チョットずつ山陽道


第1回 相生〜清音 2012年1月21(土)〜22(日) 伊部 泊 103km
第2回 清音〜広島 2012年5月12(土)〜14日(月) 鞆の浦、竹原 泊 192km
番外2.5回 広島〜岩国、下関、太宰府 2012年9月29(土)〜10月1日(月) 岩国、下関 泊
第3回 広島〜下関 2013年5月11(土)〜13日(月) 新岩国、防府 泊 225km

クラブ・ザ・ファルトの自転車仲間で、山陽道を西へ走った。ただし、小生は”相生”までの区間はサボっているので、”相生”より先の行程について記す。

左のmapは山陽(中国)街道歩き旅から引用させていただいた。

まず、山陽道について、冒頭にとりまとめておく。

律令時代の山陽道は、「七道駅路」(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)の1つであった。
中央と大宰府を結ぶ山陽道は、当時、国内最重要路線であり、七道の中で唯一の大路であった。(東海道・東山道は中路、それ以外は小路) from Wikipedia
江戸時代には、山陽道は瀬戸内の海上交通の発達により重要性が減少して、「中国路」(駅肝録)と名を変え、脇街道の地位に下がり、かつ大阪から出発するようになった。
しかし京から西国に至る道は残っており、西宮までを西国街道(山崎通、唐道)と呼び、西宮から「中国路」と合流して下関へ向っている。
「中国路」の総延長は、海路を除いて123里6町、約484kmとなるらしい。 from 百街道一歩の山陽道
なお、西国街道は京都の東寺口から始り、西宮に至る街道で、秀吉が朝鮮出兵の際拡張整備したことにより、「唐道」などとも呼ばれていた。
また、山崎道とも呼ばれ、大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用されたりした。拙HP西国街道(JR山崎駅〜昆陽寺)を参照されたし。

なお、Wikipediaを参考に、古代山陽道と中世山陽道について、以下に取り纏めておく。
【古代山陽道】 たとえば、古代山陽道駅家の成立についてなども面白い
古代山陽道のルートは直線的に計画され、道幅は6〜9mで、30里(当時の1里は約540mなので、30里は約16km)ごとに駅家ウマヤを設けられた。
また、山陽道は外交使節の入京路でもあったので、駅家は瓦葺きで白壁であった。
当初は国司が往復し、各地方からの庸、調も運ばれていたが、物資の輸送には水運が効率的であり、次第に瀬戸内海経由の比重が高まっていった。
大同2年(807)の改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになり、駅路の利用は衰微し、10世紀末には、駅伝制も駅路も名実共に廃絶した。
なお、古代山陽道の路線の遺跡は極めて少なく、その内の、山陽道野磨駅家跡と備中国分尼寺跡を我々は訪れることができた。
【中世山陽道】
鎌倉時代には、国家整備道路としての駅路は存在しなくなったが、駅家に代わり、交通の要地に宿駅(宿泊施設や輸送用の人馬を有する集落)が発達した。
(江戸時代の宿場町に発展したものが多い。)
また従来の極端な直線的ルートは廃れ、たとえば、播磨国の野磨ヤマを過ぎて備前に入り、吉永、和気を通っていた経路は南の片上、香登へと変わり、瀬戸内海沿いが志向された。


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チョットずつ山陽道-1         相生〜清音


@ 日時:平成24年1月21(土)〜22日(日)
A 参加者:奥田、中村、西野、真賀里、吉田 (5名)
B コース:
 1日目(1/21) (新快速赤穂行き) 大阪08:01−09:29相生着
    相生駅〜野磨ヤマ駅家跡〜船坂峠〜三石(宿)〜吉永町〜閑谷学校〜片上(宿)〜伊部(泊)
 2日目(1/22) 伊部〜岡山(宿)〜吉備津彦神社〜吉備津神社〜備中国分寺跡〜伯備線・清音駅
C 宿泊先: 常盤旅館 備前市伊部1485 0869-64-2032
D 主な見学予定地
  閑谷学校、吉備津彦神社、吉備津神社、備中国分寺跡

                                          ( from ダイソーの岡山県・分県地図 )



【GPS走行軌跡】
青色:1日目、JR相生駅〜船坂峠   (24.5km、標高差上り170m、走行速度11.6km/h)
赤色:1日目、船坂峠〜伊部の旅館(JR吉永駅手前で左折し、閑谷学校へ寄る)  (23.6km、標高差下り170m、走行速度13.5km/h)
茶色:2日目、伊部〜清音駅   (56.0km、走行速度11.5km/h)




























































【1日目】

左写真、JR相生駅。  9:49



右写真、牟礼八幡神社。(赤穂市有年ウネ)
正面の絵馬堂に古い大きな絵馬がいくつも掛かっていた。浅野内匠頭の松ノ廊下・刃傷事件の絵馬があるのは当然か。
なお、本殿は絵馬堂のさらに上である。







左写真、有年原ウネハラ・田中遺跡公園
弥生後期の2基の巨大な円形墳丘墓が復元されている。1995年に墳丘墓・木棺墓群・祭祀土坑などを復元して、歴史公園として整備された。



右写真、有年アリトシ家の長屋門。
江戸時代の大庄屋の家柄だった。
(赤穂市東有年)






左写真、大避オオサケ神社。
大避神社は、兵庫県南西部の相生・赤穂・上郡一帯の千種川流域に集中的に存在している神社らしい。



右写真、野磨ヤマ駅家ウマヤ跡(播磨国の西端・上郡町落地オロチ)から、北方向を撮る。
古代山陽道が都に向かって真っ直ぐに通っていたのだ。







左写真、落地八幡神社



右写真、境内の椋の木は、上郡町指定の文化財である。









左写真、船坂峠は押して上がる。
真賀里さんは漕いで上がった。



右写真、船坂峠。       13:15
ココから先は備前の国。







左写真、三石集落の山陽道。
左手には三石郵便局。



右写真、山陽道を振り返る。
左(北側)に、三石神社があり、「志太野坡の句碑」があるとの案内看板。この静かな集落唯一の案内表示だった。







左写真、三石神社

右写真、志太野坡を顕彰する野坡ヤバ塚。
中国筋、九州筋に今、数ヶ所残っている。
野坡は越前の生れで江戸に出て三井越後屋に奉公し番頭まで勤めたらしい。
芭蕉七部集『炭俵』の編集に参加し、芭蕉の死後、プロの俳諧師として立つべく来阪した。
大坂を本拠地に生涯、芭蕉の顕彰と蕉風の発展に尽くしたとのこと。
門人は、西国・中国・四国に及び、その数は千人を越えたらしい。ココ、三石宿にも門人は多かったのだろう。

大阪に戻ってから、「野坡の墓」が大阪市天王寺区の宝国寺にあるとNakmura氏から連絡があり、2月9日に連れてもらった。
拙HP芭蕉と弟子と(大阪・天王寺)を参照下さい。



左写真、261号線旧道の峠のトンネルを越えて、閑谷学校へ向かう。



右写真、金谷カナダニ首塚様
延元3年(1338年)、新田義貞が三石城の支城である馬転山城を攻め落とし、この地で首実検を行い首を埋めたとされる。
首から上の病気に御利益があるとか。河原で卵形の滑らかな石を拾い、願い事や氏名・住所を書いて供えるとよいという。







いよいよ、閑谷学校へ。ただし、雨でコンディションが悪く、先を急ぐこととし、外から見るだけに留めた。  14:30
(左の案合図の左手から来て、下へ抜けた。)


岡山県旅行観光ガイド「閑谷学校」HPに写真が多い。



熊沢蕃山(中江藤樹の弟子)が岡山藩の教学の基礎を作り、その弟子の津田永忠が池田光政の指示により、閑谷学校を開き、岡山藩唯一の藩営の庶民の郷学となった。
横井小楠が、その施設を天下一の壮麗な学校と言っていて、その遺構が完全に残されている。
なお、津田の役宅跡が閑谷学校近くにある。                      (by Nakamura)










左写真、聖廟と楷カイの木。



右写真、講堂、校門そして石塀。









左写真、校門前で。



右写真、冬桜と石塀、講堂がよく合う。








雨の中、伊部の常盤旅館に無事到着。順番に風呂に入って、温もる。    15:30


【2日目】

左写真、伊部の落ち着いた街道筋。
右手が常磐旅館。



右写真、お向かえには、伊部焼きが並んでいた。








左写真、常磐旅館の前で勢揃い記念写真。
    start 8:00



右写真、大内神社拝殿。








左写真、幣殿ヘイデン。(幣物を捧げる建物で、本殿と拝殿の間に設けられる。)



右写真、大内神社の街道筋に1里塚が復元されていた。









備前おさふね刀剣の里を訪ねた。

左写真、備前長船鍛刀場

右写真、鍛刀場の中






吉井川沿いに南下して、”福岡”を訪ねる。


左写真、備前福岡の落ち着いた町並み。




右写真、妙興寺の本堂前を通って、まずは墓地へ。








左写真、宇喜多興家(直家の父)の供養塔。

さらに奥(画面右下方向)へ

右写真、黒田官兵衛孝高ヨシタカ(如水)の父祖の墓。
(画面中央部の砂利敷きの回りにある10ヶほどの墓石群が黒田家の墓所らしい。)








左写真、立派な仁王門。



右写真、妙興寺の山門を出る。 9:40









左写真、”福岡の市跡・一遍上人巡錫の地”の石碑があり、その奥から賑やかに太鼓の音が聞こえてきた。
(画面の後に吉井川の堤防が写っている。)



右写真、「福岡の市」(第4日曜日・毎月開催)と幟に書かれている。








左写真、福岡の町興しだろうか?

ココの「福岡の市」で、弁当¥200とコロッケ¥100を仕入れる。




下図、一遍上人絵伝巻四の中ほどの部分。
福岡市の辻で、一遍は熱心に念仏を勧めていたが、その前に妻女が一遍の所為で出家したと恨む吉備津宮の神主の子息主従が立ちはだかっている様子が描かれている。
回りの福岡の市には、掘っ立ての長屋が5棟あり、履物、布、米、壺、魚(の大きな魚籠?)を売っている。
「あなた、コレを是非とも買って下され」と亭主にせがむ市女笠の女。
布の品定めをする被衣姿の女。筵を路上に広げて枡で米を量る男。・・・(cf:「一遍上人絵伝」中央公論社)



【備前福岡の歴史】  Wikipediaを参考
古代: 吉井古墳群。 奈良時代: 吉井寺建立。 平安時代後期: 荘園(福岡荘or庄)があった。
中世: 鎌倉時代:吉井川の水運に支えられて栄え、山陽道周辺に市場(福岡市)が発展し、西国一の賑わいで、長く、江戸時代まで続いた。
弘安元年(1278年)に一遍が布教に訪れて280名もの住民が出家。その様子は『一遍上人絵伝』に描かれていて、福岡の市の様子もうかがえる。
また、福岡一文字や備前長船などの刀工派閥が誕生、備前刀として伝統工芸となり今に残る。 さらには、備前焼の集積地にもなっていた。
室町時代から南北朝時代になると最勝光院領を経て、後醍醐天皇の命により東寺領とされた。 
また、この頃、吉井川の中州に福岡城が築城され、北朝方の赤松氏の支配下に置かれ、赤松氏と山名氏の間で福岡の支配を巡って、しばしば福岡城の攻防戦が行われた(1483年の福岡合戦など)。
また、その頃、近江国から流れてきた黒田高政が福岡に居住して一財を築き、その子・重隆は浦上氏次いで小寺氏に仕えて、後に播磨国姫路城を拠点とした。
また、浦上氏によって追放された宇喜多興家がこの地に逃れて病死したが、その子・直家は家名を再興して浦上氏を追放し、岡山城を拠点に備前一国を平定した。 
福岡の妙興寺には黒田高政・重隆父子及び宇喜多興家の墓がある。
近世: 宇喜多直家が岡山城下町建設のために福岡の商人を強制的に移住させたこと、更に洪水によって吉井川の流路が西に振れ、それまで吉井川右岸にあった福岡の町は左岸に移されたことなどが原因で福岡は次第に衰退した。 
それでも、江戸時代に岡山藩支配下になってからも福岡市は続けられた。妙興寺の門前町・街道の宿場町として町の体裁は保たれ、かつての山陽道随一といわれた福岡市ほどではないが、山陽道有数の在町として賑わった。


左写真、吉井川を備前大橋で渡る。



右写真、上流側に新幹線。









左写真、下流側。
左岸河川敷に、なかなか立派な長船CC。
福岡城は、あの辺りにあった。


(吉井川を渡ると、岡山市)


250号線沿いの道に入り、”沼交差点”を通過。
画面中央は沼城
(しかし、中村氏はよく知っているナァ!)



JR山陽本線を北に渡り、山沿いの旧山陽道を南西方向に進む。

左写真、(岡山市)鉄の「安国寺経塔碑」前で、”鉄”のおばちゃんに「藤井宿」を尋ねて、道を確認する。



右写真、経塔碑の左手の石の祠?。
中に高僧の石像?眼室宗安禅師かも知れぬ。
(先ほど見た、妙興寺の”黒田官兵衛孝高ヨシタカ(如水)の父祖の墓”なども、よく似た祠の形だ。)





左写真、藤井宿西本陣(左手)前の旧街道。



右写真、西本陣は荒廃しきっているが、辛うじて塀だけが残っていた。









左写真、旭川の分流である”百間川”の原尾島橋の袂で昼食休憩(福岡市の弁当とコロッケ)。   11:20
”百間川”は、旭川の氾濫から岡山城下を守るため、江戸時代初期に岡山藩主池田光政の命により造られたとの由。
  from Wikipedia



右写真、笹ヶ瀬川の平津橋。ココから、
川沿いのサイクリングロードを走る。
(吉備路自転車道)





左のmapの濃い赤が「吉備路自転車道」で薄い赤は「吉備高原自転車道」とのこと。 from ちゃりき?ちゃりき!



上写真の平津橋交差点は、左mapでは、大安寺駅から真北に延ばした線と太赤線との交点あたり。
ココから吉備路自転車道を西進する。








左写真、吉備津彦神社の参道。
左右は池。
背後の小高い山・吉備の中山は、古くから和歌や枕草子などで知られるらしく、吉備津彦神社の元宮や奥宮の大きな磐座イワクラが残っていて、今でも祭が行われている。



右写真、随神門ズイジンモンから拝殿を写す。



ココの本殿等の配置は、夏至の朝、上る太陽を真正面から迎える東北東方向に向いており、自然崇拝の名残とのこと。



また、キビツのカミは、「木、火、土、金、水」で、五行を示しているとのことで、なにかと古いなぁ。


左写真、境内は流石に、なかなか厳かであった。

右写真、日本一大きな大燈籠

この吉備津神社は備前国になる。


次ぎに西南方向すぐ近くの備中国の吉備津神社へ向かった。



左写真、石段を上ると、北随神門(室町中期、重文)。
なお、神社の八脚門は普通、”随身門”であるが、ここのは”随神門”と書くそうナ。



右写真、門をくぐると、拝殿
奥の本殿と繋がっている。(いずれも国宝)
本殿は白漆喰塗りの基壇の上に建ち、「比翼入母屋造」と呼ばれる造りで、神社建築としては京都の八坂神社に次ぐ巨大さらしい。






左写真、回廊を降りていく。



右写真、回廊を右に直角に曲がり、お釜殿に向かう。(画面右)

お釜殿では、鳴釜神事が行われる。
ヘルメットを取って、正座した。怖いおばさん(巫女?)だった。






左写真、お釜殿からの帰路、また、あの優美な長い回廊を進む。



右写真、北随神門は結構、急な石段だナァ。








【備前、備中、備後の吉備津神社】 Wikipedia等を参考
元々、吉備中山に鎮座する吉備津神社は吉備氏一族の神を祀る神社であり、吉備国の総鎮守であった
。ところが律令体制で7世紀後半、吉備は備前・備中・備後、それに美作に分割された。
(備前と備中の分割線は丁度、吉備中山の中央部を南北に通っている。このことは、それなりの意味があるのだろう。)
そして、吉備の分割に伴って、吉備津神社がどうやら、備中の「吉備津神社(備中一宮、旧・官幣中社、岡山市吉備津)」になり、
備前側には「吉備津神社(國幣小社、岡山市一宮)」が、備後には「吉備津神社(國幣小社、広島県福山市新宮町)」が建立された。
すなわち、備前の吉備津神社と備後の吉備津神社は、備中の吉備津神社(元は吉備の吉備津神社)から分社され、それぞれの国の守り神、一宮となったのであり、
吉備津神社と吉備津神社というのは、本舗と元祖の違いのようなものかも知れない。
(現在の格は官幣中社の吉備津神社の方が國幣小社の吉備彦神社より上なのか。)
なお、備中・吉備津神社も延喜式神名帳には、備中国大社として「吉備津神社」と記載されており、古くは吉備津神社とも呼ばれていたが、
現在は、備中国・備後国のは吉備津神社、備前国のは吉備津神社が正式名称になっているとのこと。
元々、吉備中山の地は、地元の英雄「温羅ウラ」と征服王「吉備津彦命」が争った場所で、「吉備津神社」は殺されて祟る「温羅」を祀り鎮める神社であったらしい。


左写真、吉備津神社お釜殿のトコロの門前を通過して、南西方向へ進む。



右写真、造山古墳。大きな前方後円墳。
この後、国分寺の先で、作山古墳ツクリヤマ(総社市)も見た。
地元では同じ発音の両者を区分するために、造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と呼んでいるらしい。







左写真、備中国分尼寺跡。
松林の中に大きな礎石が並んでいる。



右写真、ココで暫し休憩。
14:30になると、少し冷えてきた。
左端には、備中国分尼寺址の碑






左写真、こうもり塚古墳



右写真、こうもり塚は石室内に蝙蝠が沢山いたことからの命名とのこと。









左写真、備中国分寺跡の山門。



右写真、見事な松の向こうに五重塔。









左写真、画面中央左手は本堂。



右写真、先へ急ぐ路から五重塔を振り返る。









左写真、旧山陽道の山田一里塚。
隣の碑は「熊嵐之墓」と彫ってあった。



右写真、この池の画面上方の小高い山に砦のようなモノが見えなくもない。そう言えば、ココより2km南に(東上する足利軍20万と新田義貞軍の先鋒隊との)福山合戦の舞台の備中福山城がある。
本ページの最後から2番目の地図にも出ている。(旧・山手村。総社市、山手村、清音村が合併して、今は総社市西郡。)






【旧山陽道の参考地図】 「太陽コレクション地図 京都・大阪・山陽道」(平凡社、1997年)より複写転載。(map集に全ルート分あり。)

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【参考HP】
古代の道 、 コスモスが咲き乱れる「吉備路」を行く
百街道一歩の山陽道
旧西国街道(旧山陽道)
街道歩きの旅 山陽道
旧山陽道を辿る
旧山陽道(西国街道)ウォーキングガイド
広島付近の山陽道map


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