芭蕉句碑−05     芭蕉終焉の地


2010年2月2日(火)、Loroさんに頼んでいた愛車BD-1のキャリーの溶接修理が出来上がったので、取りに行った。その序でに、芭蕉句碑を少し回ってきた。


左写真、南御堂の本堂南側の庭園にある句碑
芭蕉翁死の4日前の病中吟「旅に病でゆめは枯野をかけまはる ばせを」が刻まれている。
この句碑は、天保14年(1843)芭蕉150回忌記念に俳人たちによって建てられた。



右写真は、その拓本。(難波別院「南御堂と芭蕉」表紙)









左写真、南御堂前の御堂筋の分離帯に立っている石柱
「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」(昭和9年3月建之 大阪府)

芭蕉は元禄7年(1694年)10月12日、南御堂の前で花を商う「花屋仁左衛門」の屋敷で、51歳の生涯を閉じたのだった。

(下図(芭蕉終焉の地、花屋の位置図)の出典は米谷修「大阪春秋」4号)




少し詳しく(難波別院「南御堂と芭蕉」を引用しながら)述べると、

元禄7年、「おくのほそ道」清書本が完成し、芭蕉は伊賀に帰郷した。
その後、最後の旅に出る
9月9日の菊の節句は奈良で迎え、翌10日に大坂に入った 。
大坂に着くとまもなく体調が悪くなったが、20日頃から回復し、26日は浮瀬亭、27日は斯波園女シバソノメ邸(後述)で句会を開いている。

秋深き隣は何をする人ぞ」と詠んだのは、28日。
29日夜、下痢を催して臥床、その後、日を追って容態が悪化。

10月5日、之道の家から南御堂前の花屋の静かな座敷に病床を移した。
旅に病んで」の句は、10月8日夜の吟。支考は「病中吟」として、
・旅に病て夢は枯野をかけ廻る   (「笈日記」支考編、元禄8年)
と記している。この句はまた、
・旅にやんで夢は枯野をかけまはる (「芭蕉翁行状記」路通編、元禄8年)
・旅にやみて夢は枯野をかけめぐる (「和漢文操」支考編) 
とも伝えられている。

どうも「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と読むのが正解らしい。
舌頭に心地よく転がるではないか。


”芭蕉翁終焉ノ地”を見た後、御堂筋を北上して、大阪北の繁華街にある 太融寺を訪れた。

右写真、太融寺境内には「白菊の目に立ててみる塵もなし」の句碑がある。
これは、元禄7年(1694)9月27日斯波園女シバソノメ邸で行われた句会での芭蕉の発句である。(芭蕉最後の句会)
この発句は挨拶句で、園女を美しく清楚な白菊の花にたとえ、「眼に立て見る塵もなし」と、あら探しはしないことにしようとの冗談を交えた挨拶らしい。
この挨拶に、園女が付けて、
『白菊の眼に立て見る塵もなし 紅葉に水を流すあさ月)』
この付句は、芭蕉の前句を受けて、「そんないいものではありません。この紅葉の季節に朝早く起きて、白んだ月を見ながら流し場で働く、普通の女です」と返した。 (昔は台所のことを流し場と言った)

芭蕉は、 その前日には、上述の如く、浮瀬亭でも句会を開いている。
死の2週間前なのに、病をおして非常に精力的であった。

なお、この太融寺の句碑は1843年(天保14年)芭蕉150回忌に建てられたとのよし。


太融寺は弘法大師が開かれた由緒ある真言宗の寺である。
左写真、本堂の前の端っこに般若心経を唱えている同年配の方(黒い上着に白いパンツ)が遠慮がちに写っている。
たまたま写っていた。
この数分後に気が付くことになるのだが、この方は、学友の石井眞氏であった。
彼は今年の年賀状に曰く、四国巡礼に続き、西国巡礼をはじめた。各寺の観音様には、般若心経はもとより観音経も納経。
いやはや、繁華街のど真ん中のお寺で般若心経を納める熱心な方だ。恐れ入ったのだった。
(暫し歓談して、同窓生の動向などを伺うことができた。)





右写真、境内には、淀君の墓があった。
大坂夏の陣で敗れて秀頼と共に自刃し、明治10年城東鴫野より当寺に改葬されたとのこと。