浪速八百八橋    土佐堀川・堂島川・安治川・尻無川


クラブ・ザ・ファルト2004年9月例会で、大阪市内の川を漕いだ。(企画立案は三宅一夫氏) 
ルートは、1)土佐堀川 → 2)安治川 → 3)天保山運河 → 4)尻無川 → 5)木津川 → 6)堂島川 である。八百八橋MAP
さすがに浪速八百八橋と言われただけあって、次々と橋が現れて、写真を撮るのに忙しかった。

『大阪の橋』(松村博著、松籟社、1987)という本が私の書棚にある。
クラスメートだった由をもって筆者から送ってもらった何冊かの「橋の本」のうち、最も上等の本である。
今回のツアーの予習、復習に久し振りに活用させていただいた。
以下の本文中で、橋の名前にリンクした橋の説明pageも、大半が同じ松村博氏の提供である。
「Civil Net」の中の土と木の博物館の中の日本の橋

右図は、大阪市HPの中の「OSAKA CITY MAGAZINE」より抜粋させていただいた。

1)土佐堀川、5)木津川、6)堂島川の橋の位置は、この図を参照して下さい。
また、2)安治川、4)尻無川の上流部については、Yahoo地図情報(西区)を、
2)安治川、4)尻無川の下流部および、3)天保山運河については、Yahoo地図情報(港区)をご覧下さい。

 旧淀川の大川は、中之島で堂島川、土佐堀川の2川に分かれ、都心の川、堀を流れて、流末は安治川、尻無川、木津川の3川となり大阪湾に注いでいる。




左写真、淀屋橋。向こうに見えるのは市役所。
淀屋橋の下流・左岸側から10時にスタート。
しかし、よくもまあ、淀屋橋の袂から出艇できるなんて信じられなかったナァ。



右写真、10時に7艇が下流方向に漕ぎ出す。
右岸手前から日銀、ニチメン、工事中の高層ビル。





左写真、阪神高速道路の向こうに、錦橋が見える。
高層は大同生命ビル。


右写真、錦橋
右岸のビルは、フェスティバル・ホール、朝日新聞社、住友不動産、中之島三井ビル(高層)、・・・







左写真、住友不動産、中之島三井ビル、関西電力、・・・



右写真、筑前橋。右岸には、市立科学館
遠くに、中之島センタービル。







左写真、常安橋。中之島の開発を行った江戸初期の豪商・淀屋常安の名に由来するらしい。
右岸には、リーガ・ロイヤルホテル、大阪国際会議場、・・・



右写真、大阪国際会議場住友病院、・・、中之島センタービル。







左写真、越中橋(歩道橋)。向こうには、土佐堀橋。



右写真、土佐堀橋。中之島センタービルが大分近づいた。







左写真、下には湊橋、上には阪神高速。

右写真、高速の向こうに、アーチのガス管橋?、その先に、端建蔵ハタテクラ橋がある。
江戸時代の中之島には各藩の蔵屋敷が建ち並んでいて、中之島の西端にも蔵が建てられていたので、端建蔵という地名が生まれたとのこと。
正面左の建物は、住友倉庫。右手の安治川、左手の木津川に挟まれた地区が「川口」。

【川口memo】
明治元年に大阪港が開港し、2ヶ月後に「川口」外国人居留地が売り出されると、外国商人が殺到して、異国人街「川口」は大阪における文明開化の中心地になった。
その後、欧米人が神戸へ移ると、キリスト教の伝道師が入ってきて、学校、孤児院、病院などが作られ、特に女子教育への貢献が大きかった。
明治も中期になると、華僑(川口華商)の数が急速に増え、貿易商、金融業、理髪店、洋服店など中国人の店がずらりとならび、関西の代表的な中国人街になった。
明治32年の居留地廃止後の「川口」には、中華料理店が開店し、今も大阪の中華料理店の多くは川口華商の流れを引いているらしい。
この川口地区も日中戦争で大半の中国人が帰国し、昭和20(1945)年3月の大阪空襲で焼野原になってしまった。

【昔の大阪港memo】
「川口」は安治川の河口にあり、江戸時代の海運の中心地であり、船番所(海の関所)、船蔵、船奉行などが置かれていた。
諸外国も、横浜、神戸のように政治、経済の中心から離れた場所ではなく、首都となる可能性があり、京都にも近いことから大阪開港を強く要望した。
明治元年に開港した安治川の「川口」波止場は、大阪湾口から5キロ上流の河口港であり河底の土砂堆積のため、大型船は接岸できず国際貿易港としては不備だった。
ようやく明治30年より天保山海岸で本格的に築港工事が行われ、明治36年には突堤や大桟橋などがおよそできあがるものの、
大正5年に大阪市の財政難から築港工事は中断され、「魚は寄るが船寄らず」、「東洋一の納涼桟橋」などと庶民の間で噂された。
大正になって、民間が天保山桟橋などの建設は行うようになり、昭和4年3月に竣工。

詳しくは上記memoにも抜粋編集させていただいた、「川口界隈の簡単な紹介HP」、「川口の文化史HP」 を参照して下さい。



左写真、木津川の始点に架かる昭和橋
(帰路に、この橋の下を漕ぎ上った。)



西へ漕ぎ進める土佐堀川に、堂島川が右から合流し、安治川となる。
右写真、安治川右岸の大阪中央市場






左写真、倉庫から安治川に迫り出したまんまの昔の錆びたクレーン?。安治川の雰囲気が残っている。
前方はJR鉄橋。



右写真、JRの鉄橋を環状線の電車が走っていった。
先に見えるのは、安治川大橋。






左写真、安治川大橋。前方には、安治川水門



右写真は河口側から写した安治川水門。高潮の時には、あの半円アーチを上流側へ倒す。
ホントの高潮時以外は上流から下流へと水圧が掛かるからかな。






左写真、阪神高速湾岸線の安治川河口に架かる天保山大橋。
大型船舶が航行するため、桁下は45m、主塔の高さ152mの日本有数の斜張橋で、保守点検用に主塔にエレベータが設置されている。


右写真、天保山大橋の直線と天保山ハーバービレッジ大観覧車の円曲線。



天保山memo】
天保2年(1831年)の安治川の浚渫工事で積み上げられた土砂が高さ20mの小山となったが、整備されて桜や松も植えられて、浪華の新名所なり賑わった。
明治以降の築港工事などで昔の風情はなくなり、今は標高4.53mの「日本一低い山」として知られている。

天保山大橋より下流には進まずに、左折して、天保山(4.53m)の前を漕いで、天保山運河に入り、阪神高速湾岸線の下を南東方向へ漕ぐ。

左写真、天保山運河に向かう。



右写真、阪高・湾岸線の天保山JCTの幾何学模様。





このアタリからは、大阪市HPの中の港区のスポットが地図もあって便利なガイドです。


左写真、日曜画家の皆さんが、天保山方向を向いて写生しておられた。



右写真、千舟橋。








左写真、静波橋。



右写真、浮島橋。






このアタリからは、大阪市HPの中の大正区の橋が参考になります。


左写真、前方チョット遠いが、運河の先に千歳橋
その手前に尻無川が河口がある。


右写真、三十間堀川への水門。(ココをくぐる。)








左写真、遠景に、港大橋。私の好きな橋だ。
朱塗りの港大橋は、明石、紀淡の両海峡から大阪港を目指す船舶の目印にもなっている。



右写真、天保山運河の途中で左折して、水門を通り、三十間堀川を北上する。







左写真、三十間堀川から見える大きな建物はみんなマンションだった。



右写真、手前の水面すれすれの低い橋は、JR貨物臨港線の鉄橋。
向こうには、福栄橋。(通り過ぎてから振り向いて写す。)







左写真、三十間堀川から尻無川へ出るトコロの水門。向こうには、鈴橋。



右写真、赤と白の船は、甚兵衛渡船場の渡し船。
その先には、尻無川の防潮水門が見えている。







左写真、尻無川水門



右写真、阪神高速17号西大阪線。
前方に、大阪ドームが見える。







左写真、大阪ドームへ向かって、尻無川を上る。



右写真、JR大阪環状線の鉄橋。この緑色の鉄橋は迫力がある。
すぐ隣に、岩崎橋が架かっている。
ココは正確には、昔からの尻無川ではなく岩崎運河。



このアタリからは、大阪市HPの中の大正区の橋が参考になります。
【旧尻無川と岩崎運河】
昔の尻無川は、現在の本田1丁目で木津川から分かれて南下し、千代崎3丁目で現在ある尻無川に通じていたが、川幅も狭く水深も浅かったため、大型船の通行が不可能であった。
そのため木津川に道頓堀川が流れ込んでいるトコロから千代崎3丁目まで岩崎運河(560m)が掘られ、大正9年に完成した。
それが今の尻無川になっている。なお、旧尻無川(1,410m)は昭和25年に防潮堤工事に伴って埋立てられた。



左写真、岩松橋。
ココが尻無川の始点で、岩松橋を越えると、木津川との交差点だ。
南北に木津川が流れ、東からは道頓堀川が流入し、西から尻無川が始まっている。



右写真は交差点の南で木津川に架かる大正橋






左写真、交差点の東にある閘門式の道頓堀川水門。洒落た設計だが、閉められていた。
道頓堀を漕ぐのは諦める。



右写真、木津川を北へ上ることにする。
流れが緩やかなのだろうか、水質はよくない。




【道頓堀川水門の通行手続】
なお、大阪市のHPによると、東横堀川水門及び道頓堀川水門(閘門)の利用については事前の手続が必要で、届け出用紙に必要事項を記載し、通航予定日の3日前までに、東横堀川水門まで送付又は、Fax(06-6203-9027)する。
受付が完了すれば確認書が出る。(道頓堀川水門の電話:06-6568-0946)



左写真は大阪ドーム用?歩道橋。



右写真、千代崎橋








左写真、伯楽橋。長堀通に架かる幅の広い橋。上流側が工事中だった。



右写真、松島橋
前方に見えるのは、道頓堀川の湊町船着場へ向かう
クルーズ船なにわ探検クルーズ)。
なお船着場は、湊町リーバープレイスの中にある。





左写真、大渉オオワタリ橋。昔、大渡しと呼ばれる渡し船があったので、大渉橋。



右写真、木津川大橋。中央大通りに架かる橋。
上には阪神高速16号大阪港線。
地下鉄も高架で走っている。






左写真、木津川橋。本町通に架かる橋。



右写真、昭和橋。ココから木津川が始まる。
木津川は、元禄12年に開削された川で、大正12年に改良され、運河としての性格を担うようになった。
(木津の地名は、聖徳太子が四天王寺建立の折に、近畿周辺から集めた木材を荷揚げした浜を、木材の浜、つまり木津と呼んだことに由来するらしい。)


木津川を上り切って、土佐堀川をチョットだけ下って、堂島川に入った。



左写真、船津橋。堂島川の最下流。



右写真、アーチの水管橋?の向こうに上船津橋。








左写真、上船津橋。上は阪神高速3号神戸線。



右写真、高速の向こうには中之島センタービル。








左写真、前方は堂島大橋。左の43階建ての高層はキングマンション堂島川



右写真、堂島大橋と大阪国際会議場
向こうには、リーガ・ロイヤルホテル。







左写真、リーガ・ロイヤルホテルと上流の高層ビル。



右写真、玉江橋。下流右岸に関電病院。








左写真、玉江橋



右写真、田蓑橋。阪神高速








左写真、阪神高速の下に渡辺橋が見える。



右写真、四つ橋筋に架かる渡辺橋
右手はリーガ・グランドホテル。







左写真、高速の向こうに、中之島ガーデンブリッジ。
左手には全日空ビル。その左には北新地が広がっているはず。



右写真、中之島ガーデンブリッジ。右手は日本銀行大阪支店、その先には大阪市庁舎の屋根が見える。







左写真、御堂筋に架かる大江橋大阪市庁舎



右写真、水晶橋
河川浄化用のゲートで、堂島川可動堰というのが本名であった。くぐると、ゲートの跡形が残っていた。







左写真、中之島公会堂
中之島にはきれいな建築が多くあって、絵になる。



右写真、鉾流橋の北東側より下流を写す。
天神祭の鉾流神事は、この撮影ポイント付近で毎年行われる。






左写真、ちょっと遠いが、難波橋
右手の高層は大林ビル



右写真、高速の向こうに、天神橋が写っている。右手の中之島の最上流である。







左写真、中之島公園バラ園橋をくぐって、土佐堀川へ移る。



右写真、堺筋に架かる難波橋(土佐堀川)。








左写真、栴檀木橋。右手の建物は、中之島図書館



右写真、淀屋橋上流側。








左写真、淀屋橋の下から写す。



右写真、ゴールの淀屋橋下流左岸に15時に着艇。

大阪都心の川は結構きれいで、ゴミなどは全くなく、気持ちよかった。