チョットずつ 奥の細道

              〜 自転車とカヌーそして歩き 〜


【目次一覧表】

本『奥の細道旅』HPの目次一覧表(実施日程順)を次に示す。

     テーマ        訪問地 日程 寄り道
 鶴岡の友    酒田→羽黒山・月山3合目→鶴岡 2011年9月26日〜29日 東田川文化記念館
 江戸の友    江戸→春日部 2011年10月9日〜10日 隅田川カヌー行の下見
 金沢の友    金沢→小松→山中温泉→丸岡 2011年10月26日〜28日 安宅の関、実盛塚、首洗い池
 隅田川canoe  深川→千住、春日部→小山 2012年4月24日〜26日
 月山へ     大石田→猿羽根峠→新庄→羽黒山→月山→湯殿山 2012年7月30日〜8月3日 最上川カヌー行の下見
 象潟       象潟 (五輪会の旅で寄り道) 2012年10月29日
 日光       小山→鹿沼→日光 2013年4月1日〜3日
 那須野      今市→矢板→黒羽→殺生石 2013年4月28日〜30日
 最上川canoe  山寺、最上川canoe、山刀伐峠 2013年6月13日〜15日  
   奥へ       遊行柳→白河の関→須賀川 2013年9月28日〜30日   
   地震の跡は   二本松→福島→白石→館腰 2014年4月20日〜22日   
   津波浸水深さ   実方の墓→仙台、塩竃、松島、(女川 2015年6月14日〜17日         女川
  平泉          中尊

                               なお、「黒いバイクのペダリング」のTopページに戻るには、 
                                        次の”Mother Lake琵琶湖一周”へ進むには、 


本HPでは、”芭蕉の奥の細道ルート”を、江戸、鶴岡、金沢の3地点からスタートしている。
この3地点から、芭蕉が歩いたように反時計回りに “陸奥、出羽” および ”北陸”を折り畳み自転車で走る計画である。
尺取虫方式で、数日ずつの旅を繰り返して、数年がかりで、全ルートをカバーしようと考えている。
ただし、月山は当然徒歩で登り、芭蕉が舟旅を楽しんだ、隅田川、松島、最上川、赤川(鶴岡→酒田)、色浜は、折り畳みカヌーで漕ぐ予定である。


【 prologue 】   三人の友

 芭蕉の「おくのほそ道」600里(2400km)、140日の足跡を“チョットずつ”数年掛かりで辿る計画を予てより温めていた。
芭蕉が敬慕して已まなかった西行法師も訪れた、遠く “陸奥、出羽” および ”北陸” にわたる「奥の細道」を、折り畳み自転車で巡る、我が人生最大のLong Journey 「チョットずつ奥の細道」をいよいよ開始できそうである。
このジャーニーは、多分、芭蕉がそうであったように私も、我が人生の三人の友を訪ねたいと思ったのが発端であった。

 その一人は、江戸の人
高校1年の時からの友である。多感な1年生の12月に同級生の女生徒が旅立った。16才であった。
お通夜の帰りに、柔道部の練習を終えて帰宅する彼と偶々出会った。
連れ立って京阪電車に乗り、ともに守口駅で降りた。それ以来の友人である。
一度も同じクラスにならなかったが、なぜか気が合い、3年生の時には、我家の屋根裏部屋で毎晩一緒に勉強をした。
彼は真面目に励み、現役で赤門をくぐった。私はのらりくらりで当然のことながら浪人になった。
教師に教えてもらうことが大嫌いな私は、予備校には行かず宅浪をした。
高三の初夏に父親が他界していたが、思えば、あの浪人時代が我人生で一番幸せな時期だったかも知れない。
少しだけ家庭教師のアルバイトをしたが、誰に気を遣うこともなく毎日を思うがままに過ごせた。
入試に受かった翌年、江戸の人が企画してくれ、もう一人の共通の友(彼とは私は中三の時に同級で、江戸の人は高三の時に同級だった)と3人で東北一周の旅に出掛けた。
最初の夜は、柔道部の彼が住まいする汗臭い駒場寮でのゴロ寝だった。

 もう一人は、鶴岡の人
会社時代に邂逅った同業他社の人で、いわばライバル会社の人である。
彼はT大の応援団の創設に関わり応援歌も作曲した。おまけに空手二段。オーケストラではホルン奏者、バイトはダンスホールでサックスを吹いていたそうな。
それに山男でもある。あーそうそう私たちにピアノを弾いてくれたこともあった。
彼は、同業他社の中から友を4人集めて、その懇親の場を屡々作ってくれた。
皆が喜んで集まった。激務で来られない人もあったが、今では一人を除きリタイアの道を選び、五輪会という名の元に夫婦ともども集っている。
ちなみに、その5人は1年ずつ生年が違い、私は丁度真ん中である。得難い集まりであり、有り難いことだ。
勿論、その鶴岡の人の会社時代は、痛快なほどに仕事人間だった。そういえば、五輪会の人はみんなそうであった。
そんな中で、人生の先を見据え、こういう仲間作りをして下さったことにホント感謝している。

なお、縁起でもないことかも知れないが、もしも、彼の方が先であればドボコン(ドヴォルザークのチェロ協奏曲)を流すように頼まれている。
しかし、頑健そのものの彼が先に逝くことはあり得ない。
ちなみに、私たち夫婦は家族葬を希望しており、古稀を迎えたら息子達に、その時には「シベリウスのフィンランディア」を流してくれるように頼むつもりである。
これはホルンの彼が私に勧めてくれた曲で、非常に元気づけられ、気に入っているのだ。

 そして三人目は、金沢の人
同じ大学から同じ建設会社に同期入社した、ダンディーなナイスガイだ。
私は土木だが、彼は教育学部卒である。大学ではマイナーな野球をやっていた。
我々の大学からの事務系の入社は彼が初めてで、先輩はいなかった。正論を臆せず述べる正義漢の彼は小さな支店に転勤になった。
誰の目から見ても我が社が割り込むことは無理な地方のエリアに、何故か支店が開設され、彼はそこに飛ばされたのだ
。地盤の全く無い彼の地で、飛び抜けて若年の彼は相当な努力をし孤軍奮闘したが、小さな支店の成果は会社からはあまり評価されず、多分、無念のうちに、一言も愚痴を吐かずに会社と訣別した。
その後、私の退社を伝え聞いた彼が九谷焼の盃を贈ってくれた。
3個がセットになっていて、それぞれに“安宅の関”の義経、弁慶、関守・富樫左衛門の3人の絵が描かれている。
小振りながら縁取り等に金が効果的に施され、あでやかで実に美しい九谷の盃だ。私はこの盃をジャーニーに持参し、彼と是非とも酌み交わしたいと楽しみにしている。

 不思議なことに、この3人を結ぶと、奥の細道になるのだ。
この3人には人生の大きな借りがある。
それを私には返すことはできないが、せめて会ってお礼を申し述べたい。
そこで、私の「奥の細道」ジャーニーは、まずは、この3人の友、正確には恩人を訪ねることから始めることにした。

 この旅が私の人生における最もロマンに富んだジャーニーになる予感がして、身が震えてくる。
我が身が萎える前に、このような旅ができる幸せを神に感謝し、併せて我が奥方にも謝意を表したい気持ちである。

                                                                (2011年9月 記)

【芭蕉工程図】
  
               (上の工程図は 京都書院「芭蕉が見た風景」槙野尚一著,平成9年 より複写転載させていただいた。旧暦表示。)


【付録:芭蕉の旅程との対比】

 後掲の参考文献1)の「(新版)おくのほそ道」 潁原退蔵・尾形仂 訳注(角川ソフィア文庫、平成15年)は、
芭蕉の250回忌に当たる昭和18年に潁原退蔵がその存在を確認した素龍ソリョウ浄書「おくのほそ道」(西村本;敦賀市西村家蔵)を底本としている。
これは芭蕉が元禄7年に素龍に浄書を託し、みずから題簽ダイセンの文字をしたため、最後の旅(元禄7年)の頭陀の中に携えていった書物らしい。
本HPでもこの書をベースにさせていただく。

松尾芭蕉の「おくのほそ道」450里(1800km)・143日?旅程を下表に”水色”で彩色して示す。
その右欄に”緑色”で彩色して、我が旅程を対比、表示してみた。
芭蕉の旅程は「曾良随行日記」によっているで、曾良が”腹を病みて”8月5日に伊勢長島の親戚に先立って以降、8月20日までの間は詳らかでない。
表中の”「おくのほそ道」見出し”は、参考文献1)の「(新版)おくのほそ道」に設けられた”見出し”である。(この”見出し”は便利なので、当HPの文中においては、《》で囲って引用利用させていただく。)
同じく、表中”Q太郎の旅程”の「旅順タビジュン」(旅の順番で、リョジュンではない)のアルファベットは、本頁冒頭に示した「目次一覧表」の左端に付した我が旅の順番であり、芭蕉の細道旅の順番とは合っていない。

no 新 暦
1689年
元禄2年
曾良随行日記 おくのほそ道 Q太郎の旅程
旧 暦 宿泊地 見出し コメント 旅順 月日 宿泊地
0 発端
2011年 10月9日 bike Comfort清澄白河
1 5月16日 3月27日 予定:20日? (深川発) 旅立ち 千住まで舟旅。 d-1
2012年 4月24日 canoe Comfort清澄白河
2 5月16日 3月27日 千住ニ揚ル 春日部 草加 草加泊はfiction。
2011年 10月10日 bike 帰阪
3 5月17日 3月28日 間々田 d-2 2012年 4月25日 bike 小山
d-3 2012年 4月26日 bike 帰阪
4 5月18日 3月29日 鹿沼 室の八島 g-1 2013年 4月01日 bike 新鹿沼・竹澤旅館
5 5月19日 4月1日 日光 日光 g-2 2013年 4月02日 bike ナチュラルガーデン日光
6 5月20日 4月2日 玉入 那須野 h-1 2013年 4月28日 bike 矢板イースタンホテル
7 5月21日 4月3日 黒羽 黒羽 h-2 2013年 4月29日 bike ホテル花月
8 5月22日 4月4日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
9 5月23日 4月5日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
10 5月24日 4月6日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
11 5月25日 4月7日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
12 5月26日 4月8日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
13 5月27日 4月9日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
14 5月28日 4月10日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
15 5月29日 4月11日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
16 5月30日 4月12日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
17 5月31日 4月13日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
18 6月1日 4月14日 黒羽 雲厳寺 雲厳寺訪問は4月5日 h-2 2013年 4月29日
19 6月2日 4月15日 黒羽 h-2 2013年 4月29日
20 6月3日 4月16日 高久 h-3 2013年 4月30日 bike
21 6月4日 4月17日 高久 h-3 2013年 4月30日 帰阪
22 6月5日 4月18日 那須湯本
23 6月6日 4月19日 那須湯本 殺生石
24 6月7日 4月20日 旗宿 遊行柳・白河の関
25 6月8日 4月21日 矢吹
26 6月9日 4月22日 須賀川 須賀川
27 6月10日 4月23日 須賀川
28 6月11日 4月24日 須賀川
29 6月12日 4月25日 須賀川
30 6月13日 4月26日 須賀川
31 6月14日 4月27日 須賀川
32 6月15日 4月28日 須賀川
33 6月16日 4月29日 郡山
34 6月17日 5月1日 福島 浅香山・信夫の里
35 6月18日 5月2日 飯坂 飯塚の里
36 6月19日 5月3日 白石 笠島 笠島は武隈ノ松の後
37 6月20日 5月4日 仙台 武隈タケクマの松
38 6月21日 5月5日 仙台 宮城野
39 6月22日 5月6日 仙台
40 6月23日 5月7日 仙台 壺の碑イシブミ
41 6月24日 5月8日 塩竃 末の松山・塩竃
42 6月25日 5月9日 松島 松島
43 6月26日 5月10日 石巻 瑞巌寺
44 6月27日 5月11日 登米トヨマ 石の巻
45 6月28日 5月12日 一関
46 6月29日 5月13日 一関 平泉
47 6月30日 5月14日 岩出山
48 7月1日 5月15日 堺田 尿前シトマエの関 蚤虱馬の尿する枕もと
49 7月2日 5月16日 堺田
50 7月3日 5月17日 尾花沢 尾花沢 ”清風を尋ぬ” i-3 2013年 6月15日 bike 帰阪
51 7月4日 5月18日 尾花沢
52 7月5日 5月19日 尾花沢
53 7月6日 5月20日 尾花沢
54 7月7日 5月21日 尾花沢
55 7月8日 5月22日 尾花沢
56 7月9日 5月23日 尾花沢
57 7月10日 5月24日 尾花沢
58 7月11日 5月25日 尾花沢
59 7月12日 5月26日 尾花沢
60 7月13日 5月27日 預リ坊 立石寺 i-1 2013年 6月13日 bike ルートイン新庄駅前
61 7月14日 5月28日 大石田 e-1 2012年 7月30日 bike 新庄ニューグランドH
62 7月15日 5月29日 大石田
63 7月16日 5月30日 大石田
64 7月17日 6月1日 新庄
65 7月18日 6月2日 新庄 最上川 i-2 2013年 6月14日 canoe ルートイン新庄駅前
66 7月19日 6月3日 羽黒山南谷 出羽三山 a-2 2011年 9月26日 bike&bus 羽黒山参籠所
67 7月20日 6月4日 羽黒山南谷 a-3 2011年 9月27日 歩き
68 7月21日 6月5日 羽黒山南谷 2011年 9月27日 bike
69 7月22日 6月6日 月山山頂 e-3 2012年 8月1日 歩き
70 7月23日 6月7日 羽黒山南谷
71 7月24日 6月8日 羽黒山南谷
72 7月25日 6月9日 羽黒山南谷 a-3 2011年 9月27日 bike ルートイン鶴岡駅前
73 7月26日 6月10日 鶴岡 鶴岡 鶴が岡の城下、長山重行
74 7月27日 6月11日 鶴岡
75 7月28日 6月12日 鶴岡 a-1 2011年 9月25日 bike Rich&Garden酒田
76 7月29日 6月13日 酒田 川舟に乗つて酒田の港に
77 7月30日 6月14日 酒田
78 7月31日 6月15日 吹浦 象潟 山を越え磯を伝い砂浜を f 2012年 10月29日 car
79 8月1日 6月16日 汐越 (夕)象潟に舟を浮かべた f 2012年 10月29日 car
80 8月2日 6月17日 汐越
81 8月3日 6月18日 酒田 (夕刻、酒田帰着)
82 8月4日 6月19日 酒田 越後路
83 8月5日 6月20日 酒田
84 8月6日 6月21日 酒田
85 8月7日 6月22日 酒田
86 8月8日 6月23日 酒田
87 8月9日 6月24日 酒田
88 8月10日 6月25日 鶴岡市大山
89 8月11日 6月26日 温海
90 8月12日 6月27日 中村 (翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ関被趣)
91 8月13日 6月28日 村上
92 8月14日 6月29日 村上
93 8月15日 7月1日 築地村
94 8月16日 7月2日 新潟
95 8月17日 7月3日 弥彦村
96 8月18日 7月4日 出雲崎
97 8月19日 7月5日 柏崎市
98 8月20日 7月6日 上越市
99 8月21日 7月7日 上越市 荒海や佐渡に横たふ天の河
100 8月22日 7月8日 高田
101 8月23日 7月9日 高田
102 8月24日 7月10日 高田
103 8月25日 7月11日 能生町
104 8月26日 7月12日 市振 市振 一つ家に遊女も寝たり萩と月(虚構)
105 8月27日 7月13日 滑川 越中路
106 8月28日 7月14日 高岡
107 8月29日 7月15日 金沢 金沢 c-1 2011年 10月26日 bike
108 8月30日 7月16日 金沢 c-1 2011年 10月26日 bike
109 8月31日 7月17日 源意庵 金沢 源意庵の主:北枝。「あかあかと・・」 c-1 2011年 10月26日 bike
110 9月1日 7月18日 金沢
111 9月2日 7月19日 金沢
112 9月3日 7月20日 金沢 秋涼し手ごとにむけや瓜茄子
113 9月4日 7月21日 金沢
114 9月5日 7月22日 一笑追善会 金沢 金沢 願念寺で。「塚も動け・・」 c-1 2011年 10月26日 bike ヴィアイン金沢
115 9月6日 7月23日 宮越に遊ぶ 金沢 小鯛さす柳すゝしや海士が軒 c-2 2011年 10月27日 bike
116 9月7日 7月24日 金沢を立つ 小松 c-2 2011年 10月27日
117 9月8日 7月25日 小松 多太神社 しおらしき名や小松吹く萩薄 c-2 2011年 10月27日
118 9月9日 7月26日 小松 c-2 2011年 10月27日
119 9月10日 7月27日 山中に着く 山中 山中 むざんやな甲の下のきりぎりす c-2 2011年 10月27日 山中グランドホテル
120 9月11日 7月28日 医王寺見る 山中 c-3 2011年 10月28日 bike
121 9月12日 7月29日 鶴仙渓 山中 山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ c-3 2011年 10月28日
122 9月13日 7月30日 鶴仙渓 山中 c-3 2011年 10月28日
123 9月14日 8月1日 黒谷橋 山中 c-3 2011年 10月28日
124 9月15日 8月2日 山中
125 9月16日 8月3日 山中
126 9月17日 8月4日 山中
127 9月18日 8月5日 曾良と別れ 小松 那谷ナタ 石山の石より白し秋の風 c-3 2011年 10月28日
128 9月19日 8月6日 (曾良全昌寺) 小松 別離 8月5日:けふよりや書付消さん笠の露
129 9月20日 8月7日 (曾良森岡)
130 9月21日 8月8日 (曾良今庄) 全昌寺? 全昌寺 庭掃いて出でばや寺に散る柳 c-3 2011年 10月28日
131 9月22日 8月9日 (曾良気比) 汐越の松  ”西行の一首にて数景尽きたり” c-3 2011年 10月28日 bike 帰阪
132 9月23日 8月10日 天龍寺・永平寺
133 9月24日 8月11日 (曾良木之本) 福井? 福井
134 9月25日 8月12日 (曾良鳥本) 福井?
135 9月26日 8月13日 (曾良関ヶ原) 敦賀? 敦賀
136 9月27日 8月14日 (曾良大垣) 敦賀?
137 9月28日 8月15日 (曾良長島) 敦賀? 種イロの浜
138 9月29日 8月16日 敦賀?
139 9月30日 8月17日 木之本?
140 10月1日 8月18日 彦根?
141 10月2日 8月19日 関ヶ原?
142 10月3日 8月20日 大垣?
143 10月4日 8月21日 大垣 大垣
144 10月5日 8月22日 大垣
145 10月6日 8月23日 大垣
146 10月7日 8月24日 大垣
147 10月8日 8月25日 大垣
148 10月9日 8月26日 大垣
149 10月10日 8月27日 大垣
150 10月11日 8月28日 大垣
151 10月12日 8月29日 大垣
152 10月13日 9月1日 (曾良長島) 大垣
153 10月14日 9月2日 大垣
154 10月15日 9月3日 (曾良大垣) 大垣
155 10月16日 9月4日 大垣
156 10月17日 9月5日 大垣
157 10月18日 9月6日 伊勢へ



【「おくのほそ道」の後の芭蕉】

 芭蕉は元禄2年の晩春に開始したこの大旅を秋に終えて、少なくとも8月21日以前にゴールの大垣入りを果たした。
そして、9月6日に大垣を発ち、13日に内宮に参拝後、郷里の伊賀に至っている。
奥の細道後の芭蕉は、
 伊勢(第46回式年遷宮)に出掛け、伊賀、京・落柿舎、湖南、膳所で越年。(元禄3年) 伊賀、膳所、義仲寺、幻住庵入庵、(健康の衰えを自覚)、上洛、幻住庵(膳所の洒堂)、大津・膳所・堅田・京、伊賀、京、大津で越年。(元禄4年)膳所・義仲寺近傍の庵、(越年)、伊賀、奈良、伊賀、大津、落柿舎、京・大津・膳所、9月末・帰東の途につく、10月末江戸着。

すなわち、江戸に帰ったのは、「おくのほそ道」旅の後、2年以上経った元禄4年の冬であった。
(当時の老齢期の大旅による肉体の衰えがあったのではないだろうか?)
芭蕉が精魂を傾けた「おくのほそ道」の自筆本(平成8年1996発見;いわゆる野坡本)の成立は元禄5年6月以後と見られている。
その自筆本を利牛リギュウが清書したモノが曾良本。芭蕉はこの曾良本に改訂・校正を加えて、素龍に浄書を託した。そして出来上がった成稿がいわゆる西村本。西村本は、元禄7年4月をあまり隔たらぬ以前の完成らしい。(参考文献1)

翁は、元禄7年10月8日夜すなわち、死の4日前に、病中吟「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を詠んでいる。


なお、有名な右図「芭蕉行脚図」は、元禄6年に許六キョリク(彦根藩士)が描いたもので、「おくのほそ道」の行脚姿を最もよく写していると言われている。
芭蕉は、薄髭をたくわえ、頭巾、墨染め道服、脚絆、草鞋の姿で、手には反りのある笠と細い竹杖。
後の曾良も墨染めの衣で、前と後に振り分けた頭陀袋を掛けている。あまりにも小さい荷物である。




 付録 -------- 芭蕉の旅物語--------


芭蕉の旅は下のMAP(from 芭蕉と伊賀)の如くである。各紀行を簡単にメモしておきたい。
芭蕉の足跡 全国版



























【野ざらし紀行(甲子吟行)】  最初の紀行。41歳〜42歳。野ざらし紀行行程地図

・1684年8月〜翌年4月。   (1684年貞享元年は60年に1度の甲子の年である。)
・江戸〜(東海道、伊勢街道)〜伊勢、伊賀(母の墓参)、吉野(西行庵)、奈良、山城〜(近江路)〜大垣、名古屋、再び、伊賀(越年)、奈良、京・伏見、鈴鹿峠、名古屋〜(中山道)〜下諏訪〜(甲州街道)〜江戸。  右のMAP(from 芭蕉の足跡・野ざらし紀行)を参照。

   野ざらしを心に風のしむ身かな
   山路来て何やらゆかしすみれ草





【笈の小文】     44歳〜45歳。

・1687年10月〜翌年(元禄元年)6月。
・江戸、伊賀(正月)、吉野、唐招提寺、大阪(八軒屋で宿泊)〜(舟)〜須磨、明石、布引の滝、箕面の滝、高槻(能因法師の塚)、島本町(桜井駅跡、山崎宗鑑屋敷跡)
・芭蕉は大阪を訪れたのは2回。コレが1回目。(2回目は最後の旅)

笈の小文行程地図
   旅人と我名よばれん初しぐれ
   雲雀より空にやすらふ峠かな

左のMAP(from 芭蕉の足跡・笈の小文)を参照。

















【さらしな紀行】     45歳。

・ 「笈の小文」の続きで、〜1688年8月。
・芭蕉は、美濃で休養を十分にとった後、1688年8月11日、当地の門人達に見送られて「さらしな紀行」の旅に出発した。
 この旅の目的は、”姥捨山(更科)の月”であったが、行程的には「笈の小文」の続きであるので、屡々、その付録として見られる。
 しかし、「笈の小文」の旅のルートは「野ざらし紀行」と似通っていて、その反復とも言え、気分的に楽だったのに対して、
 「さらしな紀行」の木曽街道は危険も伴い、緊張感が違うと思われる。
 翌年の「おくのほそ道」への、肉体的、心理的、文芸的なリハーサルとも位置づけられ、
 俳聖・芭蕉の生涯に大きな影響を与えたものと思われる。

・8月下旬には、江戸帰着。

   十六夜もまだ更科の郡かな
   身にしみて大根辛し秋の風



【おくのほそ道】     46歳。

・1689年(元禄2年)3月27日〜同年9月。
・深川発・・・・・ “陸奥”、”出羽”、”北陸” ・・・・・大垣着。
・大垣に着き、「おくのほそ道」を終えたが、江戸には帰らず、2年ほど京滋地方に留まる。 1691年9月末、江戸へ発つ。


【「曾良随行日記」における時刻】

「曾良随行日記」は、時刻の記述が相当に詳細である。
〈例えば、最初の部分であるが、「巳三月廿日 日出(午前4時36分) 深川出船。巳ノ下尅(9時30分頃〜10時20分頃) 千住ニ揚る。」〉
江戸時代は、(明治6年の太陰暦から太陽暦への改暦までは、)定時法でなく、不定時法が使われていた。
庶民の間での一般的な不定時法の表現は「六つ、七つ、八つ、九つ・・・」だったらしいが、「曾良随行日記」では、十二支表現の方を使っている。
また、十二支の時間分(現在の2時間)は一般に「上刻、中刻、下刻」と3等分されるのだが、曾良は、「上尅、中尅、下尅」と書いている。


時刻はなかなか難しいので、wikipediaをベースに少し整理しておく。

【刻】 from wikipedia
刻コクは、漢字文化圏で使用される時間・時刻の単位である。様々な長さの「刻」があり、同じ時代の同じ地域でも、複数の「刻」が並用されていた。また、定時法と不定時法の違いもある。
・ 1日=48刻 : 最初にできた「刻」は、1日を48等分するものであった。「刻」という名称は、漏刻(水時計)の刻み目に由来するものである。漏刻には48の刻み目がつけられており、昼夜それぞれ24の刻があった。すなわち、この1刻は30分に相当する。
・ 1日=100刻 : これとは別に、1日を100等分する「刻」もあった。1日は86400秒なので、1刻は864秒(14分24秒)である。なお、「刻一刻」の「刻」はこちらの意味である。日本では、100分割の刻は天文や暦学の分野で使用され、不定時法が採用されてからも等分のままであった。また、暦にも、100等分の刻で表した昼間の長さが記入されたものがあった。それによれば、春分・秋分には昼の長さが50刻、冬至には40刻、夏至には60刻となる。
・ 1日=12刻 : 漢代になると、48等分の刻を4つまとめて、1日を12等分して夜半から十二支を順に振る制度ができた。他の刻と区別するために、「辰刻シンコク」とも呼んだ。この刻は2時間に相当する。48等分の刻(約30分)は、辰刻を4分割する一種の補助単位として使用され、「子の一刻」「寅の四刻」などと呼ばれた。日本では、12分割の刻は室町時代ごろから不定時法となり、季節によってその長さが異なるようになった。(不定時法では常に、日の出は卯(日出)の正刻、日没は酉(日入)の正刻となる。また例えば、子の刻ならそれぞれを「子一つ」「子二つ」「子三つ」「子四つ」と呼んだ。「草木も眠る丑三つ時(丑三つ刻)」の成句で知られる「丑三つ」は約2時から2時30分である。)
・ 1日=36刻  : 日本では、1つの辰刻を上中下に3分する「刻」もあり、「子の上刻」「寅の下刻」などと呼んだ。どの「刻」も、明治時代に西洋の時法が導入された後は使われなくなっている。
 「曾良随行日記」では、この《辰刻シンコク1日=36刻》の十二支表現の方を使っている。そして、十二支の時間分(現在の約2時間)の3等分(約40分)は一般に「上刻、中刻、下刻」と表現されるが、曾良は、「上尅、中尅、下尅」と書いている。

【不定時法】
現在は、1日を24時間に等分割し、時間の長さは季節に依らず一定な定時法であるが、江戸時代以前は、夜明けから日暮れまでの時間を6等分する不定時法が使われてきた。日出と共に起き日没と共に寝る生活に根ざしたた時法である。
当然、季節により昼夜の長さが変わり、時間の長さが変わるが、時計のない昔の人にとっては太陽の高さで大体の時刻が分かるので便利であった。

【日本の時法の変遷】 from wikipedia
日本では、中国の一日を12等分する時法や、100等分する時法が導入され、当初は一日を12等分する定時法であった。
室町時代ごろから日の出と日の入(または夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられるようになった。ただし、天文や暦法で使う時法は一貫して定時法であった。
江戸時代には、その不定時法に表示を合わせた和時計も作られたらしい。
室町時代後半から、時刻を時鐘の数で呼ぶようになった。時鐘は、昼に9つ打ち、一刻ごとに1つずつ減らして4つの次は深夜の9つに戻り、また一刻ごとに1つずつ減らして4つの次が昼の9つとなる。
時刻が進むごとに数が減っているように見えるが、実際には増えている。中国の陰陽の考え方では9を特別な数として扱い、もっとも縁起の良い数と考えられていた。このことから9を2倍(9 × 2 = 18)、3倍(9 × 3 = 27)、4倍(9 × 4 = 36)…と増やしていって、その下一桁をとると9、8、7、6…となり、減っているように見えるのである。9の倍数分だけ鐘を鳴らそうとすると最大で54回も鳴らすことになるため、十の桁を省略した。
昼と夜で同じ数があるので、これらを区別して右の表のように呼んだが、江戸時代以前の人々の生活は夜明けから日暮れまでが中心であったことから、昼間の時刻という前提で日常会話では「昼」や「朝」は省略されていることが多かった。ただし、六つだけは明け方なのか夕暮れなのかわからないため「明六つ」、「暮六つ」と言い分けた。

さらに、刻の分割法については、夜間の分割は6等分のほか、5等分の更点法もある。日暮れを一更とし、二更、三更として夜明け前は五更となり、一つの更はさらに一点から五点まで5等分され、夜明けは五更五点となる。
一刻の真ん中を「正刻(しょうこく)」と呼び、または一刻を3等分して上刻・中刻・下刻とする分割もあった。

【十二時辰】 from wikipedia
十二時辰とは、近代以前の中国や日本などで用いられた、1日を2時間ずつの12の時辰に分ける時法である。
十二辰刻(じゅうにしんこく)・十二刻(じゅうにこく)・十二時(じゅうにじ)とも呼ぶ。時辰・辰刻・刻・時は、いずれも本来は単に時間・時刻という意味の言葉だが、十二時辰制のもとでは1日を12に分けたそれぞれの2時間を意味し、刻・時はまた任意の2時間を表す単位としても使われる(ただし他の長さを表すこともある。刻は1日を48に分けた30分など、時は1日を24に分けた1時間も意味する)。
12の時辰を右表に示す。時刻は定時法の場合で、不定時法では季節によりやや変動する。



【参考引用文献】

1)「(新版)おくのほそ道」、潁原退蔵・尾形仂、角川ソフィア文庫、平成22年
2)「奥の細道を旅する」旅とガイドと行程図付、JTB、2003年
3)「図説・おくのほそ道」、青春出版・萩原恭男監修、2006年
4)「奥の細道の旅ハンドブック・改訂版」、久富哲雄、、三省堂、2002年
5)「芭蕉「おくのほそ道」の旅」、金森敦子、角川oneテーマ21、2004年
6)「「おくのほそ道」を旅しよう」、田辺聖子、講談社 古典を歩く、1997年
7)山と高原地図8「鳥海山・月山」1:50,000、2010年版、昭文社
8)「日光街道歴史ウオーク」、横山吉男、東京新聞出版局、2004年


【参考HP】

芭蕉db 奥の細道
奥の細道 - J−TEXTS 日本文学電子図書館
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
芭蕉発句全集
「奥の細道」一人旅
奥の細道歩き旅
松尾芭蕉 おくのほそ道の足跡を訪ねて
奥の細道 紀行文
芭蕉と伊賀
なお、雅路の部屋HPの中に平成・奥の細道ウオーク( 11年かけて歩いているそうな)があり、その付録には、「芭蕉・おくのほそ道」や「能因歌枕」が掲載されていて、親切なHPである。

芭蕉DB「奥の細道」に全文がある。
芭蕉DB「曾良随行日記」に全文がある。
http://yw.jkn21.com/contents/intro/koten/shoutai/cont_kotenshou71.html
芭蕉自筆本参考HP 松島塾
芭蕉自筆本参考HP 古典への招待   

室の八島〜日光memo



【copy資料】   折角の資料が無くなるのを恐れて、勝手ながらコピーして転載させていただく。

a) 『奥の細道』は歌仙の旅だった─島居清の『芭蕉連句全註解』(全11巻)を読みつつ text 258
 http://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/a785cf2cc1e3665b3d788e09f01cc020

弟子の河合曾良を伴っての芭蕉の「奥の細道」行は、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に始まる。江戸・深川の採荼庵を出発し、全行程2400km、約150日をかけて、東北・北陸を旅した。「奥の細道」では、旧暦8月21日頃、大垣に到着するまでが書かれている。この芭蕉の「奥の細道」に関する書籍に関しては、今までに夥しい数が出版されていて、新刊書店や古書店に行けば、その賑わいぶりに圧倒されてしまう。

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅(べっしょ)に移るに、<草の戸も住み替はる世ぞ雛の家>、表八句を庵の柱に掛け置く。

1997年に岩波書店より、芭蕉自筆本の『奥の細道』が出版され、筆者もこれを所有する。切ったり貼ったりしての、相当手のこんだ芭蕉自筆本を時々取り出しては、これを眺める。すぐそばに芭蕉の息遣いが聞こえるようで、そのつど緊張感に震える思いがする。精神性の勝る芭蕉独特な文体は、『幻住庵記』にも通じるもので、さすがと思わざるをえない。とはいえ、「そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて…」というようなところを読むと、いささか「貧乏たらしく」も求心性のある、その独自な書きぶりに苦笑せざるをえないときもあるのだ。芭蕉の起筆の冒頭のこの文章において、筆者がいつも注目するのは「<草の戸も住み替はる世ぞ雛の家>、表八句を庵の柱に掛け置く」のところ。歌仙であれば「表八句」ではなく「表六句」となる。「表八句」は100韻形式のもの。やはり芭蕉は正式の100韻形式に敬意を表していたのだろう。それにしても「発句」と書かずに、「表八句」と書いたところは、十分注意して読まなければならない。

江戸から大垣までの『奥の細道』のプロセスで行った歌仙は、未完(3句、4句、表6句、半歌仙、二十句、二十六句など)のものも含め、30回以上あり、そのうち36句が満尾したものは、15回ある。また44句(しおらしき)と50句(ぬれて行や)もあって、非常に多彩な連句興行を実施している。満尾した歌仙は「かげろふの」(江戸/2月7日)、「秣おふ」(黒羽/4月14日)、「風流の」(須賀川/4月22日〜23日)、「かくれ家や」(須賀川/4月24日)、「すずしさを」(尾花沢/5月中下旬)、「おきふしの」(尾花沢/5月中下旬)、「さみだれを」(大石田/5月29日〜30日)、「御尋に」(新庄/6月2日)、「有難や」(羽黒/6月4日〜9日)、「めづらしや」(鶴岡/6月10日〜12日)、「温海山や」(酒田/6月19日〜21日)、「忘るなよ」(酒田/1692年までに完成)、「馬借りて」(山中温泉/7月末から8月上旬)、「あなむざんやな」(小松/8月上旬)、「はやう咲」(大垣/9月4日)。

15回の歌仙で芭蕉が発句を詠んだのは、<かげらふのわが肩に立かみこかな>(江戸)、<秣おふ人を枝折の夏野哉>(黒羽)、<風流の初やおくの田植歌>(須賀川)、<かくれ家や目立たぬ花を軒の栗>(須賀川)、<すずしさを我やどにしてねまる也>(尾花沢)、<さみだれをあつめてすずしもがみ川>(大石田)、<有難や雪をかをらす風の音>(羽黒)、<温海山や吹浦かけて夕涼>(酒田)、<あなむざんやな冑の下のきりぎりす>(小松)、<はやう咲九日も近し宿の菊>(大垣)の10句であった。このうち、『奥の細道』に掲載されたのは、<風流の初やおくの田植歌><すずしさを我やどにしてねまる也><さみだれを集めて早し最上川>(推敲句)<有難や雪をかをらす南谷><温海山や吹浦かけて夕涼>の5句で、きわめて厳選である。

芭蕉の『奥の細道』行は、@歌枕をたずねるA謡曲の関連地を見るB能因・西行の跡をたずねるC義経の古跡を見る─の四つが主な目的であり、そのためには各地の人の協力が必要だった。マネージャー役に曾良を任命し、芭蕉たちの二人三脚は「連句興行」を連続的(断続的)に行い、その目的を完遂した。「連句興行」を行うことにより、基本的に150日間の衣食住が保障されたのである。もちろん二人は、そのつど何がしかの「鳥目」(ちょうもく=金銭)も受け取ったはずだ。精神性のきわまる芭蕉だけれど、こうした世故に長ける合理的なソツのなさも、超一流だった。「聖人芭蕉」というイメージが世の中に構築されて久しいが、「悪党芭蕉」ほどではないにしろ、客観的総合的に芭蕉を解析する眼は必要だろう。

ところでこのほど筆者は島居(しますえ)清の『芭蕉連句全註解』(全11巻/桜楓社)を、神田の某古書店にて手に入れた。ちなみに島居清は、大正3年(1914年)広島県生まれ。京都大学国語国文学科を卒業し、のち親和女子大学教授を務めた。労作『芭蕉連句全註解』は、『芭蕉全集』(全11巻/富士見書房)の中の『芭蕉連句篇』(第3巻〜第5巻)と並んでの必読書だろう。二つのシリーズを中心に、初秋(9月又は10月)に始まる「ぶるうまうんてん歌仙」(前半開催)の「芭蕉の100韻を読む@─あら何共なや(延宝5年)」の読書会(勉強会)の準備をしたい。写真は満開になった、筆者宅の白の百日紅。

二の腕と聴く一の糸百日紅  須藤 徹

*本稿では、『おくのほそ道』ではなく、『奥の細道』に統一しました。







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