明智藪→桃山城     2012/06/29



【案内】

・当初案内 :
京阪六地蔵→六地蔵→桃山城・山里丸舟入跡(ここからが登り)→乃木神社→明治天皇陵(平安京を捨てた天皇。眺望良し。階段あり。)→治部丸跡→桓武天皇陵(平安京を作った天皇)→桃山城北堀跡公園→八科峠(ここまでが登り)→弘法の杖突水→明智藪→明智胴塚(全行程2.5時間〜3時間程度)
・変更案内 :
徒歩の方も御参加とか。それならば、先の行程を逆にして、六地蔵→明智藪→桃山城となりますね。登りは押しましょう。


【GPS歩行走行軌跡】

1)京阪六地蔵駅start。青線の中ほど「深草大亀谷東安信町」表示のカメラ位置まで徒歩。ココでS氏と別れ、S氏は六地蔵駅に向かう。

   

                             なお、京都伏見観光連携協議会の伏見桃山観光map(pdf)は分かりやすい。


2)その後、上記の左赤線軌跡をさらに、疏水に沿うように延伸・北上した。その間、編集の都合上、若干の中抜けはあるが、京阪七条駅がgoalである。

   




   

   左写真、山科・小栗栖の本経寺境内にある光秀の供養碑(地元ライオンズクラブの建立)        9:55

      中写真、いよいよ、明智藪の入口。

         右写真、入口の際の竹には、少し赤味を帯びた「血竹」の葉らしきものが混じっている。


   

   左写真、小栗栖八幡宮。

      中写真、相当古そうな野面積み。上には本殿。

         右写真、本殿の立派な屋根。

   

   左写真、「弘法大師杖の水」の前で暫し、休憩。

      中写真、竹藪の快適な道。

         右写真、見事な竹林が残されている。


   

   左写真、「八科峠」碑。左の石積みには「車石」が使われている。

      中写真、峠を守っている民家。(松井さん?)

 (ココで、S氏と別れ、3人は桃山へ走る。)

        右写真、伏見北堀公園の奥のテニスコートから若者の声が聞こえてくる。
          この広さが内堀跡とは、桃山城の何と広大なことか。

   

   左写真、桃山城と伏見城の模擬天守。

         右写真、mapの中央上に「伏見城」と小さく表記されている。

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伏見城の話を少し。 (拙HP三川合流物語より転載)

   【秀吉の伏見城】 

豊臣秀吉の伏見桃山城の構築は、その城下町である伏見港建設とともに伏見付近一帯に大工事を施工し、特に巨椋池沿岸一帯は平安時代からほとんど変わっていなかった地形を一変させた。

伏見築城は文禄3年正月より開始し、諸大名に令して2月以降役夫25万人を使役し、醍醐、山科、比叡山などより大工を引き出し、木曾、土佐方面より材木を運ぶという大規模なモノであった。
文禄4年3月、宏壮華麗なる伏見城が竣工し、秀吉はこの城に移った。
この工事で、宇治川は巨椋池の南西部に流入していたが、槇島堤(宇治堤)を築いて伏見に迂回させ、巨椋池との関係を隔絶させた。
巨椋池は淀付近でわずかに宇治川と通ずる一貯水池に過ぎなくなった。
また淀・伏見間には淀堤を築き、伏見・淀間の水路を確保した。この淀堤によって、巨椋池は南北に二分され横大路沼と分離したのである。
また、伏見と南対岸の向島との間に豊後橋(今の観月橋)を架け、小倉に至る太閤堤を築き、京都・奈良間を結ぶ奈良街道が新たにでき、巨椋池は東西にも二分された。

豊公土木工事のよって淀川との直接関係をを絶たれた巨椋池は半身不随的な存在になった。
淀付近において宇治川、木津川、桂川と相通じていたから、洪水時においては氾濫逆流し、湖岸一帯は浸水し年々被害を被った。
しかし、その反面、淀川洪水を調節する機能があるというので保存せられ、明治末年の淀川改良工事までほぼこの状態であった。
桂川筋の横大路、富森などは元々巨椋池北岸の漁農的集落で、淀・三栖間、または淀・京都間の通路上の邑であったが、豊公時代に現在の下鳥羽・納所間の大阪街道が開通するに及んでその上に移転した。
この大阪街道の開通によって、桂川はその流路を固定することになり、京都・大阪間の陸路が新たに完備し、二都市間の関係が一層緊密になった。


    3つの伏見城

1期目 : 文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見の指月シヅキ山に建設。淀古城、聚楽第から天守閣などを移築した。
秀吉が10年前に天下統一の拠点として築城した大坂城とは目的が違い、まずは明国からの文禄役の和睦使節団との謁見の場所とし、その後は自分の隠居所とすることだったようだ。
慶長元年(1596年)に明使がやってきたが、同年7月12日の夜半に”慶長の大地震”が起こり城門・天守閣・殿舎などことごとく倒壊してしまった。
2期目 : 慶長元年(1596年)閏7月に、今度は木幡山に築城開始。2年(1597年)5月、天守閣など完成、秀吉入城。3年(1598年)8月、秀吉、伏見城にて没。
その後、慶長5年(1600年)8月、関ケ原の戦の前哨戦で炎上消失。
3期目 : 慶長5年(1600年)8月、徳川家康が伏見・木幡山に入城し、仮屋を建築。7年(1602年)6月、大和郡山城から天守閣などを移築し築城開始。
11年(1606年)天守閣などが一応完成。元和5年(1619年)8月廃城・解体を決定。
8年(1622年)8月、松の丸櫓、鉄門を福山城に移築。9年(1623年)5月、家光将軍宣下のため、一部修築。
8月、解体工事が本格化し、天守閣を二条城、淀城、大坂城などに移築。寛永元年(1624年)10月、一木一石も残さずに解体工事完了・廃城。


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 お城の後、御陵に向かう。


   


   左写真、桓武天皇陵。

      中写真、治部池(石田三成の所縁の地):治部少丸跡の北に位置し、かつての内堀の跡という。

         右写真、明治天皇陵。


   

   左写真、御陵までの石段の数は知らないが、真下にいる人の何と小さいことか。当然、絶景である。

      中写真、並ぶように、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の陵墓(伏見桃山東陵)。四周が山の清閑な地にあり、皇后の陵墓としては随分、立派。

         右写真、乃木神社の門。



   

   左写真、乃木神社本殿。

      中写真、乃木少年が長府(山口県)で父母妹達と慎ましい生活をしていた時代の旧宅。

         右写真、日露戦争時に旅順柳樹房で第三軍司令部として使われた民家を移築した建物。

     (乃木将軍の遺墨・遺品他日露戦争前後の関係資料を展示した資料館も見学した。)


    

   左写真、伏見城御舟入址。上はJR奈良線。 下記は、現地の説明板による。

 文禄年間(1592〜95)伏見城を築くのと並行して宇治川の河道を現在のように伏見城下へ迂回させたが、慶長の大地震後新しく天守閣を木幡山に造るに当たって、宇治川と山科川との合流点に御舟入(河港)を設けた。
 その御舟入の北崖一帯は俗に「山里丸」と稱ばれる自然の風雅を愉しむ処で、その風景は牧溪モッケイの描く水墨画「烟寺晩鐘エンジバンショウ」にそっくりであったと言う。
 又、慶長8年7月、徳川家康の孫娘千姫が大坂城に在る豊臣秀頼のもとへ輿入れのとき、この御舟入から乗船した有様が諸書に記されている。

      中写真、月橋院の山門。

         右写真、正面は月橋院の本堂。なかなか落ち着いた風情である。
             秀吉の伏見城築城に際し、ココ指月の浜は資材の置き場となったらしい。後、秀吉がココから月や橋の景色を賞でたことから、月橋院と改院された由。


   

   左写真、藤森神社では「茅の輪潜り」の建設工事が丁度終わりかけであった。
       そういえば、明日は6月30日で、夏越の祓の日である。チャンと潜ったが、罪や穢れが取り去られたかナァ?

      中写真、藤森神社の本殿。

         右写真、有料の紫陽花園には入らなかったが、門の陰にきれいな紫陽花がひっそりと咲いていた。


  

   左写真、東福寺の臥雲橋の袂にも紫陽花が

      中写真、

         右写真、臥雲橋を渡りきって、写す。


   

   左写真、月下門。

      中写真、三十三間堂東向かえの法住寺。(三十三間堂は、元々は法住寺殿内のお堂の一つであった。)
         法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後、コノ寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」が営まれたとのこと。

         右写真、法住寺にある後白河天皇陵。




   続いて、法住寺北隣の養源院へ。   上写真、正面は養源院本堂。



養源院 from HIGASHIYAMA district

豊臣秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した寺。
一度は焼失したが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江の方の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興された。
以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。
本堂の廊下の天井は有名な「血天井」。俵屋宗達が描いた襖絵「松図」や、白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵(重要文化財)と共に、慶長5年(1600年)8月1日に伏見城で自刃した徳川家の家臣を慰めている。

本堂には、俵屋宗達が描いた松図十二面の襖絵」や、唐獅子、白象、麒麟を描いた「杉戸絵」があり、すべて重要文化財。
俵屋宗達は、屏風絵はいくつか残しているが、「襖絵」は唯一。ほとんど門外不出の「杉戸絵」と共に、養源院でしか見られない。

当時、寺社の襖絵は狩野派の絵師が描くことが多かった。
養源院にも、伏見城から移築された牡丹の間などに、狩野山楽の牡丹の折枝の襖絵などがある。
だが杉戸絵と襖絵の絵師に急遽選ばれたのは、当時、無名に近かった俵屋宗達であった。
扇絵職人として細々と絵を描き、本阿弥光悦にかわいがられていた俵屋宗達は、養源院に描いた杉戸絵で世に名を知らしめる。
朝廷から「法橋」の位を与えられ、大絵師としての第一歩を踏み出すこととになった。養源院の杉戸絵は、俵屋宗達の原点であり出世作だといえる。


  養源院の門の陰の紫陽花は見事な青であった。   15:00





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