walking    チョットずつ 琵琶湖一周 no.10


地図は、マピオンMapion滋賀県ページから検索するのが便利。
滋賀県の琵琶湖研究所HPに琵琶湖の概要、近江八幡市HPに琵琶湖のあらましあり。

10回目(04年12月23日) 菅浦〜大浦


奥琵琶湖パークウェイのつづら尾崎展望台までバスで運んでもらった。

左写真、ほぼ真東に山本山が見えている。
山本山にはいくつか別名があるが、どこから見てもすぐ分かるので、見当山というのは、言い得て妙だ。



右写真、雨上がりの道を葛籠尾崎方向に(南方向に)少し降りていく。





左写真、「琵琶湖国定公園・つづら尾崎」と彫られた石に並んで、なぜか恐竜の模型があった
ディプロドクスという1億5千年前(ジュラ紀後期)の恐竜で、実物の約3分の1の大きさと書いてあった。
確かに、葛籠尾崎には恐竜が似合うように思った。

山道を1kmほど進むと、葛籠尾崎の真上の展望所と呼ばれるトコロに出る。

右写真、展望所の直前。赤松林の先に簡素なベンチの影が見えている。向こうは冬琵琶湖。







左写真、展望所から竹生島を見下ろす。
(冬の雲の間が少し開いた。)


右写真、冷たい細い時雨の中、山道を戻る。
(途中、霰にも見舞われたナァ。)







左写真、1ヶ月前には紅葉だった葉もすっかり落ちてているので、琵琶湖がよく見える。



右写真、よく手入れされた赤松の林が広がっていた。








左写真、岬の西側へ降りていくと、木の間から湖面がハッキリ見えてくる。画面中央左は海津大崎。



右写真、画面中央に菅浦の静かな集落が見える。








左写真、裏白の群生が日光を照り返して眩しかった。このシダ類ウラジロ科の植物は、本州中部以南から東アジアの熱帯に分布し、陽当たりのいい所を好むらしい。



右写真、海津大崎の山は600m近くあり、雪も見えている。その左手遠景は箱館山(スキー場)。








左写真、湖岸の遊歩道をまずは南へ歩く。
行き止まりの四阿アズマヤで折り返し、北の菅浦集落へ向かう。



右写真、菅浦の全景。
左端は国民宿舎つづらお荘、右手の集落の手前には小さな漁港がある。






左写真、菅浦集落の静かな落ち着いた佇まい。



右写真、菅浦には蜜柑の木がところどころに植わっている。








左写真、画面のちょうど真ん中が淳仁天皇の御陵である。
菅浦で、この谷筋だけが地形が緩やかだ。


右写真、蜜柑が輝いていた。








左写真、四足門(東の門)。
この門は四脚であり、また、集落の四方の入り口にあったことから四足門と呼ばれるらしい。



右写真、庭先の水仙。







左写真、湖岸沿いの道。


右写真、大根も寒そうだった。









左写真、四足門にそっくりな草葺屋根の門があり、古い表札には「菅浦里士」と書かれていた。



右写真、時雨にあっても霰にあっても、まだまだ元気な残菊が実にきれいだった。








左写真、金柑だったと思うが、チョット大きいかな。



右写真、民宿「よしや」での昼食はうまかった。ご飯が足りずに、焼いてももらったお餅は特に。








左写真、漁港といっても、菅浦の船は小舟だ。



右写真、須賀神社。
御供所の屋根が銅葺きに替えられてピカピカだが、昔のはコチラのHP







左写真、西の四足門。
右手には御供所の屋根が写っている。


右写真、湖岸に咲いていた水仙。








左写真、国民宿舎前あたりから写すと、岬と竹生島との空きがちょうどよい。



右写真、湖岸道路沿いのお墓。
四足門の外にあるのは、土地がないからか?
まさに琵琶湖の奥の隠れ里の雰囲気だ。





湖岸沿いに西向きに進んでいる時は寒くなかったが、大浦湾に入り進路が北に向くと、北風が強い。

左写真、分厚い雲の隙間の薄雲を通して、お日様の丸い形がようやく見える。日射零。



右写真、北風に枯尾花も大きく曲げられている。







左写真、丸子船「勢湖丸」が湖岸の道沿いに展示されていた。



右写真、船体の木の継目の黒い「伊達鎹ダテカスガイ」は丸子船の見た目の大きな特徴である。

なお丸子船のことは、「丸子船図解HP」に詳しい。






左写真、日が射してくると、琵琶湖の奥の雪山も風情を感じるナァ。



右写真、実はアラレを撮ったつもりです。
真ん中の足の長い影を写したのではありません。






左写真、こんなに暗く、寒くなったり。 冬の奥琵琶湖に魔物が住んでいるというのは本当かも。

右写真、奥出浜園地の道向かいで偶然に見つけた真鴨の飼育池
塀で覆われていて確認に手間取ったが、鴨も大勢写って撮影成功。ようけい居るナァ。

92年正月にカヌーで初めて菅浦を訪ねた時に、幸運にも、国民宿舎つづらお荘で鴨スキにありついた。
そのうまい真鴨は半自然飼育だと聞いていたが、どこで飼育しているのか今まで分からなかった。







左写真、対岸の山襞には雪が結構溜まっていた。



右写真、奥出湾は大浦湾の奥の東側に入り込んでいるので、北風の日も穏やかである。
大きな生簀があったが、何を入れているのだろう?







左写真、奥出湾を回れば、本日のゴールの大浦園地はすぐだ。


右写真、冬の奥琵琶湖はやっぱりきれいだ。








芝木好子「群青の湖」と遠藤周作「忘れがたい風景」 :

芝木好子の小説「群青の湖ウミ」に、『 奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。
紺青というには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか 』とあるらしい。
それを読んだ狐狸庵先生・遠藤周作が、その地をやっと探し出して、毎年秘かに訪れていたらしい。そして、
朝日新聞のコラム「万華鏡」に92年秋、「忘れがたい風景」と題して、
『 2月の午後、入り江のようなその地点の周りの山々は白雪に覆われ、冬の弱い陽をあびた湖面は静寂で寂寞としていた。まるでスウェーデンかノルウェーのフィヨルドに来ているような思いだった 』と書いた。
そんな話を、十数年前に菅浦の国民宿舎で聞いた。
そのことを詳しく知りたいと思っていたが、朝日新聞HP(関西)風景を歩く 静寂感漂う「幻の湖」 奥琵琶湖・菅浦(60)の中で、若手の記者によって2004年8月に完全に紹介されているのを知ってうれしかった。


【菅浦memo】

92年に菅浦を訪ね時にもらった粗末な(失礼)パンフレットを少し改訂した内容を、菅浦memoとして、以下に列挙しておく。

菅浦 :
菅浦は地形的に山と琵琶湖に遮られ、古くより陸の孤島とか隠れ里とか言う異名があります。
昔より戸数も余り変化がありませんでしたが、近年、過疎化現象を呈しつつあります。

菅浦文書 :
菅浦には、鎌倉時代から明治に至る古文書が保存され、長い村の歴史を今に伝えています。
これらの古文書は、「菅浦文書」として、滋賀大学の手によって、上下2巻にまとめられ、出版されています。

菅浦の生い立ち :
菅浦は、平安時代以前に、贄人(にえびと−穀物以外の食料品を貢納物として天皇に運ぶ人)の小集団が、この地に住みつき、漁労と舟運に従事したことに始まるとされています。
ここの漁民が、供御人(くごにん)として自立したのは、平安初期ですが、いつしか、自らを、天智天皇の供御人の末裔と言うようになりました。

菅浦と大浦の境界紛争 :
漁民達の身は天皇に属する供御人でありながら、菅浦の地は、山門、檀那院の末寺、竹生島の領地となっていました。
隣の在所の大浦は、園城寺(寺門)円満院領であったため、両庄は、境界をめぐって、170年余りにわたり紛争が続けられ、村の自立のための訴訟が起こされ、死者60余名に及んだと言われています。

惣の英雄 乙名清九郎(おとなせいくろう) :
その紛争の発端は、永仁3年(1295年)のことでありました。
2、3回と続く争乱に、当時の惣の代表者として、目覚ましい活躍をしたのは、贄人の乙名清九郎という人物でした。
この清九郎は、清検校(せいけんぎょう)とも呼ばれ、死者まで出した紛争を悔い、後には出家して、名を道清と改めましたが、当時の菅浦を救った「惣の英雄」として、今なお伝えられています。

淳仁天皇 :
菅浦には第47代淳仁天皇の御跡も残っています。
現在の拝山、須賀神社がその場であります。
天平宝字3年11月、奈良の皇居の修復のため、仮の宮として、この地に行宮を造営され、保良の宮として伝わっています。
しかし、明治42年に、保良神社、小林神社、赤崎神社が合併して、須賀神社となりました。

舟型御陵 :
拝殿の裏には淳仁天皇の舟型御陵が残っており、氏子は崇拝の念が厚く、水屋から素足で参拝します。参道付近は重臣達の居所跡と伝えられています。

菅浦山 長福寺 :
現在、区内中央に建つ公民館には、天皇の菩提所である、菅浦山長福寺があり、蹴鞠、射的場などがありました。
ご本尊仏は、惣寺ともいう阿弥陀寺に仮安置されています。

二十四坊 :
菅浦には、二十四坊と言って、二十四のお寺があったといいます。
お盆の8月14、15、16日の3日間は盆踊りで賑わったといい、その音頭に、当時の姿が感じられます。
     盆の十六日や お招来で お招来で
       西も東も お経の声
     そりゃ お経の声 西も東も お経の声

四足門(しそくもん) :
菅浦には村の両端に二つの門があって、四足門と呼ばれています。
菅浦は古くから惣(自治村落共同体)が発達し、警察や軍事が行われ、自立的秩序が保たれた所でありました。
昔は、この門を通らなければ村に入れず、門から内では、惣の掟に背いたものは、惣の定めに従って裁かれました。

菅浦郷土史料館 :
菅浦は菅浦文書を数多く有する集落であり、1041(長久2)年頃から現在に至る記録がとどめられ、史料館には、それらの史料が展示されています。

菅浦与大浦下荘境絵図(重文) :
この絵図は、日指(ひさし)、諸河(もろかわ)をめぐる菅浦と大浦の相論の裁判過程で作成され、菅浦の領主、竹生島の社頭が大きく描かれています。
中世における社頭景観を現した絵図としては、知られている限り最古のものです。

阿弥陀寺の阿弥陀如来立像(重文) :
鎌倉時代の作品で、右足柄に「巧匠法眼行快」の銘があり、行快の作品であることが確認されています。


なお、「チョットずつ 琵琶湖一周 no.9」と重複するが、菅浦のお薦めHPを再掲します。

西浅井コミュニティサイトkotiHP-文化のいしずえ
朝日放送HP-歴史街道-滋賀・奥琵琶湖-隠れ里・菅浦
歴史街道を疾るHP淳仁天皇の隠れ里・菅浦 

日本の風景・ゆきおのホームページ」の滋賀の風景には、菅浦のきれいな写真が数多く紹介されています。