芭蕉句碑−06     芭蕉と弟子と(大阪・天王寺)

チョットずつ山陽道「相生〜清音」の旅で、三石神社に「志太野坡の顕彰碑」があり、志太野坡に興味を持った。
旅から帰って数日後、「野坡の墓」が大阪市天王寺区の宝国寺にあるとNakmura氏から連絡があり、2012年2月9日に連れてもらった。

1)宝国寺の墓地にある野坡の墓  cf.志太野坡の墓

左写真、宝国寺。
「志太野坡墓所」の碑が立っている。
浄土宗の寺院で、1586年創建。
1945年の空襲でこの辺りは灰燼に帰した。

右写真、墓地にある野坡の墓。
墓石の左手前の大きな御影石は野坡の墓であることを示しているようだ。
墓石の正面は『蕉門第二世高津野々翁 淺生庵寿元居士』と、なんとか読める。
右側面には『元文五庚申星正月三日 行年七十八歳卒』、左側面には『孝子武田氏 嫡政女 門人等建立』とあるらしい。
【志太野坡】
野坡は、関西蕉門の中心であった去来が亡くなった年に、江戸日本橋越後屋三井両替店の番頭格の職を辞して、難波の地に居を移した。
職務上の悩みもあり、野坡43歳の決断、転身であった。
以降、行脚俳人に身をやつし、西国九州方面に10数度に渡る行脚を重ねて、野坡流蕉風俳諧の伝播に後半生を費やした。
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元禄7年春に巻かれた歌仙(「炭俵」)は、
  むめがゝにのつと日の出る山路かな     芭蕉
   処々に雉子の啼きたつ            野坡
の絶妙の発句・脇で始まり、「かるみ」の風を代表するモノとして、野坡の作品の中でも白眉らしい。

   cf 「芭蕉の門人」堀切実、岩波新書、1991/10
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2)四天王寺の墓地に芭蕉の墓と野坡の碣ケツ  cf.松尾芭蕉の墓(1)

左写真、四天王寺の墓地に「芭蕉翁之墓」と「淺生翁之碣ケツ」が並んでいる。淺生翁は野坡のこと。


右写真、裏面に回ると、芭蕉の墓石はまだ多くが残ってはいるが、表面が剥がれる寸前で、野坡の碣は全て剥がれて、破片が台座の上に散らばっている。


なお、これらは、野坡の門人で後継者でもある湖白亭浮雲が1761年(宝暦11年)に野坡の20回忌に建てた。
湖白亭浮雲 : 本名は有井氏、筑前直方藩の武士。
野坡の門に入り蕉門に傾倒して武士を捨て来阪。医業で生計を立てながら野坡門を継いだ。




3) 円成寺の墓地の芭蕉の墓  cf.松尾芭蕉の墓(1)

左写真、芭蕉の墓は当初、志太野坡が1734年(享保19年)に建立したが、風化がひどく、1783年(天明3年)に不二庵二柳フジアンジリュウが再建した。


   すぐ右の写真は初代文楽軒の墓。

   右端の写真は三代目文楽軒の碑。







松屋町筋に面したこの「円成院」には、芭蕉は亡くなる1ヶ月前の1694年(元禄7年)9月11日に訪れているらしい。



【植村文楽軒】
人形浄瑠璃のことを「文楽」というが、これは初代植村文楽軒が、江戸時代後期・寛政期(1789〜1801年)に大坂の高津橋南詰西側の浜辺で、浄瑠璃の稽古場を開き、
その後、文化2年(1805年)頃、人形浄瑠璃の小屋を設けたことに由来し、これが後の文楽座の始まりとされる。
初代・植村文楽軒は淡路島の人で、本名は正井嘉兵衛。13歳頃から伝統ある淡路浄瑠璃の花形で、中国筋を巡業し、名声を博したと言われる。


4)梅旧院の芭蕉の墓と不二庵二柳の墓、碣  cf.不二庵二柳の墓(1)

左写真、梅旧院の山門。
芭蕉が南御堂近くの花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧院の住職がお経を読んだと『花屋日記』にあるそうで、芭蕉との繋がりがある寺院らしい。



右写真、右手に芭蕉の墓(二柳建立)、その右に並んで二柳の墓。画面左端には”不二庵”の碣。
碣は二柳の1周忌に長男が建立。碑文には「俳諧作主 不譲芭蕉門徒数千 蕨猷孔昭」とあるらしい。






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【参考文献】
大坂を代表する(特に江戸時代の)有名人・文化人の墓所HPを大いに参考にし、一部、引用させていただいた。