海津大崎2010  山桜を訪ねて


クラブ・ザ・ファルト吉田代表から、2010年4月のお花見ツアーの案内があった。 
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   いよいよ水の季節ですね。今年は桜はいかがなりますことやら。
   それでも、4月は海津大崎に参りましょう。
   1:日時 2010年4月3日(土)〜4日(日)
   2:集合 3日12時、今津の琵琶湖汽船桟橋南湖岸。13時出艇。
   3:行程 3日は海津大崎まで(キャンプ泊) 4日は長浜まで(コンディションによる)
   4:申込 4月2日(金)20:00までに吉田まで(少雨決行です)
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【1日目 : 4月3日(土)】  

今津の琵琶湖汽船桟橋南を13時過ぎに出艇。


左写真、前方、石田川の小さな三角州(国民宿舎などがある)に向かって、右から奥野艇、吉田艇、真賀里艇、奥田艇。西野艇を加えて総勢5艇。13:17



右写真、今津浜で上陸休憩。14:20
天気予報では安心していたのだが結構、風波が強い。
(画面左手は松林で、その向こうに喫茶店があった。)



左写真、画面右手に小さな防波堤があり、波を避けて小休止。14:55
北東の風が強かった。



右写真、爺っちゃんが二人、青いプラスチックの小さなたらいと投網を持って湖岸を歩いてきた。
琵琶湖への小流れのトコロで、網を何回か投げた。
どうやら、子鮎を捕っているらしい。琵琶湖も春だ。15:07





左写真、前方に知内浜の岬が延びている。15:09



右写真、知内川を過ぎ(画面左端に河口の人道斜張橋のタワー)、知内浜沖を漕ぐ。
前方にマキノプリンスホテルの青い屋根が見える。
15:33






左写真、マキノビーチ(高木浜)東端にある「湖のテラス」(塔屋の螺旋階段を上ると地上高約10mの展望デッキに出られる。)の前の浜に着艇。
15:50



右写真、岬の先端は海津大崎、今宵のテントサイト。
その前に竹生島。






左写真、真賀里艇は所用がありココで上がった。「湖のテラス」で艇を解体している真賀里さんに別れを告げて出艇。16:05



右写真、エリ網の仕掛けも絵になる。
ようやく風波も収まってきた。







左写真、海津大崎の桟橋に白い観光船が泊まっている。



右写真、海津大崎では花見提灯がぶら下がっていた。








左写真、今夜のキャンプサイトに着艇。16:50
染井吉野はまだ蕾であったが、先っちょにはピンク色が微かに見えた。



右写真、当然、桜の下にテントを張る。







左写真、葛籠尾崎のすぐ右手遠くに伊吹山も見える。



右写真、焚木を集めて積み重ね、テントを張って、いよいよディナーの始まりである。18:10









左写真、湿っていた焚木も燃えだし、キャンプらしくなる。18:45


北斗七星とオリオン座が同時に見えていた。


この夜は相当に冷え込んだ。零下まで下がったようだ。
(今津の観測データは、−1.4℃だった。)




【2日目 : 4月4日(日)】 

左写真、東の空が明け始める。5:30
右から、竹生島、伊吹山、葛籠尾崎。


右写真、西の空には下弦の月が残っていた。








左写真、テントに朝日が当たる。6:30



右写真、各自、朝食を済ませる。








左写真、朝日を浴びる桜の蕾。



右写真、ぼつぼつテントを乾かして畳むかな。








左写真、菅浦や大浦の漁師が小舟で漁場に向かう。
7:30過ぎ



右写真、我々4艇もぼつぼつ出艇だ。8:30







山桜を探しながら、岸沿いに東進する。

左写真、絶壁に咲く山桜は見事である。



右写真、カヌーならではの花見をじっくりと楽しむ。






左写真、ココにも咲いている。



右写真、大浦湾の湾口を東に横切り、菅浦に向かう。








左写真、菅浦に上陸すると、ミカンと山桜が迎えてくれた。




右写真、集落唯一のShop「大八商店」で昼飯の食材を仕入れた。
「今日は春祭なので皆バタバタしている」と言う。
菅浦を出た若者も年に一度の祭には皆帰ってくるのだ。





左写真、須賀神社に行くと、祭の幟がはためいていた。




右写真、祭太鼓も用意してあった。







左写真、神輿蔵では、神輿3体の前で祭の準備が整えられている様子。


神輿は14時に出ることを確認し、我々は出艇。



右写真、集落の東端の四足門にも吹き流しが舞っていた。





左写真、蜃気楼。
竹生島へ(長浜から)向かう観光船の立てる波の背丈が異常に高い。
船の吃水部分も高い。


右写真、蜃気楼。
前方左手の葛籠尾ツヅラオ半島の右の湖面から遠方の薄い山影(饗庭野アイバノ丘陵)の下の湖面まで浮島現象が広がっている。
安曇川河口三角州の松林が浮いて見えている。




【浮島(冬型蜃気楼)】   相模湾の蜃気楼HP平塚市博物館)から抜粋紹介させていただく。========================

    浮き島現象の説明

「温度の違う空気がサンドイッチみたいに重なっていると、その影響で光が少し曲がる。
冬の相模湾の場合、晴れた日の朝には気温は0度近くに下がるが、海水の温度は10度くらいあり、海面のすぐ上の空気は海水に暖められて温度が上がる。
そのため、”下が暖かく上が冷たい空気”の層ができる。
冷たい空気の方が密度が高く、光はそこを通る時に、冷たい空気の方に少し曲がる。」
「上の図で、abの矢印が船や島だとする。eが見る人の目。aやbから出た光はまっすぐ、目に届く。つまりa−eやb−eの線。
これは普通に見えている船や島。
ところが、海面近くに暖かい空気の層があると、光を曲げる働きをするから、aやbから海面に進んだ光の一部が、曲がって目に届くことになる。
それが、a−c−eやb−d−eの線。
人間の目には光がまっすぐ進んで来るように見えるから、c−eやd−eをまっすぐ延長したa’やb’に、実際の物があるように見える。
それが逆さ浮き上がった船と逆さまの船の虚像まになった幻の船や島である。a’b’のまわりには、abの後ろにある空も映って見え、結果的にabが水平線より浮き上がって見える。」

「有名な富山の蜃気楼の場合は、春に起こり、海面に近い方が逆に気温が低くなる。
だから、光の曲がり方が逆になって、幻の像が実際の物よりも上に見える。
水平線に隠れて本当は見えないものが見えたりするので、浮き島よりも面白い。
詳しくは、魚津埋没林博物館HP参照」
「浮き島現象の場合、水平線より上に鏡のような部分が挟まって、そこに浮かび上がったものが逆さまに映っているように見える。
しかも、ただ映るんじゃなくて、少し縦横が縮まって見えることが多い。
右図で、『さかさまの船』と書いたところが、幻の部分。浮き島現象の場合は、実際の物よりも下側に幻の像が見えるという特徴がある。
その点が、富山湾なんかで見える蜃気楼とは違う。」

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左写真、枯れ木の向こうに山桜がひっそりと見える。



右写真、ココにも山桜。







左写真、葛籠尾崎の先端には鷹が巣くっているようだ。

右写真は鳶で、山渓の「日本の野鳥」によると、”鳶 Black Kite タカ目/タカ科。特徴:雌雄同色。
成鳥は全体が茶褐色で、上面には淡色の羽縁がある。
飛翔時の下面も茶褐色。初列風切の外側数枚の羽先は黒褐色で、基部は白い。
この白色が大きな白斑になって目立つ。
他の初列風切と次列風切には濃褐色のタカ斑がある。幼鳥は全体の斑が成鳥より太く淡色で、白っぽく見える。”


葛籠尾崎のタカ目/タカ科は鳶ではなかったようだ。




左写真、山桜を愛でながら岸沿いに漕ぎ、葛籠尾崎を東に回り込んだ。




右写真、この見事な山桜の下に艇を着けて、昼食休憩にする。






左写真、1時間半の大休憩。 11:10〜12:40



右写真、4人とも湯を沸かす。パスタを茹でる者、餅を茹でて雑煮を作る者、お相伴に与る者、豪華なランチと相成った。








左写真、再び菅浦を目指し、葛籠尾崎へ南下開始。
12:40


右写真、竹生島が視界に入る。








左写真、菅浦、大浦方面に向かう。



右写真、山桜。








左写真、画面中央あたり(国民宿舎つづらお荘の坂下右手)の「かぐや餅」を目指す。



右写真、爺ちゃんと婆ちゃんの「かぐや餅」はえらい繁盛していた。
釜の上にセイロを載せて昔のように蒸していたが、餅つきの臼は見当たらなかった。
もう大変なので、餅搗き器を使っているのかも知れないナァ。






艇を須賀神社の下の浜に回す。


左写真、正面に神輿蔵。左右の御供所ゴクショには東組と西組の輿丁ヨチョウ数十人が静かに巡行の時を待って潜んでいた。


右写真、3体の神輿。
まもなく、素足に草鞋、半被姿の輿丁たちが、この神輿に向かってどっと駆け出し担ぎ出すはずだ。





左写真、神輿の担ぎ出しが行われる境内広場の脇にはアマチュアカメラマンや見物人が行儀よく並んで待っていた。

右写真、須賀神社の参道。
奥は石段になっていて、拝殿につながっている。
石段の途中にある水屋から上は土足禁止で、氏子たちは素足で参拝する。
1198年1月のソロ初漕ぎで、菅浦に泊まり、翌早朝、須賀神社にお参りし、靴下を脱ぐべきかどうか迷ったことを思い出した。

暫く神輿を待ったが、羽織袴の世話役と覚しき人が御供所の前で、「何かトラブルがあり遅れる。」と言うのを聞いた。
我々の時間の都合もあり、やむなく出艇することにした。
やはり、菅浦は陸の孤島だった


【須賀神社】
須賀神社は昔は保良神社と呼ばれ、この地に隠れ住んだと伝えられる淳仁天皇が祀られており、拝殿の裏には、淳仁天皇の舟型御陵が残されている。
明治42年に小林神社、赤崎神社を合祠して、須賀神社と改称された。
三社が合併したので、神輿が三基ある。大は保良神社の明神神輿、中は小林神社の八王子神輿、小は赤崎神社の赤崎神輿。

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須賀神社大祭 『4月・第1土曜・日曜
   奥琵琶湖歳時記より転載させていただいた。

須賀神社には神事会という組織があり、これが奈良時代以来といわれる神事を今日に伝えている。
集落では普段から東組と西組(古くは「中組」もあった)に分かれて生活運営が行われているため、この祭りでも西と東が1年交代で担当することになっている。
金箔や鈴の輝きが美しい神輿は須賀神社収蔵のもの。
明治42年に3つの神社が合併して成立した神社であるため、1番大きい保良神社の明神神輿、小林神社の八ちょうじ神輿、1番小さい赤崎神社の赤崎神輿という3体の神輿をかつぎ出す。
これらは50年ごとに新調され、祭り本番のために大切に保管されている。
この神輿が収められている神輿堂の真正面に2軒の茅葺き屋根の御供所ゴクショと呼ばれる建物がある。
素足にわらじ、はっぴ姿の若者たちがここに集まり、巡行の時を待つ。
そこへ神主が現れ、口上を3回繰り返したところで、青年団の若者たちがどっと駆け出し、「ヨー!」「ヤー!」の掛け声をあげ、鈴を鳴らして神輿をかつぎ出す。若者たちが掛け声をあげて神輿を持ち上げる姿が勇ましい。

(注:下の写真は少し古いので、御供所の屋根は茅葺きだが、多分、2004年に銅葺きに変えられた。)


菅浦を出て、大浦湾を北上。


左写真、咲きかけの染井吉野を発見した。


右写真、旅の終わりにちらほら咲きの桜に出会い、暫し見入る。






左写真、前方に大浦の集落が広がってきた。



右写真、大浦川に入り、遡る。
結構水量があった。








左写真、JR永原駅の近くに着艇し、艇を上げた。


永原駅16:45発の新快速で京都に向かった。
敦賀からの列車はほぼ満席だった。







右の航跡図(ATLAS/ASG-CM11による)は吉田代表から送信されたものでる。