屈斜路湖 そして 釧路川 ・・・

              50歳のある夏の日の思い出

             思い起こせば1993年の出来事で大分古い話ですが、
             「Q太郎一人旅」の原風景としてご紹介します。

   Q太郎(西野久二郎)も50歳になった。
   「人生50年」という言葉もある。
   幸いなことに、長男がこの春就職し、
   次男も曲がりなりにも大学に席をおいている。
   さあ、この夏はカヌーツアーリングを堪能するぞ!
   カァちゃんには悪いけど、男には男の道があるんだ。
   というわけで、夢にまで見た(ちょっとオーバーかな)
   釧路川カヌーツアー(日本カヌー普及協会主催)に勇躍、参加した。     
  


8月3日、皆さんより1日早く、大阪からのANA直行便で女満別空港に着いた。
北海道は快晴であった。天候不順の今夏このようないい天気になったのは、2、3日前からとのことであり、天も我味方のようである。


空港のレストランでカニラーメンを食う。北海道の味がした。
ラベンダーの花を見ながら暫し待って、阿寒バスの定期観光バスに乗り、美幌峠を経由して和琴半島に向かう。
途中で観光停車した美幌峠からの眺めは雄大で、北海道に来たことを実感する。
眼下に見える屈斜路湖のコバルトブルーが感動的で、湖面には小舟一隻の姿も見えず全く人の気配がない。
明日、和琴半島の付け根の宿から、屈斜路湖の真中に浮かんでいる原生密林の中島へカヌーで漕いでいくのだ。心が躍る。


3日と4日は、和琴温泉の湖心荘に泊まった。3日は一人部屋である。
宿のご主人は大変に親切な方で、モーターボートで屈斜路湖を走っているがカヌーもやってみたいと言われた。
この宿は屈斜路湖に面した町営キャンプ場の浜に隣接しており、3日の夕方、宅急便で届いていたカヌーを組立て、庭に置いた。
-----艇はQ太郎の先代の青いKG−1(フジタカヌー)------



4日の朝、早速、愛艇で和琴半島の東側に廻り、翌日からのカヌーツアーのスタート地点であり、釧路川の始まる眺湖橋付近の偵察に行った。
眺湖橋の真下に直径6寸位の松杭が何本も打ち込まれており、明日のコースどりは注意を要する。
その帰りに屈斜路湖畔の露天風呂の一つであるコタン温泉に艇を横付けし、カヌースーツを脱いで温泉に漬かった。
人っ子一人いない大自然の中、快晴のもと屈斜路湖の向こうに美幌峠に連なる山々を眺めながら、ゆったりと北海道を味わった。
最高の気分であった。


一旦、宿に戻り昼食の後、昨日、美幌峠から眼下に見た中島に向かって漕ぎ出した。

先ほどまで雲に包まれていた美幌峠がその時だけは、はっきりと見えた。だんだんと雲が厚くなり結構、寒くなってきたが、予定通り4km東南東の池の湯露天風呂に向かうことにした。
横風を受けながら、5万分ノ1の地図を頼りに硫黄山の麓の方向を目指して漕ぎ始めた。



北風すなわち向かい風がかなり強くなってきた。2時間近くかかって、ようやく中島の南岸に着けることができた。


1時間後ようやくガイドブックには無かった屋根の付いた鄙びた露天風呂に辿り着いた。
カヌー装束を脱ぐのももどかしく温泉に飛び込んだ。疲れて冷えきった身体がジワーと暖まってくる。このまましばらくじっーと漬かっていたい。
しかしもう5時を回っている。かわいい女の子が3人入ってきたが残念ながら、許可を得て写真を撮り、引き返した。


待ちくたびれて夜7時を過ぎ、ようやくフジタカヌー研究所の藤田社長を初めツアーの面々が湖心荘に到着し、明日からのツアーの前祝いの宴会が始まった。
やはり北海道まで来てのカヌーツアーなので、皆さん一段と盛り上がっている。

8月5日、いよいよ釧路川カヌーツアーの出発である。
十数艇のツアーグループが2班に分かれることになり、私は第1班に入った。さすがに水がきれいだ。
ゆるやかな流れに両岸から木の枝が我もの顔に張り出していて釧路川が始まった。
小一時間ほど漕ぐと、唐突に人工的に作られたコンクリートブロック敷きのダラ瀬があった。
水深が浅く、今回の釧路川ツアー用にとフジタさんに注文した私の新しいパドル“嵐流”の先が少し傷ついてしまった。
この瀬を過ぎたところで上がり、握り飯の昼飯を食った。
その後、流れは原生林の中をくねくねと蛇行を繰り返し、倒木や沈木が随所に現われ来て釧路川らしくなってきた。
今回のツアーには経験の浅い方も参加されているからか、前後の間隔が相当開いてきた。
釧路のIGAさん所の友保さんが先達であるが、1班のメンバーのベテランの言によって後方へ見に行き、なかなか帰って来ない。
もしも何かトラブルがあっても、2班が続いているのだから問題は無かろうということで、私達4艇は、この折角の釧路川を前にしていつまでも待つことができず、勝手に自分たちだけで進み始めることにした。
カーブで曲がったすぐのところに倒木があったり、水面下に沈んだ倒木に真近になって気付いたりで、どんどん流れ進み、釧路川を楽しんだ。

ぼつぼつ休憩したいなあと思うが、蛇行と倒木が次々と続き適地がなかなか見つからない。
そうこうするうちに、本日一番の流れの早い急カーブを曲がり切った先の瀬のド真中に木が生えているではないか。
そして、その木にファルトが張り付いている。我々は、その上流の河原に艇を留めた。
張り付いたのは若いカップルの二人艇で、その直後にいた屈強の若者二人によって、なんとか木から離された。
今度は我々のツアー仲間のウィンドデザイナーN嬢の乗っていたポリ艇N−1が、上流の急カーブで沈して浮いているうちに流れに乗ってしまい、またも先程の木に張り付いた。
今回も若者達が腕力で木から離してくれた。
私は、このN−1を瀬の下流で掴えるべく、無謀にも正面から立ち向かい、両手で船首をキャッチしようとしたが、当然のことながら支えきれずに右胸に当たってしまった。
艇は半回転し、艇に抱きついていた身体は水中で一回転した。
ようやく艇をコントロールすることができ、10m下流の右岸に揚げた。
30分以上待って、ようやくツアーグループの本隊が現われた。
今度はK氏夫妻と子供の乗ったファルト二人艇QG−2が沈して流され、舟底を見せて瀬の上流左岸から張り出した木の枝ににボトムが引っ掛かってしまった。水が3分の1位入っている。
伊賀さんのパーティが川からレスキューを行っているが、なかなか離れない。
私も加勢し、木の上の枝にぶら下がって反力をとり、両足でボトムをゆっくりと交互に押すと少しづつ下流に動き始めた。
こうなるとしめたものである。しかし、この艇も本流に乗ってしまい、またも瀬の真中の木に張り付いた。これを伊賀さんのパーティが上手く離した。さすが手慣れたものだ。
この完全に水船になったQG−2をまた瀬の下流で掴える必要がある。

今度は先程の失敗を教訓に、横から艇を押し流れに対してを横向きにさせた。
しかし、もう少しで接岸というところで横向きになった水船の流される凄い力に負けて、身体が下流側に押された。
運悪く水面下に倒木が隠れており、ほぼ鉛直に出ていたその枝(径、約10cmか)と真横になったQG−2のボトムとの間に身体が挟まれてしまった。
背中が痛い。胸が苦しい。
何とか身体は抜け出したが、今度は艇がその枝に貼り付いてしまい、駆けつけた船主のK氏と二人で艇を下流側に水面上を半回転させて倒木を乗り越え、ようやく右岸に揚げることができた。
この水船の水出し作業は重労働であった。


一段落し、休憩の後、グループの全艇が順次漕ぎ出した。
夕暮れが近づいてきたので、屈斜路湖から約20km地点の摩周大橋の袂で艇を回収して車で5km下流左岸まで運んでもらい、テントを張った。
Y夫人、Yさん、N嬢ら、女性軍が腕によりをかけて、暖かく栄養満点の鍋料理を作って下さった。
これを肴に、先程、摩周大橋横の町営売店の親切なお姉さんから買った焼酎“摩周湖”をグイグイ呑み、身体の芯から暖まった。
摩周大橋で少し右胸に痛みを感じていたが、そのこともすっかり忘れ、いい気持ちで寝袋に入った。

深夜になって胸の痛みに耐えきれず、テントの中で呻いていたらしい。
看護婦をされているYさんが、心配して鎮痛の座薬を下さった。
そして、皆さんで苦労して電話を探し救急車を呼んで下さり、国立弟子屈病院に運ばれた。
レントゲンを撮ると、肋骨が2本折れているとのことである。
どうやら、瀬でのレスキューの時に折ったようだ。コルセットを着けてテントに帰ってきた。いつの間にか東の空が明るくなっていた。
座薬が効いて痛みは無く、Y氏ご夫妻のテントで寝かせていただいて、ぐっすりと眠りこけた。

目が覚めると、快晴で絶好のカヌー日和である。胸の痛みも無い。十分カヌーが漕げそうだ。
私の気持ちを見越してか、藤田社長の指示で私の愛艇はすでに畳まれ、車の中に積み込まれている。
看護婦のYさんからは「絶対に乗せない」と言われ、Y夫人からは「川は逃げないから」と言われた。
もう、諦めざるを得ない。伊賀さんの車に乗せてもらって、もう一度、病院へ外来受診に行ってから、一人での観光旅行に切り替えることとし、釧路湿原に向かって漕ぎだす皆さんに別れを告げた。
病院での診察では、まあ大丈夫だろうということであった。
あまりにも天気がよいので、JR摩周駅近くの伝統ある旅館に宿をとり荷物を預けて、定期観光バスで摩周湖に向かった。
まず第一展望台に行った。湖水の透明な青は神秘的で何とも言えない。
霧は全く無く、カムイッシュ島はもちろんのこと摩周湖の隅々までよく見えた。
摩周湖も快晴であった。次に第三展望台に行った。こちらからの眺めは更に美しかった。
はるか南の遠景に、皆さんがカヌーで向かってられる釧路湿原が見えていた。日本晴れの絶好のカヌー日和である。
その後、急にシンドくなって歩くのも困難になったが、何とかバスに乗り、やっとの思いで旅館に帰った。
夕方になってもよくならないので予定より2日早く、明日7日に女満別空港から帰ることにした。
カヌーツアーの方々と明晩、釧路の大喜館でお会いできるのを楽しみにしていたが、残念ながらキャンセルの電話を入れた。


翌日、大分ましになった。JR摩周駅から釧網本線の快速に乗り、道東の原野、大地を車窓から眺めながら一路、網走に向かった。
やはり北海道は広い。やがてオホーツクの海が見えだした。波は穏やかで、私の腕でも十分漕げそうである。
そのうち一度オホーツク海を漕いでみたいものだ。
網走駅から女満別空港行きのバスに乗った。窓から見えた網走湖も非常にきれいだった。空港でお土産を買って、ANAのボーイングに無事、飛び乗った。
帰宅後、9日まで休んだが、熱が下がらず、シンドかった。



10日から3日間出社し、会社の近くのH外科へ行ったがレントゲンを撮っただけで、症状はよくならなかった。
13日から16日はお盆休み。この間、医者も休みだった。
17日に出社し、昼前にH外科で息苦しいことをもう一度告げた。聴診器を胸に当てると、右胸が呼吸をしていないという。
レントゲンを撮った後、急いで紹介された病院に行くように言われた。病院ではレントゲン写真を診て、すぐ入院することになった。
診断書の病名は、“血胸および肋骨骨折”であった。
入院するなり右脇胸にメスが入り、直径1.5センチのチューブが突っ込まれ、血が抜かれた。2000ccほど出たとのことだった。
その後6日間、ポンプで陰圧をかけてチューブから肋骨と肺の間に入った血液が抜き続けられた。
その間、ベッドから動けず四六時中ベッドに縛られていた。

23日の朝、一旦チューブを2つのハサミで厳重に止めてポンプから外し、車椅子でレントゲン室に運ばれた。
入念にレントゲン写真が撮られ、そして昼前にチューブが抜かれて傷跡が乱暴に縫われた。
肋骨が複雑に折れて血管に突き刺さり、その血が肋骨と肺の間に充満し、肺が押しやられ萎んでいたとのことであった。
メスの跡が完璧にくっついたことを確認してから抜糸し、その後も胸が完全に気密状態であることを確認してからでないと退院できないと言われた。
従って退院は9月になるとのことで、今は割合気楽な入院生活をさせてもらっている。
なお今後溜ってくる血は注射器のようなもので抜くそうである。


今回の事故はいい勉強になった。
カヌーのセルフレスキューについては、クラブ・ザ・ファルトの吉田究先生のご指導を受け、そのお陰でソロも楽しめるようになり、去年と今年のお正月には一人で琵琶湖の西国三十番、竹生島へ初詣に出掛けてきた。
ところが今回のように自分が艇から降りて川の瀬に立ち、流されてくる無人のカヌーをレスキューするような場面は考えたこともなかった。
このような状況で素手でレスキューする時には上流側から艇を掴えるようにし、絶えず自分の身体を艇に対して上流側になるようにコントロールすることが大事であると身に染みて覚えた。

  

私は今年50歳になったが、人生の大先輩でもある藤田清氏やその昔からの友人M氏のお姿を拝見していると、自分も後10年間はカヌーが楽しめそうである。
大自然の中で、時には大自然を相手に繰り広げられる「小さなカヌーの限りない楽しさ」を今後ともじっくりと味わっていきたいと思っている。
その上でも、今回のレスキューは貴重な体験になるであろう。また、今回の入院生活はいい経験であった。
6日間ベッドから動けなかったこと、その間、女房や息子、それに同室の方々に大変お世話になった。
その後、病院では、12時間もの大手術をされて地獄を何回も見てきた方を初め、重病、重体の方々と同じ釜の飯を食い(私は出されたものは残らず食べたが、ほとんど食べることができない方が大半であった)、それぞれの闘病生活を拝見させていただいた。
そこには、それぞれの生き様があった。
生き抜くためには攻めることが重要であり、守りの姿勢では負けてしまう。
自分の人生を主体的に生きることが、即ち、自分の人生を大切にすることであり、悔いのない人生を生きることになる。
重病で苦しい時には、特にこのことが大事であり、常日頃の生き方がその時に効いてくると思う。呉々も自分の人生を大切にしたいと思う。
苦しい時の神頼みは駄目である。優し過ぎる介護も駄目である。医者が治してくれるのではない。
自分が治すのである。頼れるのは最後は自分だけであり、攻める気力、精神力こそが重要である。

今回の出来事は、天から見ておられた神様が、私の50歳の記念に、そして今後の人生のためにと、仕組んで下さったことではないかと思う。
退院後、気分一新、新たな次の人生を生きていくことができそうな気がする。そうでないと、罰が当たる。

  【1993年8月29日  大阪掖済会病院 215号室にて】


〔追記〕

病院では、青木豊明院長、西野光一副院長、水山陽子先生に診ていただいた。

8月30日:肋膜炎をおこしており、今後ともその影は写るとのこと。
9月1日:CTスキャンを撮った。
9月2日:S氏が昼休みにお見舞に来て下さる。CSCS説明資料の推敲、打合の用があるので、一緒にタクシーで会社へ外出出勤。
9月3日:午後出社。Appendixも含めて、英文資料を完成。夕方、社長にアポを入れ、準備状況を報告。集まってきた資料類を持ち帰り、4、5日の土日で目を通すことにする。
9月4日:8月31日に同じ病室に入院してこられたSa氏が、昨日午後、CIUに運ばれたが、本日午後、亡くなられた。40歳前と思われる日焼けした頑丈な身体の方だったのに。合掌。
9月6日:9時前に出社し、昨日スイスから来日、来社されたCSCSのDr.Focardi氏に「当社における情報システムズ・アプローチ」につき説明。
9月7日:明日、正式に退院できることになった。夜、同室のI氏のウンチが臭う。今までも臭っていたのだろうけれど、窓を開けていたので分からなかった。今日は10月ぐらいの気候で非常に涼しく、窓を閉めているので臭う。
9月8日:昼食後、妻と次男に伴われ退院。皆様、大変にお世話になりました。ありがとうございました。家に帰り、手術後初めてお風呂に首まで漬かり、伸ばしていた髭を剃った。

【215号室の入院患者の動向】
8月17日のメンバーは、松田氏、松崎氏、山口氏に私が加わって4人。8月22日、山口氏が退院。
8月23日、池田氏が別の部屋から、希望して215室に引越。8月28日、松崎氏が退院(胃を切って、入院期間は2ヶ月)。
9月1日、佐久間氏入院。容態はよくないようだ。
9月3日、佐久間氏、昼過ぎにICUへ。
9月4日、佐久間氏死亡。

                          完