鵜殿のヨシ焼き
          ーーー 宇治川・御幸橋〜淀川・豊里大橋 ーーー

                 クラブ・ザ・ファルト 2005年2月例会(月当番:吉田リーダー)
                 月日 : 2005年2月27日(日)
                 場所 : 宇治川・御幸橋スタート、淀川・豊里大橋上がり


出艇前に、増井敏郎さんに黙祷を捧げ、宇治川の御幸橋下流・左岸をスタート。


左写真、水量の豊富な宇治川を下り始める。



右写真、左岸の堤防は宇治川と木津川を仕切る背割堤で、堤の上は桜並木。






木津川と合流し、続いて桂川と合流したあたりで、左写真の煙が見え始めた。ヨシ焼きの煙だ。



右写真、それにしても黒い煙だな。
暫く進んで漸く炎が見えてきた。
小さな炎を見ながら、ゆっくりと流れていった。






左写真、鵜殿の対岸の船橋川河口に着艇。
(ココにはアマチュア・カメラマンが大勢いた。)
上がると寒く、早々に火を求めて漕ぎ出す。



右写真、淀川を横断して鵜殿の炎に近づく。
水面近くから雉が飛び立った。
多分、蘆の中の巣を焼き払われて、蘆原の一番端っこに逃げていたのだろう。驚かせてスマナカッタ。




左写真、鵜殿の西端の流れ込みが、春の小川の長閑な野焼きの景であった。(モデルは吉田リーダー)



【ヨシ焼の感想】
鵜殿のヨシ焼きは地域の大きな行事、春の風物詩だと楽しみにしていたが、あまりにもスケールが小さくなっていた。
大河淀川の広い河川敷での伝統あるヨシ焼の雰囲気はなく、炎ができるだけ出ないように燃やしていて、落胆した。
ヨシの灰が洗濯物を汚すとかの苦情は分かるが、事前に周知されていれば、半日のヨシ焼は我慢できる範囲内だと思う。
そのためにも実施要領を12月には発表して欲しいナ。そうすれば、対岸住民への連絡・協力依頼等もスムーズに進むと思うんだがナ。



鵜殿は、平安朝の昔から良質のヨシ群生地として知られていた。1月下旬の寒い時期に刈り取られたヨシを編み上げたヨシズは高槻の伝統産業らしい。
鵜殿のヨシ原焼きは、害草・害虫の駆除、不慮の火災防止等を目的に行われてきた伝統行事。

枚方大橋の上流左岸に上陸して、昼食休憩。
打合せの結果、本日は豊里大橋で上がることに決定。



左写真、遠景に(高槻市の最南端で寝屋川市と結ぶ)淀川新橋が見える。



右写真、淀川新橋を下流側から写す。








左写真、鳥飼仁和寺大橋
摂津市鳥飼と寝屋川市仁和寺を結んでいる斜張橋。



右写真、モノレールが淀川を渡る。
この橋は、ニールセン系ローゼ桁橋。創始者のNeielsenに因んだネーミングで、アーチと桁を結ぶ吊り材はケーブル。






左写真、モノレール橋を下から写す。
下流側に鳥飼大橋(南行)、近畿自動車道、鳥飼大橋(北行)が架かっている。



右写真、鳥飼大橋(南行)、近畿自動車道、トラスの鳥飼大橋(北行)。







左写真、鳥飼大橋(北行)。
昨年10月から本橋の架替工事が始まっていて、下流側にあったガス管橋は既に撤去済みだった。


主要地方道大阪中央環状線 鳥飼大橋(北行)は昭和29年に架設され、完成後49年が経過し、
近年の急激な交通量の増加や車両の大型化等により老朽化が進行していることに加え、現行の耐震基準では十分な耐震性を有していないこと、
さらに、慢性的な渋滞が生じているため、抜本的な対策とし架替工事を行うものである。 (from 大阪府HP)






左写真、神崎川の淀川右岸(16km地点)からの取水口、一津屋樋門。
ココが神崎川の源流だ。



右写真、 上陸して確認した一津屋樋門から分派する神崎川







左写真、神崎川の最上流部。



右写真、一津屋樋門の上流側河川敷に災害時用のヘリポートができていた。









左写真、本日のゴール、豊里大橋が見えてきた。



右写真、豊里大橋をくぐって写し、左岸に着艇。







【淀川の名称】
一般に「淀川」と呼ばれるようになったのは江戸期に入ってからのことで、「日本書紀」仁徳天皇の条には大和川を南水とするのに対して、淀川を北の河と記している。
「万葉集」では取替川、「古今集」には山城の淀の辺りを詠んだ歌で淀川とされている。
他にも近江川や山城川など沿岸各地で様々に呼ばれ、澱川・澱江などと記されていることもある。(大阪市淀川区HPより)

【神崎川】
桓武天皇の命を受けた廷臣・和気清麻呂が淀川の治水対策のために、(その頃、淀川にほぼ並行して流れていた)三国川(現・神崎川)と淀川を連絡する運河を開削した。
これに伴って、水運の中継地が「江口」や神崎の地に移っていった。

【江口の里】
淀川と神埼川の連絡口の江口は、山陽道や南海道への交通の要衝であり、また平安時代から鎌倉中期にかけては日本一の色里として栄えた。
渡辺津が国府で政治や経済の中心だったのに比べ、江口は華やかな歓楽の中心地であり、平安時代中期以降は、王朝貴族が熊野や高野山、あるいは天王寺や住吉への道中に立ち寄る賑やかな宿場であった。
『遊女紀』の著者・大江匡房によると、藤原道長も東三条院の住吉・天王寺参詣に随行した折に、江口の遊女・小観音を愛したらしい。
なお、淀川の船旅客の袖を引く遊女(舟遊女)もまたカヌーのような小舟で旅人に近づいたらしい。

【江口の君堂】
西行法師が天王寺詣での途次、江口の里の遊女に一夜の宿を所望したところ断られて、「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」と詠み、
遊女・妙がすかさず、「世を厭ふ人とし聞けば仮の屋に 心留むなと思ふばかりそ」と返歌を詠んだ話は、三番目物の能「江口」(金春禅竹作)でもよく知られている。
その遊女「江口の君」が建てたお寺が寂光寺・江口の君堂