南紀ショート絵巻 巻1   白浜付近 (初海ソロ)

白浜・白良浜〜田辺湾〜森の鼻〜(目津崎泊)〜神島〜沈!〜白良浜(1995/10)

1995年10月20日、カヌーを始めて5年目に、南紀・白浜で海ソロを初めてやった。
フィールドと天候に文句はなく、実は、初めての(現時点では幸い唯一の)海沈も経験でき、今思い出すと、素晴らしい処女航海であった。
白良浜で艇を組み立てた。真っ白いきれいな砂浜は眩しく、人もゴミも見当たらず、処女航海の舞台装置は上々であった。
なお、この航海記は、7年前のことを思い出しながら綴っているので勘違いもあるかも知れない。初めての航海ゆえ、お許しいただきたい。


【10月20日】

まずは、白浜名物の円月島を沖を漕いだ。その時の高揚と痛快さを思い出す。 島の真ん中に小さな円が開いていて浜辺が見える。
        
地理院5万1を見ると、「白浜の泥岩岩脈」という文字が3ヶ所も記されている。この辺りには岩礁も多いが、多分みな泥岩なのだろう。

下の3枚の写真、大きい方は多分いずれも、塔島だと思う。(すると、小さい島はトウゲ島か。)漕ぎ進めると島の形が変わって見えた。
初めての海ソロで、しかもこの辺りは例えば「大ぐそ」と名付けられたような岩礁が一面に広がっていて、その間を縫って漕ぐのに精一杯だった。

(群馬六合村の山雨海風さんは子供の頃、この塔島でよく釣りをされたそうだ。)
  


     臨海地区から北に延びる岬を回り込むと、         田辺湾が見える。                田辺湾内の島めぐり。
   
上右写真の島内立入禁止の立札(京都大学瀬戸臨海実験所名で出ている)は神島だったのだろうか?そんなことはないか。その内に日が傾き始めた。
今宵の宿は南部町目津崎の付け根に最近建ったダイワロイヤルで、その浜までは、直線距離10km。懸命に漕ぎ出すも、時すでに遅かった。
やがて秋の日が暮れ、暗やみの中を進む。田辺港の灯りを見て、天神崎の沖を通過。その3km先の森の鼻あたりは岩礁が沖まで延びており、間を抜けようとすると、
太いケーブルが横たわっていた。
ここで観念し、照明がついていた近くの堺漁港に入る。スロープがなかったので、低めの漁船に乗り移って上陸した。



【10月21日】

翌朝、タクシーで堺漁港に行き、運ちゃんに頼んでバッグを乗り移ったカヌーにロープで降ろしてもらった。デッキの上にバッグを置いて近くの浜辺まで漕ぎ、中に積み替えた。
神島を訪ねる。天然記念物で、上陸禁止と書かれていた。島の回りを漕ぐ。南方熊楠の歌の碑があった。田辺湾をゆく船が絵になっていた。

    
      



右写真の(バブル期に造られた)超豪勢なホテルに海から訪問し、トイレを借りた。
次に表に回り、お城のような塀の正門前に立つと、玄関から衛兵のようなドアマンが走って来て押しとどめられ、用向きを聞かれた。
そりゃそうか、こんな格好じゃ怪しまれるよナ。

ぼつぼつ、スタータ地点に帰ることにした。

その途中でハプニングが起きたのだ。
左の写真は昨日の記録に出たものだが、実は帰路、確かこの右手辺りの海上で沈したのだ。
早い波が走るようにやって来て、舟は横向きになったまま海面上を滑って持って行かれた。
びっくりして立て直そうとパドルを入れたのが間違いなのだろう。見事に沈をした。
少しずつ岸に近づけて磯に上げて排水した。
この辺りは海底に白い泥岩?が敷き詰められたように並んでいて、水深が非常に浅くなっていた。
往路は少し沖だったし、多分潮も満ちていたのか、気付かなかった。
復路では、水深が急に浅くなっているので、沖から来る波のエネルギーが海面を走る波になったんだろうか。

この間に見ていた釣り人が110番してくれて、お巡りさんが駆けつけて来た。
住所・氏名を尋ねられた。
舟の転覆事故の張本人なのだから、仕方がないか。おとなしくして適当に答える。

さすがに少し疲れたが、無事、白良浜に帰着した。
少し波が出ていた。