から秋田空港に向かった。
  空港からは全行程を、8人乗りのワゴン車で案内してもらった。感謝!
  角館を傘を差したり畳んだりしながら、ゆっくり散策。稲庭うどんの昼食。
  日本で一番深い湖・田沢湖の沿岸を走って、金ぴかの辰子像前で記念撮影。
  
  楽しみにしていた乳頭温泉に長時間、3回も入った。
  ブナ林の中の露天風呂は最高であった。

  2012年10月29日(月)、田沢湖を経由して象潟に向かう。
 
  
   上の写真は、紅葉・黄葉の山と、その向こうに田沢湖。   雨上がりで一層美しい。

  一路、車は、無理を言って旅のコースに入れてもらった”象潟”を目指して走る。
  高速無料区間(7号線)を降りるトコラ辺から、象潟「九十九島」の跡が点在して見えてきた。
  まずは、蚶満寺に到着し、芭蕉の足跡を辿る。


【蚶満寺】

      


 駐車場から境内に入り、いきなり、西施像に迎えられる。

    

 左写真、計5人の西施の記念写真。どなたが本物の西施か?     
     地元の庄内美人、芦屋美人、泉州美人、河内美人の揃い踏みである。京美人が今回は参加できず、残念。

    右写真、芭蕉像も5人西施の前では小さく写っている。 (この像は、『奥の細道』300年記念に建立されたものとのこと。)
       像の左下に句碑があり、「象潟の雨や西施がねぶの花」と彫られていた。


    

 左写真、境内から見た九十九島の一つ。能因島だとか?
 
   「おくのほそ細道」では、先ほどの引用に続いて、
    『その朝アシタ、天よく霽ハレて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。
    まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、』
   とある。

  上の写真の小高い丘は、当時は島であり、周りの田圃は潟の水面だった。
  芭蕉は舟で象潟の島を巡り、真っ先に能因島に上陸して、敬愛する能因法師が三年間隠栖した跡を見た。
  能因が象潟で詠んだ歌を再掲する。
       ” 世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして ”  (後拾遺集)


     右写真、蚶満寺山門に立つ人、それを写す人。そして、向こうには小さく4人西施。みんな友達である。


    

  左写真、山門は古くなって修復が急がれる状態だが、なかなかのモノである。
  仁王さんは門の外からは見えない構造である。

    境内をぐるっと回って、中写真は、舟つなぎの石。
      芭蕉が訪れた頃は、周りが潟の水だったので、この蚶満寺には舟で渡った。その綱をつないだ舟つなぎ石である。
      石の向こうは水面であった。

      右写真、芭蕉句碑。
       石の正面真ん中に”芭蕉翁”と大きくしっかりと彫られていて、その右に「象潟の雨や」、左に「西施がねぶの花」と嫋やかに彫られている。
       宝暦13年(1763)の建立らしい。

     

  左写真、北条時頼公のつつじ。樹齢700年以上とのこと。
  時頼は、ココを神功皇后ゆかりの地として、寺を再興したらしい。

    中写真、本堂。

      右写真、朱色の欄干の欄干橋(象潟橋)。
        晴れていれば、画面中央に鳥海山が見えるはず。
        芭蕉もココに立って、鳥海山の晴嵐を楽しんだとのこと。
        

  なお、蛇足ながら、「おくのほそ細道」の引用を続ければ、
    『向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老い木、西行法師の記念カタミを残す。』
  とあり、蚶満寺にも「西行法師の歌桜」と札を立てた若桜があった。

  そして、《象潟》の段の最後に、
    『俤オモカゲ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾ウラむがごとし。寂しさに悲しびを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。』
  と象潟の印象を述べている。


  この後、我々五輪会の車は、ランチのため、道の駅象潟「ねむの丘」に寄った。
  ココからは東南方向、象潟九十九島の向こうに、鳥海山が見え(本日は雲に覆われて残念ながら見えず)、
  西には眼下に日本海が広がっていて、絶景であった。夕日が日本海に沈む眺めは格別らしい。

  お腹がふくれた後、車は鳥海山に、向かった。
  葛折りの急坂を登り始めると、段々雨が激しくなり、一寸先も見えなかった。これも思い出。


  芭蕉らは、象潟から酒田に戻り、越後路を南下していく。


我々五輪会も酒田まで南下して、山居倉庫を訪ねた。
ソフトクリームが旨かった。









  夕刻には、庄内の友に招かれて、一同大宴会。
  その夜は、なのはな温泉・田田に泊まった。ゆっくり温泉に漬かって、明日の英気を養った。




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