三川合流物語ー
              ーーー 渡し、淀城、巨椋池 ーーー


拙HPでもいくつかのページで、淀川の三川合流地点近くのレポートを出させて頂いた。
ココで、それらの内容も含めて、淀川の歴史の順に整理し、「三川合流物語 -- 渡し、淀城、巨椋池 --」のテーマで纏めてみた。
目次 :
 1)山崎橋 (奈良時代)
 2)後鳥羽上皇の楽しみ (鎌倉時代初期)
 3)太閤さんの淀川治水大工事と淀城 (安土桃山時代)
 4)大名行列は淀川をどこで渡ったか? (江戸時代)
 5)淀橋本観桜図屏風(江戸中期)
 6)明治元年の木津川付け替え
 7)明治18年の大洪水
 8)明治の淀川改良工事(明治43・1910)
 9)昭和の淀川改修増補工事(昭和8・1933)
 10)桂川の舟下り
 11)山崎の渡し
 12)巨椋池排水機場
 13)昔の宇治川、木津川の跡


1)山崎橋 (奈良時代)

行基年譜によると、行基が神亀2年(725年)に淀川をまたぎ、橋本と山崎との間に山崎橋を架けた。
山崎橋は度々の洪水で流されたにもかかわらず、何回も架け直され、百数十年にわたって存続したらしい。
橋本側の久修園院クスオンインと山崎側の山崎院はともに行基四十九院の一つであるが、山崎橋の維持管理をする役目も持っていたらしい。

下のmap(from<巨椋池1>)は”平安遷都以降豊公伏見築城までの巨椋池およびその沿岸図”である。
山崎橋があり、下鳥羽の港(古くは草津港と言い、木津、今津とも呼ばれ、船で西国に赴く人達の乗船地だった。)が描かれている。
太閤さんの時代までは、巨椋池、木津川、宇治川、桂川、(三川合流しての)淀川の姿はあまり変わっていないのだ。


左写真、大山崎歴史資料館にある模型。


右写真、模型の説明図。
山陽道と山崎橋、山崎津がある。
山城国府、山崎の駅家、河陽離宮もある。
楽しい模型だ。





【平安時代の三大橋】
山崎橋(山崎太郎)、瀬田の唐橋(勢多次郎)、宇治橋(宇治三郎)。
山崎橋がなくなってからは淀橋を加える。


2)後鳥羽上皇の楽しみ (鎌倉時代初期)

1183年、安徳天皇が平氏とともに都落ちした後、践祚センソ。(後鳥羽天皇)
1198年、19歳の第1皇子・土御門天皇に譲位して院政を開始。(後鳥羽上皇)
1221年(承久3)、北条義時追討の院宣を下したが失敗(承久の乱)。隠岐に流され、その地で没する。
和歌、管弦に秀でて、和歌所を再興し、藤原定家らに「新古今和歌集」を撰集させた。

隠岐の地で19年間過ごし、60歳で崩御したが、亡くなる前に手形を捺した「後鳥羽上皇御手印置文(国宝)」の遺言状を臣下に残した。
この遺言状に従って臣下の者が水無瀬離宮跡に御影堂を建立し、上皇の画像(国宝)などを納めて菩提を弔ったのが水無瀬御影堂で、現在の水無瀬神宮の起こり。

熊野詣は修験者が始め、平安中期頃からは貴族にも及んでいたが、延喜7(907)年、宇多上皇が始めたいわゆる「熊野御幸クマノゴコウ」に、後鳥羽上皇は29回も詣でている。

・熊野詣    拙HPチョットずつ熊野古道より抜粋・編集

上皇さん達が行った熊野御幸は、京都から淀川を下り、大坂・窪津から陸路を南下、和歌山、田辺を経て紀伊山地に分け入った。


左写真、城南宮の大鳥居。
城南宮は往時の鳥羽離宮の敷地内にある。




右写真、城南宮大鳥居の左手にある「熊野詣出立の地」説明板。

”・・・。白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇の熊野御幸はあわせて九十余度を数えるが、
屡々鳥羽離宮の御殿を精進屋に充て七日程の精進を勤め祓の儀式を修めて出立された。
・・・鳥羽離宮に程近い鳥羽の湊から舟に乗り淀川を下って・・・”とある。






鳥羽離宮は広大な敷地で、多分、鴨川・桂川とも繋がっていたのではないだろうか。
右図は、「史跡 鳥羽殿跡」として京都市が鳥羽離宮跡公園の南の更地に立ててあった表示板を写した鳥羽離宮絵図?である。(2007/3/23撮影)


かつて鴨川は竹田の東側を流れ(今は西側)、下鳥羽の南で桂川と合流していた。
その合流点附近に位置する鳥羽は、淀川を経て瀬戸内海へ通じる水運の要所で、また水郷が広がって風光明媚で、狩猟や遊興の地でもあった。
この地に、10世紀初頭に左大臣藤原時平が別業「城南水閣」を、11世紀には備前守藤原季綱が山荘を設えた。
そして、季綱が白河天皇に献上した地を中心に「鳥羽離宮(鳥羽殿)」営まれた。

鳥羽離宮は、白河天皇(1053〜1129)が創建した譲位後の御所で、現在の京都市南区上鳥羽、伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯に位置し、
鳥羽上皇(1103〜56)の代にほぼ完成、14世紀頃まで代々院御所として使用された。
敷地は約百八十町(180万平方メートル)で、鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には、それぞれ御堂が附属し、広大な池を持つ庭園が築かれた。
讃岐守高階泰仲ら受領層が造営を請負い,資材が諸国から集められた。
院の近臣をはじめ貴族から雑人に至るまでが鳥羽殿周辺に宅地を与えられ,仏所や御倉町なども造られたので、「あたかも都遷の如し」だったとのこと。
院政期の鳥羽は、京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地だったが、南北朝の内乱の戦火により多くの殿舎を焼失し、その後急速に荒廃した。
昭和38(1963)年の名神高速道路京都南インターチェンジ建設以後、附近一帯の景観は一変した。

(以上、京都市歴史資料館のフィールド・ミュージアム京都鳥羽離宮の項を参照。)



右の地図および下の絵図は、平安京探偵団 から抜粋させていただいた。
この2枚と上の写真の絵図を対照すると、中島という島が、中央部にあり、昔の鴨川が右上から左下に流れていて、左下の流れは桂川に繋がっていたように思われる。 
(右地図の鴨川表示は現在の鴨川であろう。)













推測するに、後鳥羽上皇はこの鳥羽離宮の御殿にて7日間ほどの精進を勤め、祓の儀式を修めた後、鳥羽離宮に程近い湊から舟に乗り淀川を下られた。
そして屡々、お気に入りの水無瀬離宮にもお寄りになったことと思われる。



・水無瀬離宮   拙HP西国街道より抜粋・編集

後鳥羽上皇は水無瀬の地を非常に気に入り、鎌倉時代初期に水無瀬離宮を造営した。
上皇は淀川を舟で下って頻繁にこの離宮に行幸し、その回数は約20年間で30回におよんでいる。
離宮では管弦の催しや歌会、狩猟などを楽しんでおり、新古今和歌集に「見渡せば 山もと霞む 水無瀬川 夕べは秋と 何思ひけむ」と詠んだ歌がある。

水無瀬離宮は非常に広大であり、現在、JR線を越えた北側に、「後鳥羽上皇水無瀬宮址」の石碑(大正八年 大阪府)が建っている。
しかし、むかごの高槻HPによると、水無瀬離宮跡と思われる遺跡が水無瀬神宮の西600mほどの地で発掘されたらしい。(2010年2月)

右写真、水無瀬神宮。(水無瀬川の南)
(西国街道に面して大きな石碑あり)


左写真、萩の向こうに拝殿。



右写真、見事な萩だった。








昔の桂川・淀川は、京都と大阪を結ぶ便利な水路で、重要な交通路だったのだ。
なお、昔は「三川合流と言うよりは、宇治川は巨椋池に注ぎ込む川であり、木津川も巨椋池の西端に流れ込んでおり、
桂川も巨椋池に繋がっていて、三川は巨椋池という途轍もない大調節池を介して淀川という大河になって流れ出ていた。」
なお、木津川は山城三川の中で最も傾斜がゆるく、富野荘八幡間の平均勾配は1200分の1ほどであるが、
流域耕地総面積は1万ヘクタール(1万町歩余)に近く、宇治川・桂川の流域面積より遙かに広い。


3)太閤さんの淀川治水大工事と淀城 (安土桃山時代)

秀吉の時代の巨椋池沿岸図左の「秀吉の時代の巨椋池沿岸図」は、三栖閘門資料館HP より転載させていただいた。
当時の宇治川、桂川、木津川の流れや、淀城の位置が分かる。
(但し、本図に描かれている淀城は江戸時代築城のモノで、淀君の入った淀古城は500mほど北の納所ノウソにあった。)

豊臣秀吉の伏見桃山城の構築は、その城下町である伏見港建設とともに伏見付近一帯に大工事を施工し、
特に巨椋池沿岸一帯は平安時代からほとんど変わっていなかった地形を一変させた。

伏見築城は文禄3年正月より開始し、諸大名に令して2月以降役夫25万人を使役し、醍醐、山科、比叡山などより大工を引き出し、
木曾、土佐方面より材木を運ぶという大規模なモノであった。文禄4年3月、宏壮華麗なる伏見城が竣工し、秀吉はこの城に移った。
この工事で、本ページ冒頭のmapでは、宇治川は巨椋池の南西部に流入していたが、槇島堤(宇治堤)を築いて伏見に迂回させ、巨椋池との関係を隔絶させた。
巨椋池は淀付近でわずかに宇治川と通ずる一貯水池に過ぎなくなった。

また淀・伏見間には淀堤を築き、伏見・淀間の水路を確保した。この淀堤によって、巨椋池は南北に二分され横大路沼と分離したのである。
また、伏見と南対岸の向島との間に豊後橋(今の観月橋)を架け、小倉に至る太閤堤を築き、京都・奈良間を結ぶ奈良街道が新たにでき、巨椋池は東西にも二分された。

豊公土木工事のよって淀川との直接関係をを絶たれた巨椋池は半身不随的な存在になったが、淀付近において宇治川、木津川、桂川と相通じていたから、
洪水時においては氾濫逆流し、湖岸一帯は浸水し年々被害を被った。
しかしその反面淀川洪水を調節する機能があるというので保存せられ、明治末年の淀川改良工事までほぼこの状態であった。
桂川筋の横大路、富森などは元々巨椋池北岸の漁農的集落で、淀・三栖間、または淀・京都間の通路上の邑であったが、
豊公時代に現在の下鳥羽・納所間の大阪街道が開通するに及んでその上に移転した。
この大阪街道の開通によって、桂川はその流路を固定することになり、京都・大阪間の陸路が新たに完備し、
二都市間の関係が一層緊密になった。

右図<巨椋池2>”宇治川改修をめぐる土木工事(宇治市史)”には、
淀古城、伏見城、淀城、豊後橋、淀大橋、淀小橋、淀堤、小倉堤(太閤堤)、槇島堤、大坂街道、大和街道、高瀬川、伏見城下町などが描かれていて、分かりやすい。

淀古城
淀古城は木津川、淀川、桂川の合流点付近(納所ノウソ)にあり三方を川に囲まれた要害の地にあった。
永禄2年(1493)京畿をほぼ掌握した三好長慶は細川氏綱を淀古城に配して、京の将軍足利義輝を牽制した。
永禄11年織田信長の上洛と同時に織田軍によって攻められ落城。
天正17年羽柴秀長が改修し、秀吉の側室である淀殿が入り、文禄元年(1592)には木村常陸介の居城となったが、同4年に廃城となる。
淀古城の資材は伏見城(1期目)の築城に利用されてと言われている。

伏見城
1期目 : 文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見の指月山に建設。淀古城、聚楽第から天守閣などを移築した。
秀吉が10年前に天下統一の拠点として築城した大坂城とは目的が違い、まずは明国からの文禄役の和睦使節団との謁見の場所とし、その後は自分の隠居所とすることだったようだ。
慶長元年(1596年)に明使がやってきたが、同年7月12日の夜半に”慶長の大地震”が起こり城門・天守閣・殿舎などことごとく倒壊してしまった。
2期目 : 慶長元年(1596年)閏7月に、今度は木幡山に築城開始。2年(1597年)5月、天守閣など完成、秀吉入城。3年(1598年)8月、秀吉、伏見城にて没 。
その後、慶長5年(1600年)8月、関ケ原の戦の前哨戦で炎上消失。
3期目 : 慶長5年(1600年)8月、徳川家康が伏見・木幡山に入城し、仮屋を建築。7年(1602年)6月、大和郡山城から天守閣などを移築し築城開始。
11年(1606年)天守閣などが一応完成。元和5年(1619年)8月廃城・解体を決定。
8年(1622年)8月、松の丸櫓、鉄門を福山城に移築。9年(1623年)5月、家光将軍宣下のため、一部修築。
8月、解体工事が本格化し、天守閣を二条城、淀城、大坂城などに移築。寛永元年(1624年)10月、一木一石も残さずに解体工事完了・廃城。

淀城
伏見城が廃城となった後、元和9年(1623)、新たに譜代大名の松平越中守定綱が淀に入部して、淀藩が成立した。
永井氏、石川氏、松平氏と譜代大名が入れ替わった後、享保8年(1723)に春日局の子孫である稲葉氏が入り、幕末まで続いた
。慶応4年(1686)の鳥羽伏見の戦いでは敗走する幕府軍に門を閉じ、官軍の勝利に一役買う形となったが。
元和9年に松平定綱は、淀古城があった納所とは違い、島之内と呼ばれる淀の中心地に大規模な城を築いた。
この時、島之内を南北に貫いていた大坂街道は城地の東へ迂回させた。
寛永10年(1633)に10万石で入部した永井尚政は、寛永14、15年、木津川の川違カワタガエを行い、木津川の流れを西へ400m移している。
(目的は多分、武家屋敷地の拡大であろう。)  <大山崎1>

【伏見】
淀川舟運の港町・伏見の歴史は、三栖閘門資料館HPに詳しい。


【松花堂昭乗の茶室「閑雲軒」からの木津川の眺め】

左図は、茶室「閑雲軒」の復元イメージ図(八幡市教育委員会)で、眼下に木津川が描かれている。

石清水八幡宮で、江戸前期に茶人小堀遠州が手掛け、山腹の崖面に迫り出した「懸造り」と呼ばれる構造の茶室跡が見つかり、
八幡市教育委員会が2010年11月4日、発表した。
懸造りは清水寺(京都市)本堂の舞台に代表される建築様式。
地面から床までの高さは最高で約6.5mあったとみられ、同市教委は「これほどの高さがある茶室が確認されたのは初めてではないか」としている。
茶室は、松花堂弁当の名前の由来となった同八幡宮の僧、松花堂昭乗が暮らした宿坊「滝本坊」の一角。
1630年ごろ完成し、「閑雲軒」として名高かったが1773年に焼失した。
閑雲軒は、親交があった昭乗から相談を受けた遠州が設計したとされる。
立体的な間取り図の「起こし絵図」や茶会記が残され、広島県内のリゾート施設に復元されている。 (from KOL net 河北新報社)


4)大名行列は淀川をどこで渡ったか? (江戸時代)

ココで一度、淀川水系の全体図を見ておこう。
右図は、江戸時代の”淀川水系図<宇治>”で、巨椋池に淀堤、太閤堤、東堤防が築かれ、安治川も開通している。
しかし、それ以外は昔と大差ないと思われる。


さて、江戸時代になって、大名行列は三川合流点あたりのどこをどう通ったのだろうか?

まず、西国(外様)大名の場合である。
下の絵地図<大山崎2>は”萩藩主の参勤交代の行程記”の山崎、淀付近である。
この絵地図の左手の山は天王山。その下に山崎宿が描かれている。
西国街道を地図の左(西)からやって来た大名行列が山崎宿を過ぎて、さらに右(東)へ進むと、桂川の河口付近で街道が途切れている。
(現在、宮前橋が架かっている地点。)舟もあったのだろうが、大名行列はココで桂川を渡ったと推測される。
桂川の平時の水量は山城三川中、最も少ない。また、ココは宇治川に注ぐ河口部なので、流速は緩く、川底には土砂も堆積していたはずだ。
渡河に特に問題は無かったであろう。

桂川を渡ると、納所ノウソで、淀古城のあったトコロである。

上絵地図の如く、江戸時代には宇治川と木津川の間に淀城が築かれ、淀は宿場町になっている。
「淀宿」は淀城の城内の三町(池上・下津・新町)と、宇治川を挟んで淀小橋で繋がった城外の三町(納所・水垂・大下津)とで形成されていた。
伏見宿と近いので、本陣や脇本陣はなく、旅篭が16軒あったらしい。
上図の”萩藩主の参勤交代”は、淀宿の城外部分(宇治川の右岸)を通って伏見に向かっていた。


西国の外様大名は上述の如く、渡河したのだが、紀州公などはどうか。
多分、淀川左岸の京街道を上って来て、淀大橋で木津川を渡り、上図・淀城右手の街道を通ったはずだ。
そして、淀小橋で宇治川を渡って、伏見へ進んだのだろう。


右図<大山崎1>は、”淀城下町周辺地積図”で、アミ部分は、寛永14年の川違以前の木津川。旧河道を埋め立てて、武家屋敷や町人地を拡張している。


5)淀 橋本 観桜図 屏風(江戸中期)



上図2枚<大山崎1>は、淀橋本観桜図屏風(江戸中期)の八曲一隻の部分で、いずれも北側から見た構図である。
左は、「淀」。ほぼ真ん中に淀城がある。左手は淀小橋で、大坂街道(京街道)を行き交う人々が見える。水車も描かれている。
右は、「橋本」。手前は船着場で、川沿いは大坂街道。左手前の桜の下では花見をして、踊っている。(橋本は、淀宿と枚方宿の間の”間の宿”であった。)

【橋本遊郭】
「橋本遊郭」は男山・石清水八幡宮とともに栄えた。源義朝の妾の一人は橋本から出たと言われるので、1000年も昔から遊里があったのだろう。
井原西鶴の『好色一代男』に描かれ、淀川三十石舟舟歌にも歌われており、江戸時代中期以降は全国的に有名な遊里だったようだ。
1872年に京都府から正式に遊郭と認定され、最盛期には、京街道沿いに石原楼、京華楼、いろはなど75の妓楼が並び娼妓は400名以上だったとのこと。
1958年の公娼制度廃止後、遊郭の灯は消え現在は閑静な街になっているが民家の屋根、玄関、格子の造りには遊郭の華やかな面影が残っている。
  (from さすらいおじさんさんの旅行ブログ


6)明治元年の木津川付け替え

江戸時代にも淀川の洪水は数限りなく起こっているが、人口が増え、低地にも人家が広がると、被害が当然大きくなる。
明治元年5月、畿内は淀川流域の大洪水に見舞われ、早急な治水対策が迫られた。
近世期まで木津川は淀で桂川、宇治川と合流していたが、これを治水目的で西へ付け替えることとし、明治元年12月から大規模な工事が開始された。

右図<巨椋池2>は”山城国木津川立替之節八幡郷辺之図”で、上記、明治元年の木津川付け替え工事の計画書である。
赤線が新河道で、下津屋村(城陽市)から八幡方面に付け替える様子が分かる。
(中央右上の島の部分が淀城)

この工事には、八幡領、淀藩、高槻藩の村々から人夫が動員され、ほぼ常時1万人前後が働いていた。
明治3年正月、ほぼ付け替え工事は完成し、工事費用は金24万8176両に及んだ。
明治新政府の大工事だったのだ。


7)明治18年の大洪水

明治18年の洪水で浸水した地域上述の如く、明治元年に大洪水に見舞われ、3年にも大きな水害があった。
そして明治18年には、枚方の三矢村・伊加賀村の堤防が決壊し、切れ口が100間にも広がって、茨田マンダ郡一円が水没。
大阪市内にまで及ぶ未曾有の大水害になった。
左写真は決壊場所に建てられた「洪水碑」。(2010年に移設された。)



大阪市内では大阪城〜天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人。
八百八橋とうたわれる大阪の橋は30余りが次々に流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断されたらしい。
この水害をきっかけに流域では、抜本的な淀川の改修に向けた機運が急速に高まった。



洪水で流失した天満橋 森之宮の浸水状況 その後、明治22年、29年にも淀川堤防が決壊しており、明治29年から15年間におよぶ淀川大改修工事が実施された。
堤防の嵩上げ・補強が行われるとともに、上流の瀬田川には洗堰を築造して水流を調節し、
また下流では河口まで16kmの新淀川を開削して、真っ直ぐな幅広の水路で大阪湾までの水はけをよくした。







8)明治の淀川改良工事

ココで、淀川および巨椋池の水域の変遷を眺めておきたい。
下の6枚の図は淀川資料館所蔵の「巨椋池変遷図」を撮影させていただいた。厚くお礼を申し述べたい。2010/9/27再撮影。)
赤線は現在の河道(上から順に、桂川、宇治川、木津川)を、紺色は当時の水域を示している。


@秀吉による河川工事前(文禄以前・1590)
 ・文禄堤(太閤堤)着手前















A秀吉による河川工事後(文禄5・1596)
 ・文禄堤により宇治川と巨椋池の分離
 ・文禄堤の築造、左岸連続堤の概成


コレはホント、太閤さんならではの大工事だ。
明治以前の特筆すべき大工事は、太閤さんのこの工事のみ。











B「淀川改良工事」以前(明治18・1885)
 ・木津川の付け替え(明治3・1870)


明治維新直後に、木津川の付け替えという大工事をよくやったと思う。
そのインフラ整備に対する熱意に感服する。











C「淀川改良工事」完成時(明治43・1910)
 ・宇治川の付け替え(明治35・1902)


コレで淀川の治水はほぼ出来上がった。
その後は、明治の遺産で食っているようなモノだ。












9)昭和の淀川改修増補工事

D「淀川改修増補工事」完成時(昭和8・1933)
 ・巨椋池干拓(大正7・1918〜昭和16・1941)
 ・三川合流点の道流堤、引堤等(昭和8・1933)


巨椋池の干拓は国民が食っていくための国策だった。











E現代(昭和28・1953)


その後も堤防の改修工事が続けられ、昭和43(1968)年に今の堤防が完成したそうな。 (「枚方宿の今昔」)













10)桂川の舟下り

後鳥羽上皇さん達の熊野御幸を真似て、鴨川・桂川を下った時の話。  (拙HP熊野古道.1:2007/3/31)

左写真、快適な舟旅を楽しんでいると、前方から瀬音が聞こえてきた。
用心して、右岸に着艇し、偵察すると、なんと河床に基盤岩が露出し、天然の堰になっている。
(背景左は石清水八幡宮の男山)



右写真、舟を瀬の下(左岸)まで流してから上流側を写す。
(左遠景は日立物流イオン関西NDCの建物)




何故、桂川に岩が露出しているのだ。
調べてみると、多分、昭和8年に完成した「淀川改修増補工事」で三川の合流をスムーズにするために、桂川の右岸側の岩部分を掘削して、荒瀬が作られたのだった。


右写真、大山崎歴史資料館にあった航空写真の説明マップ。
画面中央の上に”山崎津跡”と書かれ、中央左には”山崎橋跡”と書かれている。
”山崎津跡”の下に堤防を南北に横切る水路が見える。コレが小畑川である。桂川に注いでいる。
小畑川流出口の樋門のすぐ下流(左)
に岩礁が写っている。
コレがカヌー舟下りを妨げた岩瀬である。


左図の”巨椋池沿岸土性図<巨椋池1>”によると、 巨椋池周辺は大昔の山城大湖盆地内に堆積した洪涵平野で、沖積層の最も新しい地帯である。
ただ、洪積層の山地が伏見城あたり、大久保あたり、物集女町あたり、そして大山崎に見られる。
大山崎付近ではJRおよび阪急の線路のすぐ西側、国道171号線のトコロまで天王山に連なる洪積層になっている。
ココが掘削されたのだ。



右上の”三川合流点付近河道付替図<宇治>”の大山崎の南東部の一点鎖線は淀川改修増補工事(昭和8年完成)による桂川
右岸側の掘削拡幅を示している。
ココが天王山に連なる洪積層の掘削工事だったのだろう。
三川をスムーズに合流させるために、岩掘削が施工されたのだ。近代の治水工事であった。


11)山崎の渡し

谷崎潤一郎の「蘆刈」(昭和7年)に、「饂飩屋の灯を見つけて酒を二合ばかり飲み狐うどんを二杯たべて出がけにもう一本正宗の罎を熱燗につけさせたのを
手に提げながら饂飩屋の亭主がをしへてれた渡し場へ出る道といふのを川原の方へ下つて行った。」という一節がある。
(左写真は谷崎の入った饂飩屋かぎ卯
淀川に渡しの制度が整備されたのは江戸時代になってからだが、「山崎の渡し」はかなり古くからあり、中世末期、男山八幡宮の支配下にあった時には「灯明の渡し」とも呼ばれていた。
この渡しは、男山八幡宮への参詣や橋本遊郭への足として主に利用されていたとのこと。
明治の淀川改良工事の後、桂川と淀川本流(宇治川・木津川)との間に中洲ができたので、一旦、中洲に上陸し、蘆原の道を進んで、別の渡し舟に乗り換えることになったそうな。
この蘆原を舞台に「蘆刈」の話は展開する。
売春防止法が昭和33年に実施されて、偶々かも知れぬが、翌34年にココの渡し船は廃止になったそうな。(<大山崎1>では、昭和37年まで続いた。)


左写真<大山崎1>、最後の渡し舟の記念写真。左から3人目が渡し守とのこと。


右写真<大山崎1>、中洲の蘆原。
対岸は橋本。





山崎の渡し跡を水上から訪ねた。 ( from 拙HP宇治川ツアー

左写真、桂川に注ぐ水無瀬川の河口。
「山崎の渡し」はこの付近にあった。

右写真、新水無瀬橋の京都側袂に移設された「水無瀬神宮の石標」。
この石標は、山崎の渡し場に乗船客の為に建てられたようだ。(昭和14年官幣大社になった折の設置)





なお、「蘆刈」には、「これより少し上流に狐の渡しといふ渡船場があつた」とある。
「狐の渡し跡」の説明板が京滋バイパスの橋梁手前の桂川河川敷公園にあり、その道標は現在、大山崎町立中央公民館の中庭に移設されているらしい。
また、山崎の渡しの下流側には、高浜(阪急水無瀬駅南)と楠葉を結ぶ「高浜の渡し」があったとのこと。


12)巨椋池排水機場

左写真、左:巨椋池排水機場、右:久御山排水機場。<巨椋池>


右写真、巨椋池排水機場と第一水門。
<巨椋池>





左図、巨椋池干拓地周辺の排水模式図。
<巨椋池>









13)昔の宇治川、木津川の跡


左図<宇治>は、散策の案内図である。
昔の宇治川、木津川の流れや巨椋池の大きさが分かる。
桂川の位置はあまり変わっていないようだ。


淀宿から伏見宿への街道(旧宇治川右岸の”淀堤”)の跡に京阪電車が走っている感じかな。













本ページを纏めるに当たって、淀川資料館の福田氏および大山崎歴史資料館の福島氏に随分とお世話になった。心から謝意を申し述べたい。

【参考文献】
1)西国街道:(高田健一郎)、向陽書房、昭和62年8月1日第2版第3刷
2)はるかなる淀川−三川合流の歴史−:大山崎町歴史資料館(第8回企画展)、平成12年10月・・・上記の拙HPには、<大山崎1>と略記
3)西国街道をゆく:大山崎町歴史資料館(第13回企画展)、平成17年10月             ・・・上記の拙HPには、<大山崎2>と略記
4)巨椋池干拓誌:巨椋池土地改良区、昭和37年10月                          ・・・上記の拙HPには、<巨椋池1>と略記
5)巨椋池干拓六十年史:巨椋池土地改良区、2001年(平成13年)11月               ・・・上記の拙HPには、<巨椋池2>と略記
6)巨椋池:宇治市歴史資料館(宇治文庫3)、平成3年11月                       ・・・上記の拙HPには、<宇治>と略記