山陰海岸・但馬御火浦

    2001年7月28日夕刻、浜坂温泉に漬かってからビーチを出艇。但馬御火浦の絶景の地でテント泊。
    翌日は余部で上陸休憩の後、香住海岸の造形美を漕ぐ。あまりの炎暑に香住・矢田川で切り上げた。



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7月28日(土) 晴れ・薄曇り

自宅を7時に出て、JR大阪駅から北近畿1号に乗った。
福知山から山陰本線に入り、城崎で普通列車に乗り継いで、浜坂で降りた(11:48)。
昼飯は、城崎駅でカニ寿司を買い車中で済ませた。
浜坂には2回来ているので、だいたい様子が分かる。
駅前のタクシー乗り場に荷物を置いて買い出しに出発。
まずは、枚方の自宅近くの割烹「藤」で板前をやっている松チャンの実家である古くからのM酒店(弟さんが経営)に寄る。
今回も量り売りの「香住鶴」を所望するが、夏場は温度管理が難しくやっていないとのこと。
残念だが銘酒をあきらめて、代わりにワインにする。ワインルームの中で少し迷った末に、手頃な赤を選んでくれた。
次に、近くの食料品店に入り、イカ小3杯、名前の知らない大きな貝を沢山茹でたパック、名物の竹輪1本、タマネギ、トマト、みかん各1個、
それと翌朝用に、あんパンとメロンパン、小さなあん餅の「かま焼」(鳥取産)を買い込む。
駅に戻って、タクシーで浜へ向かう。
岸田川の河口のすぐ南、すなわちビーチの東端に相当古い小さな倉庫風の建物の貴重な日影を発見。
日影の先客、同年代の男性二人に挨拶し、荷物を降ろしてファルトを広げる。二人とも興味を持って質問責めの中、艇の組立てを進めた。

組み終えてから、楽しみにしていた浜坂温泉・ユートピア浜坂(徒歩2分)に向かう。
浜坂では市街の中心から温泉が湧き、旅館、民宿、一般家庭にまで配湯されているそうだ。
今夜のテント泊に備え温泉の湯で今までの汗を流し、爽やかに浜坂サニービーチ(右写真)を出艇したのは16時。
予定より1.5時間遅れだが、誰も文句を言わない。一人旅は全てがマイだらだらペースでOKだ。
ラダーを踏み込み薄曇りの中をゆっくり東に向かう。

鬼門崎を過ぎ、田井の沖を漕ぎ、但馬御火浦(ミホノウラ)と呼ばれる海岸線を楽しむ。
今宵のテントは、遅れているので予定を変更して、三尾の先に張ることにする。
前方には、三尾の入口にある大島の灯台がよく見えていて心強い。

前方から2杯のシ−カヤックがやってきた。
2艇の間が空いているので、その中を進む。挨拶の声をかけたが、日本人ではない。
40歳代くらいの白人だ。香住かと聞く。無茶言うな、香住は明日の昼だ。
彼らは浜坂上がりとのこと。
こんな素晴らしい日本の海をカヌーで楽しむとは、彼らは文明人だ。
残念ながら日本人カヤッカーにはこの2日間出会わなかった。
(ホントは海を独り占めできる喜びに浸っていて、決して残念とは思わなかった。)

三尾は結構大きな集落である。3年前は小雨に煙っていて、よく見えていなかったのだ。
5万1の地図には学校印まであるではないか。失礼しました。三尾の出口には小さな大島があって、天然の良港になっている。
大島には灯台があり、遠くからもよく分かる。大島との間の狭い水路を漕ぎ進める。(灯台用の電線が架かっていて、漁船は通れない。) 
急斜面に鳥居が立っている。天然記念物と読める古い石碑も見えた。

やがて岩の半島が但馬御火浦に突き出て進路を妨げる。
左写真に小さく見えるが、岩に穴が開いていて、向こう側の海が見える。
この先端は鋸崎と呼ばれている。まさに日本海の造形美だ。
その根元あたりを目指して漕ぎ寄せる。大きな洞窟が見える。
大きめの石の浜辺に着艇。なかなか快適そうなサイトだ。まず、洞窟の中にテントを張る。フライは不要だ。

一段落して、海岸沿いに岩を伝って東へ行くと、果たせるかな川があった。
小さな滝が何段か続いている。やった!大自然の中の天然露天水風呂、冷たいシャワー。極楽であった。
(右写真、左下はその水風呂からの眺め。ガイドブックには、三尾松島と書いてあった。)


すっきりして、ディナータイムだ。
まずは、ワインをなみなみと注ぐ。疲れた筋肉にまで染み透る。
湯を沸かして、貝を放り込む。
小さなコッヘルが満タンだ。竹輪を焼く。イカを海水で洗う。

大御馳走の匂いが広範囲に行き渡ったのだろう、虫が少しだけ集まったようだ。
テントを張ったのは正解だったが、翌朝、船虫が1匹テントに入っていた。
このテントは天井に通風煙突があり、フライを張らなかったので、簡単に侵入できたのか。
お陰で夜中に船虫君に顔や手足を這い回られる羽目になった。

先日の新聞によると、JR山陰本線・豊岡〜浜坂間で「いさり火列車」が7月7日から運行されているそうだ。
海の見える区間で車内の照明を落とし、時速15kmに減速して、車窓から暗やみの沖の漁り火を眺める趣向だ。
そこで私も今夜は、日本海の夏の風物詩・イカ釣りの漁り火を見ながら眠ることにした。
もっと多くの船灯りが見えると思っていたが、テントサイトからは計4隻しか見えなかった。
(上の写真の左の岩端に小さく光っているのは、大島の灯台。下写真では島影に漁船が隠れ、左から新たな1隻が出て来た。イカ釣り漁船は少しずつ右に移っていった。)


20:25 ワインを飲み干す。
南仏の赤ワインで、甘からず渋からず実にうまかった。疲れが取れた。

   『 漁り火や 少し動きて 島の陰 』

気がつくと、視界西の岩端で、大島灯台の小さな灯りが点いたり消えたりしていた。
星は薄曇りのため残念ながら見えなかった。(月は上弦)



7月29日(日) 晴れ・薄曇り

翌朝6時、プライベート・リバーで顔を洗う。今日も静かないい海だ。


鳥取名物と書いてあった「かま焼」を焼いて食う。
あんころ餅を蒲の葉で巻いてあるだけだが、焼いても餅が焦げなくてグッドである。



昨夜は漁船の目もあり、丸見えのビーチでの焚き火を遠慮したが、出したゴミを小さく燃やして、素晴らしい一宿の礼を告げて愛艇に乗った。
左写真の真ん中あたりにテントを張った洞窟が見える。



但馬御火浦を東に漕ぎ進めた。
振り返ると、大島の灯台が白く見えた(右写真)。


左下写真には洞窟が3つ見える。左端のが大きそうなので入る(中写真)。涼しい。当然ながら、奥は真っ暗だった。
その洞窟の出口付近から外を向いて撮ったのが右の写真。地図に釣鐘洞門とか書いてあったものか。





伊笹岬の海に出っ張っている低い位置に、模型のような小さな白い灯台が取り付けられていた(左写真)。
これは多分、上の方にある御崎灯台の出先の灯のようだ。
岸の近くを航行する漁船用と思われる。


3年前、強風に痛めつけられて、この小さな灯台を回り込むのに苦労したことを懐かしく思い出しながら、
真夏の太陽が照りつける穏やかな但馬御火浦を軽快に漕ぎ進め、思い出の伊笹岬灯台を大きく回り込んだ。

2kmほど南下すると、当初のキャンプサイト候補地が見えてきた。どこから来たのか数人の人影がある。夏場はここは駄目だ。


やがて、(地表から橋面までの)高さ41mの余部鉄橋が見えてきた。
『・・・。兵庫県北部の但馬地方の海岸はリアス式海岸を形成し、この地方を通過するJR山陰本線は山と谷を交互に越える複雑な地形のためにトンネルと橋、
切土と盛土の繰り返しとなっており、山陰本線敷設の際の最大の難関であったことがわかる。
特に余部地区は谷が長く、高い山が迫っているため、長いトンネルと高い橋が必要であった。・・・。
余部集落の上に高い橋を架けることは(余部駅と1つ西の久谷駅の間にある)西桃観嶺を穿つトンネルの長さや線路勾配の関係から決められた。
橋の形式としてはメンテナンスが少なくてすむことから鉄筋コンクリート橋の案も出されたが、当時は実績がなかったため採用されなかった。
明治45年1月に試運転が行われた。3月に香住〜久谷間の営業が開始され、山陰本線は京都〜出雲間が全通することになった。・・・』 

  松村 博 著 「日本百名橋」 −天空を列車が走る・余部橋梁−  から抜粋させていただいた。


余部鉄橋手前右の小さな漁港のスロープに着艇(左写真)。

徒歩1分の伊岐佐神社にお参りして、今回の航海のお礼を述べ、この先の安全を祈った。
古い神社で、文武天皇の御代に創建とあった。

神社の向かい側に「製塩土器出土地」の案内標識があった。
畳1枚ほどの炉に海水を入れた土器を約50個並べて、直接下から火を焚いたとのこと。
塩を採る方法はこの土器製塩がもっとも古く、弥生時代中期に瀬戸内で始まり、古墳時代前期に各地に広まったそうだ。


冷たいペットボトルを3本買ってまず1本を立ち飲み。
伊岐佐神社の前に座ってもう1本を飲んでいると、JRのワンマンカーの走る音が聞こえたので、慌ててカメラを持って走った。
無事、余部鉄橋を渡っているところを撮ることができた(左上)。


日陰での休憩の後、香住海岸を東に漕ぎ出した。
後ろを振り返ると、白い御崎灯台が山の上に小さく見えた。(左写真)



右写真、進行方向に穴が2つ開いた岩が見える。この岩の水面を右手に回ってみると、すれすれに通ることができた。カヌーの妙味である。
しかし、振り返ってカメラを向けると、電池切れで動かない。
残念ながら、写真はここまでである。

鎧の集落が見えてくる。多分電池は売っていないだろう。通過する。

11時を回った。真夏の太陽が上から遠慮なく照りつける。
洞門、断崖、海に突き出た奇岩が連続するものの、この酷暑のために、海岸美を眺め味わう余裕はなく、「洞窟、洞窟」と言っては、洞窟に入って涼み、また次の洞窟まで漕いでいた。
まさに洞窟さまさまであった。

きれいな何もない浜(ガイドブックには玉石ばかりの海岸と書いてあったが)の沖を進み、兄弟赤島の間に入る。
切り立った岩の島が2つ並びうまい具合に日影ができている。ありがたや、ありがたやである。

鉄砲島を過ぎると、香住の大きな魚市場が見えてきた。
もう洞窟はなく、日影も期待できない。
炎天下一人でカヌーを漕いでいるのがアホらしくなり、松島の手前で艇を岸に寄せ岩に預けて、ライフジャケット、スプレースカート、シャツを脱いで、水に飛び込む。
やはり夏は海水浴だぜ。こりゃ極楽だ。

再び乗艇して、北に進む。右手の入江の三田浜海水浴場は大勢の海水浴客で賑わっている。
弁天島の横を漕いで、灯台を見て谷田川へ進む。
JR谷田川鉄橋に並ぶ国道178号の橋の下の日影に艇を着ける。
うまい具合に小舟1隻分の舟上げ場が設えてあった。ラッキー。

香住駅の方向に歩き、中華料理屋を見つけた。
冷やし中華を頼む。まだ仕事が残っているが、ビールも頼む。
腹ごしらえができたので、谷田川に戻り、ゆっくりとカヌーを畳み始める。
荷物のパッキングも終わり、まずは、カヌーバッグを堤防の上へ運搬する。
その時ちょうど、先ほどの帰り道に話をしていた宅急便の運ちゃんの車が橋を渡って来た。
これまた、ラッキー!最短距離でカヌーを預けることができた。

香住駅15:38発のワンマンカーに乗り、城崎駅16:09発の特急きのさき10号に乗り継いで、京都駅18:38着で帰ってきた。
やはり、福知山線より京都への山陰本線の方が、保津川の渓谷美が見えて数段値打ちがある。

今回は、兵庫県美方郡浜坂町の東半分(7km)と、城崎郡香住町の西半分(13km)、合わせて約20kmの海岸を漕いだ。
距離の割には山陰海岸を堪能できた。

帰りの列車の中でガイドブックを見ると、山陰海岸の銘酒「香住鶴」の蔵元の香住酒造は、今回着艇した谷田川の河口から2km上った右岸にある。
創業は享保10年(1725)の老舗で、すぐ近くに、丸山応挙と門人たちの襖絵、屏風絵が160点も残されている応挙寺(大乗寺)がある。
次には、もう少し涼しい時期に、鎧駅で下車して、東に漕ぎ、今回電池切れで写真を撮れなかった香住海岸の西端からもう1度漕いで、
谷田川をカヌーで遡り、香住酒造と応挙寺(大乗寺)を訪問することに決めた。


【感想】
1.夏はソロが一番。浜坂での艇の組立および香住での艇の解体時に、貴重な日影を独占。
炎天下の洞窟涼みも独占。野営は、露天バスつきスィートを借り切り。
2.TO-BEさんお薦めのステンレス・メッシュ・プルオーバーをTシャツの上に羽織ったが、炎暑がやわらぎ快適であった。
私の夏場のパドリング必需品になった。          http://www.geocities.jp/tobepln/canoe/Paddling_Gear.htm