琵琶湖物語


私は琵琶湖が好きである。

子供の頃、夏には近江舞子やマイアミの水泳場によく連れてもらった。
水遊びに飽きて、足の指で瀬田蜆を採ったのも懐かしい思い出だ。翌日の味噌汁がうまかったナ。
そうそう、マイアミには船で行ったはずだ。クルマも道路もなかったのだ。

ちょっと横道。 日本のシジミは3種類ある。
市販の大半を占めるのがヤマトシジミで、海水と淡水が混じる宍道湖などで採れる。
山中の川に住むのはマシジミ。これに琵琶湖のセタシジミを加えて3種類。
セタ(瀬田)シジミは、琵琶湖水系にしか生息していなかった固有種で、その漁獲量は、私の子供の頃は琵琶湖漁業全体の50%以上も占めていたらしい。(今はその50分の1くらいとのこと。)


最近は琵琶湖をカヌーで漕いだり自転車で走ったりしている。徒歩での一周も始めた。
吟行句会で膳所の義仲寺に行ったが、滋賀県内には芭蕉の句碑が新旧100近くもあるらしい。
これを訪ねて回るのも面白そうだ。
「行春をあふミの人とおしみける」の気持を味わえるかも知れないなぁ。

そんなこんなで、ココでは琵琶湖の短編を綴ってみたい。                     (04/08)

【お断り】
殊勝にも、Q太、西野久二郎は、2003年12月から二つの句会に入って、俳句の勉強を始めた。
そして、努の会の俳誌「努」の編集に、縁あって携わることになった。
この琵琶湖に関する短編集は、2004年8月号から書き始めた同誌の編集後記を抜粋、編集したものである。
なお、「努」の発行年月を括弧入りで示しておく。



     −−−−− 孤舟の部 −−−−−


カヌー事始め

10数年前に週休2日になった。企業戦士にも少しは遊び心を持ってもいいよとのメッセージだと思った。
当時まだ一般的でなかった折り畳み式カヌー(ファルトボート)を注文した。
『小さなカヌーの限りない楽しさ』というキャッチフレーズが気に入ったのだ。

木津川でのスクールに数回参加して、梅雨明けの山陰海岸ツアーに申し込んだ。
国立公園の海岸線は素晴らしく、カヌーでの洞窟めぐりも楽しかった。しかし台風が近づいてきたために、ツアーは二日目に中止になった。
帰りの山陰本線の車窓から見た海はぎらぎら輝いていた。台風はどうやら逸れたようだ。
大きなフラストレーションになった。

その夏の休暇の大部分は、琵琶湖をソロで漕ぐことにした。
今津の国民宿舎に連泊し何日も漕いだナァ。
台風の雨と波の中でも懸命に漕いだ。琵琶湖のワイルドな面白さを感じた。             (04/09)



セルフレスキュー

琵琶湖でがむしゃらにカヌーを漕いでいると、雨風にも遭ったし波立つ時もあった。
初心者が一人で漕いでいると心細くもなる。そんな夏の終わりにセルフレスキューの練習会が近江舞子であった。

セルフレスキューとは、自ら行う救援活動で、自分の漕いでいるカヌーが「ちん沈」(転覆)した時に、自分の力で助かるための方法である。
この技術にもいろいろあって修得はなかなか難しいが、基本を習っただけでも初心者には大きな収穫であった。

後日、ファルト(折り畳みカヌー)を担いで湖西線に乗り、琵琶湖のマキノ浜でカヌーを転覆させてセルフレスキューの練習をした。
カヌー一人旅の自信ができ、夢が広がった。

琵琶湖は年中、カヌーが楽しめるマザー・レイクである。
奥琵琶湖は水も澄んでいて、竹生島への初詣海津大崎のお花見は、特に気に入っている。 (04/10)



布袋葵

「西の湖」は琵琶湖最大の内湖で、湖東の近江八幡市から安土町にかけて広がる水郷の中心である。

何年か前の秋分の日にファルトボートと呼ばれる折り畳み式のカヌーを担いで行って、西の湖を漕いだ
お彼岸だからか、近江八幡・水郷めぐりの手漕ぎ和船も見掛けたのは葭の茂る水路の一艘だけだった。

琵琶湖に注ぐ長命寺川に近づくと、布袋様のお腹のように葉柄の膨らんだ布袋葵が一面に茂っていて、葭の前の水面には淡紫色の花が咲き誇っていた。
調べてみると、布袋草は晩夏の季語だった。夏の終わりを実感した。

次の休日にもう一度見たくて訪ねたが、花は残り少なく、季節は完全に秋になっていた。

布袋葵は一日花で、翌日には茎から倒れて水中に沈むらしい。
一日花は、芙蓉や木槿が有名だが、いずれも初秋の季語でアオイ科。布袋葵はミズアオイ科。 (04/11)



湖中句碑

立冬の前日に、浜大津からカヌーを漕いで堅田の浮御堂に行った。
舟を止めて上陸する前に、虚子の湖中句碑の周りを回った。
ここは何回も漕いでいるが、有難いお経の一節でも書いてあるのだろうと思っていた。
確かに「湖もこの辺にして鳥渡る 虚子」と読める。
裏には昭和27年10月とあった。

しかし驚いた。誰が考えたのか。琵琶湖の最狭部で水流も結構速い。カヌーのパドルが届かなかったので、水深もある。
石を並べた台座の下には頑丈な水中基礎工事が当然なされている。
何のためにこんな大工事を行ったのだろう。浮御堂からは遠くて字も読めない。近寄れない句碑の意味は何なのか。

そんなことを考えながら上陸して浮御堂を訪ねると、若いペアが何組も来ていた。
どうやらここは、格好のデートスポットになっているようだ。時代は様変わりしていく。 (05/01)



浮御堂の芭蕉句碑

堅田の浮御堂に芭蕉句碑が二つあり、どちらも琵琶湖を背に建っている。

一つは、『鎖あけて月さし入よ浮御堂』

元禄四年、義仲寺での観月句会の翌日、
「望月の残興なほやまず、舟を堅田の浦に馳」して、「酔翁狂客、月に浮れて来た」時の吟。
御堂には小さな千体の阿弥陀仏が安置され、拝観時間には湖に面した扉も開いている。
中秋の名月が「鏡山」から上り浮御堂に最初の光が当たった光景はさぞかしと想像できる。
この句碑は芭蕉没後百年の寛政七年の建立。



もう一つの句碑は、『比良三上雪さしわたせ鷺の橋』

こちらは270年忌記念碑で、琵琶湖大橋架橋中の昭和38年の除幕。
天の川に鵲が翼を並べるというように、比良と三上(近江富士)の間に橋を架けろの句は、
琵琶湖大橋の竣工を祝うのにまさにぴったりだ。                        (05/02)


近江八景・唐崎夜雨

近江八景というのがある。
洞庭湖付近の名勝を描いた瀟湘八景の影響で、室町後期から琵琶湖畔の景勝が好まれ、現在の近江八景は江戸時代初頭までに選定されたとのこと。
そして歌川広重が生涯に二十種類以上もの「近江八景」版画を出版したので、広く庶民にまで浸透したらしい。

近江八景の一つに唐崎の夜雨がある。(広重の保永堂・栄久堂板 、魚栄板
夜は知らないが、雨に煙る比叡を背にした唐崎の松は実に素晴らしい。広重も背景には比叡を入れている。
湖上のカヌーからはこの構図で見える。(右写真は95年10月の撮影。時雨だった。)
松の石垣の下に艇を着けて上陸。

松の下には「辛崎の枩は花より朧にて」の芭蕉句碑がある。
文字は読みづらくなっているが、松の字は「枩」となっていた。

唐崎神社門前の団子屋(御手洗団子発祥の地と書いてある)で、3串焼いてもらう。
私にはやはり花より団子であった。



近江八景は昔の選定なので、全てが琵琶湖大橋より南、すなわち南湖にある。
昭和25年に琵琶湖が国定公園に指定されたのを機に、湖岸全体に広がる琵琶湖八景が別途、選定された。
なお最近では、琵琶湖岸を一周するウォーキングも盛んに行われていて、八景ではとても足りないと思う。
( たとえば、チョットずつ琵琶湖一周Walking )                                 (05/03)



海津大崎のお花見

4月半ばの土曜日に湖西線に乗って今津へ向かった。
快晴の空の下に鏡のような湖面が広がっている。
湖岸でファルト(折り畳み式カヌー)を組み立てて北上。
しかし30分も漕ぐと突然、向かい風が吹き出した。今津の青松を横目に懸命に漕ぐ。休むと吹き戻されるのだ。
マキノビーチで小休止し排水。
毎年、花見の時季にはカヌーで賑わうビーチが今日は空いている。
おそらく多くの人が例年通り一週間前の土日に計画したのだろう。

海津大崎の桜を西端から順番に見ていく。
日本海からの強風で大掃除された青空に桜が輝いていた。
それに今年は新緑が少し濃く、緑と桜のコントラストもきれいだった。

翌日、姉川の河口を経て、ゴールの長浜に近づくと、豊公園は散り始めたのだろうか、
花筏がカヌーを出迎えてくれた。                                      (05/07)






     −−−−− 銀輪の部 −−−−−


石部の句碑

合併して生まれたばかりの滋賀県湖南市に芭蕉の句碑を自転車で訪ねた。
芭蕉没後290年と300年記念の比較的新しい句碑があったが、どちらにも翁の肖像画が彫られていた。

正念寺の『いかめしき音や霰のひのき笠』の方は中村不折の画である。
余談ながら不折は漱石の「吾輩は猫である」の挿絵や鴎外の墓石「森林太郎墓」の揮毫で知られている。

十禅寺公園の『松風の落葉か水の音涼し』の画は、石部の造り酒屋で帳面付けをしていた池大雅の俳画風略筆を、真明寺のご住職が模写したもの(ご本人から聞いた話)。両方とも原図は正念寺の夢望庵文庫に所蔵されている。

旧東海道石部宿西端の真明寺には、破調の『都つじいけてその蔭に干鱈さく女』という句碑があり、前住職が半世紀前に建てられた。
この地では、今もお寺が地元文化を担っているようだった。                  (04/12)




     −−−−− 徒の部 −−−−−


瀬田夕照と矢橋帰帆 --- 琵琶湖一周 @

尺取虫方式で琵琶湖一周ウォーキングを始めた。
月に一度、十数キロずつなので、来年の夏まで掛かる。
初回は、瀬田の唐橋を渡って南湖を東岸沿いに北上し、近江八景の瀬田(夕照)と矢橋(帰帆)の二地点を通った。

夕照は西方向の景色かと思ったが、広重の「瀬田夕照セタセキショウ」には東の三上山(近江富士)が描かれている。
確かに構図としてもいい。
琵琶湖の上にスケールの大きな夕焼空が広がる瀬田夕照の様を見てみたいものだ。

矢橋は湖東でとれた近江米の出荷地として栄えた湊で、広重の「矢橋帰帆ヤバセキハン」では比叡山を背に白い帆を連ねて、船が湊へと帰ってくる。
江戸期には、東海道を京へ上る時、瀬田の唐橋を経由するよりも、この矢橋から舟で大津・石場へ向かう渡し舟がよく利用された。
急がば回れ」の語源「もののふの矢橋の渡りはやけれど急がば廻れ勢多の長橋」の歌にあるように、比叡颪などの時には危険を伴うルートではあったが。

矢橋は今は矢橋帰帆島という下水処理施設用に造成された人工島の影になっていた。

この人工島の湖岸緑地に芭蕉の句碑、『 かくれけり師走の湖のかいつぶり 』が建っているはずだが、気がつかなかった。    
琵琶湖のことを「鳰ニオの海」と呼ぶくらいだから、確かに、カイツブリはよく見るし、あれはホントかわいい。
                                                                 (05/04)

烏丸半島の枯れ蓮 --- 琵琶湖一周 A

琵琶湖一周ウォーキングの2回目。草津市の烏丸半島から湖岸の道を北上した。
烏丸半島の東側は花蓮の群生で有名だが、昨夏咲き誇った蓮の茎は鋭角に折れ曲がり、
真冬の幾何学模様を呈していた。(草津市立水生植物公園みずの森

昔は、烏丸半島の北に広がる赤野井湾には近江太郎と呼ばれた暴れ川・野洲川の伏流水が湧き出して、
湖水は底が見えるほど透き通り、琵琶湖屈指の漁場だったとのこと。
ところが、野洲川の治水・利水が進み、半島の付け根にあった水路も埋め立てられ、
水田で使用される大量の農薬、肥料の流れ込みも加わって、
取り残された凹部の赤野井湾は今では最も富栄養化の進行した水域になってしまった。
そして、富栄養化を好む蓮が自生し、蓮の群生で水が滞り水質は一層悪化していることだろう。

午後、旧野洲川・南流を渡ると、水は溜まっていた。
少し先の付け替えられた野洲川・放水路の上流には三上山が昔と変わらず近江富士の綺麗な姿を見せていた。
                                                            (05/05)



長命寺山 --- 琵琶湖一周 B

琵琶湖一周の3回目。曇り空の中、長命寺を目指して湖岸を東に歩く。
近江八幡市に入ると松林が続き、草叢には土筆が群生していた。

日野川を越えると、長命寺山が墨絵のように現れて風景の中心になった。
西の湖から流れ出る長命寺川を渡り、西国三十一番の門前に着く。
長命寺は八百八段の石段を上りきった長命寺山の八合目に建っていた。

境内の西外れに古い石鳥居があり「太郎坊大権現」の額があがっていた。
日本には八大天狗がいたそうで、その筆頭が愛宕山の太郎坊、次が比良山の次郎坊らしい。
鳥居をくぐって進むと、拝殿の横に巨石「飛来石」があり、京都・愛宕山の天狗が投げたとのこと。

長命寺の境内には風化から取り残された巨石(コアストーン)がいくつもあり、巨石信仰の伝説が記されていた。
神代の昔から信仰の山だったようだ。
                                                          (05/06)



伊崎の竿飛び --- 琵琶湖一周 C

琵琶湖一周の4回目。長命寺から17kmを歩く。
黄砂の所為で遠景はぼやけていたが、新緑の湖岸を八重桜や山藤を見ながら北上。

比叡山の支院の道場として九世紀に開かれた伊崎寺に着くと、門前に筍が出ていた。
粗末な板に「伊崎不動尊棹飛堂」と書かれている。
崖に突き出た棹の上から7m下の琵琶湖へ飛び込む「伊崎の竿飛び」は、
昔、修行僧が空鉢を投げて湖上を行き交う人々に喜捨を乞い、
その後自ら湖に飛び込んで鉢を拾い上げた故事に因むそうで、
地元の青年達の通過儀礼だったらしい。


この辺りには直径四キロの琵琶湖最大の内湖、大中の湖ダイナカノコが広がっていたが、
戦後の食糧増産政策によって干拓されたとのこと。
道理で見渡す限り一面の麦畑であった。

この干拓によって国史跡・大中の湖南遺跡が湖底から発見され、
弥生時代中期の農耕集落遺跡として特に有名らしい。
そして干拓から取り残された西の湖は琵琶湖最大の内湖となって、
日本でも屈指のきれいなヨシ原が100haも広がっている。

ここらには大きな歴史が流れていて全てが広大だった。琵琶湖の大きさを感じた。
麦秋を流れる湖東の大河愛知川を越えると本日のゴール。
河川敷には人工物が少なく自然のままに近い公園が広がっていた。             (05/08)



山芋、自然薯、長芋 --- 琵琶湖一周 D

琵琶湖一周の5回目。夏至の紫外線の中、愛知川河口から彦根港までひたすら歩いた。
スタートまもなく、ヨシ原の内側の畑で長芋の蔓が支柱に力強く巻き付いていた。
砂質土で芋が真っ直ぐ下に伸び、掘り易く、長芋に適した土壌とのこと。
今回は芋の話。

自然(じねん)薯(じょ)は太古より日本各地の山野に自生し、縄文時代から食べられてきたので、
米よりも古い主食であった。
自然薯の「いもがゆ」は平安貴族たちにも珍重されたという。
自然薯は現在では栽培もされているが、手間がかかるため流通量は少ない。

一方、平安時代に中国から伝わった長芋は畑で栽培されてきた野菜で、各地で作られ、身近な食材である。
長芋は日本原産の自然薯より粘り気は大分少ない。

「山芋」は、もともと里芋に対して山で採れる芋の呼称で、自然薯と長芋はいずれも、ヤマノイモ科ヤマノイモ属。
ヤマノイモには澱粉分解酵素ジアスターゼが含まれているので消化がよく、芋と呼ばれるものの中で唯一、生で食べられる。
ちなみに、サツマイモはヒルガオ科で、ジャガイモはナス科。

なお、山芋の中でも、昔から奈良で多く見られ、今でも関西が主産地の大和芋、捏(つくね)芋と呼ばれる芋は
粘り気が最も強く、薯蕷(じょうよ)饅頭など和菓子の原料としても利用されてきた。
粳米の粉に大和芋を摺り下ろし砂糖を加えた生地で餡を包んだ和菓子を上用饅頭といい、
位が高い者しか口にできなかったので、「上用」と呼ばれるようになったと聞いたが、私はどうも、
「薯蕷」が「上用」に変化したのではないかと思っている。 (薯蕷は山芋の漢名)           (05/09)



七夕伝説 --- 琵琶湖一周 E
琵琶湖畔一周ウォーキングの六回目は彦根城から長浜城までの15km。
途中、米原町の筑摩神社に寄り道。ここの鍋冠(なべかんむり)祭は日本三大奇祭の一つ。
今では八歳の女の子が鍋をかぶって行列するが、昔は氏子の女が「枕を交わした男」の数の鍋をかぶって歩き、
数をごまかすと神様のバチが当たったそうな。

米原町と近江町の境には天野川が流れていて、たまたま文月だったこともあり、
川を挟んだ二つの神社に残っている七夕石と彦星塚の七夕伝説が興味深かった。

しかし、私の住む交野ヶ原(大阪府枚方市、交野市)にも同名のきれいな天野川があり、      
機物(はたもの)神社の祭神棚機比売(たなばたつひめ)と対岸の廃寺跡に残る牽牛石とが向かい合い、
川には逢合橋まで架かっている。(お国自慢)

中国に織女と牽牛が年に一度七夕(しちせき)の日に会えるという伝説があり、
唐の時代には機織りや詩歌などの技芸の上達を星に祈る宮廷行事乞巧奠(きこうでん)が生まれ、
日本にも伝わった。

なお、七夕(しちせき)を日本では“たなばた”と読むのは、棚機(たなばた)から来ているとのこと。
『狩り暮らし棚機津女(たなばたつめ)に宿借らむ天の河原に我は来にけり』は在原業平が交野ヶ原に
狩に訪れた時の歌で、既に七夕伝説がこの地に定着していたと言えよう。         (05/10) 



葭、蘆、葦

アシの話。
突然であるが、廣漢和辞典によると、アシに三名あり、初生に葭(カ)、長大に蘆(ロ)、成熟に葦(イ)という。
すなわち、中国ではアシの若いのを葭(カ)、長く大きくなったのを蘆(ロ)、穂の出たのを葦(イ)と言ったらしい。

日本国の美称が「豊葦原(とよあしはら)」であったように、和名はアシだったが、
「悪し」に通じるというので、ヨシ(善し)と呼ばれるようになり、今ではヨシが標準和名らしい。
なんと、アシには漢名が三つ、和名が二つあるのだ。

なお、琵琶湖ローカルな話を付け加えると、
近江八幡の葭業者はヨシの近くに生えているヨシによく似た荻などをアシと呼ぶ。
ヨシは枯れた茎の中が空洞のため軽くて優れた素材であるが、荻は海綿状のものが詰まっていて
役に立たないので悪しと言うとか。

手元の歳時記では、一、「葭簀、葭戸」など製品になったものに葭を用い、ヨシと発音。
二、「蘆の角、蘆の若葉、青蘆、蘆刈、蘆の花」など植物には蘆(あるいは葦)を使い、アシと発音することが多い。
なお歳時記には、葭業者に悪しと言われた荻もちゃんと蘆の次に載っていた。

パスカルの「人間は考える葦である」では通常、葦と書きアシと発音しているが、
確かにこの方が哲学的かも知れない。                            (05/11)



曼珠沙華 --- 琵琶湖一周 F

琵琶湖岸ウォークの7回目は長浜スタート。
JR長浜駅は北陸線であるが、東海道線の新快速がこの駅まで来ていて、
さらに湖東では珍しく線路が湖岸近くを走っているので琵琶湖へのアクセスに便利な駅だ。

湖岸沿いに北上すると、露草、萩、木槿、芙蓉、コスモスなどに次々と出会ったが、
やはり曼珠沙華が一番印象的だ。あのきれいな華に種ができないと聞いて、覗き込む。
七本の蘂が伸びていて、ちょっと長い目の一本には葯がない。
どうやら雌蘂のようだが、確かに実ができるにはあまりにも弱々しい。

調べてみると、通常の植物は二倍体で、基本の染色体数の二倍の染色体を持つ。
受精時には、雌蘂(子房)と雄蘂(花粉)の染色体はそれぞれ半分の数に減数分裂し、
その染色体が合わさって一個の種子になる。
ところが曼珠沙華は三倍体のため、正常な減数分裂ができず結実しないらしい。
ちなみに、種なし葡萄は薬品処理で三倍体にするとのこと。
なお、日本の曼珠沙華は球根が分かれて増えていったので、親と同じ性質を持ち、
毎年秋彼岸に一斉に咲くそうな。                        (05/12)



湖北町、高月町、木之本町、西浅井町 --- 琵琶湖一周 G

琵琶湖岸一周の8回目。
まだ流行の合併が進んでいない、湖北町、高月(たかつき)町、木之本町、西浅井(にしあざい)町を湖岸沿いに歩いた。

湖北町では、野鳥センター前に鴨が一面に浮いて休んでいた。
シベリア北部で生まれたコハクチョウやカムチャッカ半島から渡ってきたオオヒシクイの姿は残念ながら確認できなかった。

高月町に入って、賤ヶ岳に続いている尾根道に取りつく。
この琵琶湖を眼下に見下ろす丘陵上には前方後円墳など百数十基の古墳が分布していて、
調査中とのこと。
鬱蒼とした杉林を落ちるように抜けて湖岸に出る。
昼食休憩の後、崖道を進む。芒の向こうに広がる奥琵琶湖の佇まいは絶景であった。

山道の途中で木之本町に変わる。
琵琶湖に面して鳥居の立つ神社に出た後、湖岸沿いを歩くが絶壁に阻まれる。
やむを得ず手前の急斜面を両手両足でよじ登った。
後は湖岸の道を進み、山梨子(やまなし)の集落を過ぎて、飯浦(はんのうら)を通過。
振り返ると、賤ヶ岳の頂がわずかに見えた。

西浅井町に入り、塩津浜が近づく頃、下校途中の子供達に出会う。
元気な挨拶に応えながら静かな集落の道を急ぎ、旧街道に出た。
寛政期の土蔵の前に古い石碑があり、「塩津海道」と彫られていた。
                                   (06/01)



湖北の山の紅葉 --- 琵琶湖一周 H

琵琶湖岸一周の9回目。最北の塩津浜から菅浦まで半島の尾根道を歩く。
この辺りの山は湖にまで落ち込んでいて、湖岸には道路がない。
菅浦の前は湖、後は山で、陸の孤島とか隠れ里と呼ばれ、昭和四十年代に陸路ができるまでは舟運だけの集落だった。
山道を登っていくと紅葉の素晴らしいこと。

我々以外には人気のない山中で右に左に少しずつ色合いの違う紅葉を、青空そして湖面を背に半日間堪能し尽くした。

日暮れ前に山道を西に降りて須賀神社の参道の途中に出る。
この上の拝殿裏には淳仁天皇の舟型御陵があり、菅浦の氏子たちは今でも水屋から素足で参拝している。
菅浦はそういう里なのだ。

話は変わるが、山道から見下ろす奥琵琶湖のエリは絵になる。
エリは障害にぶつかった魚はその障害に沿って進むという習性を利用した琵琶湖独特の漁法だが、湖岸から沖に向けて張られた傘のような左右対称の定置網は美しい。
最近は鮎などと一緒にブラックバスなどもこのエリに多く入るらしいが。
「エリ」(魚偏に入)は国字でもあり、日本独特かと思っていたが、
中国南部やフィリピンの海岸にもエリによく似た傘型定置漁貝があって、
大陸から稲作農耕民の渡来と共に伝播してきたとの説も有力らしい。 
                                               (06/02)





群青の海 --- 琵琶湖一周 I

琵琶湖岸一周の10回目は菅浦から大浦まで。
奥琵琶湖の中でも最も静かで落ち着く所だ。
芝木好子の小説『群青の湖』に、
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」とある。
それを読んだ狐狸庵先生・遠藤周作が、その地をやっと探し出して、毎年秘かに訪れていたらしい。

そして、朝日新聞の「万華鏡」に「忘れがたい風景」と題して、
「2月の午後、入り江のようなその地点の周りの山々は白雪に覆われ、冬の弱い陽をあびた湖面は静寂で寂寞としていた。まるでスウェーデンかノルウェーのフィヨルドに来ているような思いだった」と書いた。

以上は、十数年前の正月にカヌーで菅浦に来た時に、たまたま聞いた話である。以来、私も冬場に何度もカヌーで漕いできて、名物の鴨すきをご馳走になっている。

今回の歩きでは時雨や霰に見舞われながら、葛籠尾崎の上の展望所から竹生島を眺めたり、
自治の惣村・菅浦の四足門(右写真;この門は四脚であり、また集落の四方の入り口にあったことから四足門と呼ばれる。)を訪ねて菅浦を満喫し、大浦までの湖岸道では奥琵琶湖の冬の寒さを体の芯まで体感した。
                                          (06/03)


海津大崎 --- 琵琶湖一周 J

琵琶湖岸一周の11回目は雪の積もっている大浦園地からスタート。

大浦川を渡る時、岸につながれた小舟全体が網で覆われていた。
よく見ると乗客は2羽の鴨で、羽を打ち振り激しく飛び回っていた。
川に浮く鴨小屋だったのだ。今は鴨スキの一番うまい時期だ。

橋を渡ると、西浅井町のナンバープレートを付けた超小型自家用除雪ショベルカーが止まっていた。湖北では生活必需品なのだ。

一路湖岸沿いに南下。
海津大崎までに煉瓦積み坑門を持つ短い隧道が五ツもあった。
この道は塩津街道に通じ、桜の名所でもある。

大崎寺へ上る階段道からは若狭街道の北側に連なる雪山が綺麗に見え、マキノスキー場も箱舘山スキー場も真っ白だった。
大崎寺は観音信仰の篤い湖北の地で大崎観音と親しまれ、近江の西国第九番札所である。

大崎寺を下りてからは湖岸沿いの砂利や岩の道を歩く。


途中に義経隠れ石があった。
主従が大津から北陸に都落する時に追手の目から隠れた岩で、謡曲「安宅」にも出てくる。

海津の集落を抜けて、再び水際を中庄まで南下。
元禄年間に高島郡甲府領の代官が風波のたび湖岸の宅地に被害が甚だしいのを憐れんで築いたという湖岸浪除石垣の下で水仙が寒風の中、健気に咲いていた。                       (06/04)



丁子屋 --- 琵琶湖一周 K

琵琶湖岸一周の12回目。湖西線中庄駅で下車。田圃には雪解の水が溜まり、鳧(けり)がけたたましく迎えてくれた。
湖岸に出て、日本の白砂青松百選の「湖西の松林」の中を南下。


境川河口からの湿地の側を抜けると、一段と立派な今津浜の黒松が続き、やがて今津の集落に入る。鰻・川魚料理の西友(にしとも)で鰻定食をご馳走になって、再び旧街道に戻る。湖岸側に建つ古い建物が有名な丁子屋(ちょうじや)。三百年近くも続く料理旅館で、鴨スキが有名。右城暮石(うしろぼせき)がここの主を「一芸といふべし鴨の骨叩く」と詠んだとのこと。俳人好みの店らしい。


琵琶湖汽船の乗船場にある琵琶湖周航歌の碑を見て南下。湖岸に二ツ石大明神の鳥居が立っている。
渇水時には100m沖の岩が見え、それが条里制の基点だったとのこと。
少し進むと木津(こうづ)港の常夜灯が復元されていた。この辺りは奈良時代から開けていて、古津とも表記されたので、ヒョッとして古津に対して今津の地名が後からできたのだろうか?

新旭の水鳥観察センターでは湖にも空にも水鳥がいっぱいだった。琵琶湖から流れ出る唯一の川・瀬田川の浚渫を自普請で成し遂げ、村々を水害から救った「天保の御救大浚え」の藤本太郎兵衛の像を見た後、風車村公園で鵞鳥と遊び、安曇川駅へ向かった。                         (06/05)


白髭神社 --- 琵琶湖一周 L

琵琶湖岸一周ウォーキングの13回目。

湖西線安曇川(あどがわ)駅で下車、乗合バスで湖西の大河・安曇川のデルタを東進し湖岸に出る。
因みに安曇(あづみ)は渡来系海人族(あまぞく)の名前で、その本拠地は福岡市の志賀島。「安曇」「志賀」の地名は全国的に広がっていて、何故か海のない滋賀県と長野県に特に多いらしい。

歩き始めると蕗の薹があちこちに出ていた。
犬ふぐりは満開、土筆も元気よく伸びていた。
旧制四高の漕艇選手らが琵琶湖縦断の途中で比良八荒に遭って沈没、死亡した弔いにと植えられた四高桜の蕾はまだまだ堅かった。

城下町・高島の町家を見て歩き、大溝(おおみぞ)城の本丸跡を通って、西近江路へ進む。
やがて湖中に白髭神社の朱塗りの大鳥居が見えて来た。全国に約二百ある白髭神社の総本社だ。
「白髭」は新羅の転訛であり、白髭神社は新羅系渡来人の神社だと言われている。
関東には高句麗の王族・若光(じゃっこう)を祀る高麗(こま)神社が多いらしいが、ともかく朝鮮半島からの渡来人の人口比率は相当に高かったようだ。


なお、白髭神社には与謝野寛と晶子が境内で詠んだ合作の歌碑があり、紫式部の歌碑もある。

境内の端っこには芭蕉の円柱形の句碑
「四方より花吹き入れて鳰の湖」があって、安政四丁巳(ていし)孟秋と彫られていた。

                                          (06/06)



比良山の伏流水 --- 琵琶湖一周 M

琵琶湖岸ウォークの14回目は北小松から小野まで下った。
比良山の麓の田圃には水が張られて、田植が始まっている。
機械での代掻きの後、老夫婦が仲良く鍬を持って植代を掻いていた向こうには、鯉幟が翻っていた。

近江舞子の雄松ヶ崎の内湖ではバス釣りが静かに楽しまれていて、
湖面には比良が映り、湖畔には見事な白藤が咲き乱れていた。

比良駅近くの小さな広場の端っこに石組みの洗い場があり、大きな蛇口にハンドルが付いていた。
比良山からの伏流水が自噴する天然の水道だと思われる。
先ほど通った比良川には水はなかったが、地下の比良花崗岩には豊富な水が流れているに違いない。

近江舞子からカヌーを漕ぎ出す度に、白砂と水のきれいさに感心してきたが、
風化花崗岩が豊富な白砂を提供し、比良からの伏流水が直接、流れ込んでいるのだろうと納得した。
近江舞子の景勝は比良山系が造り出したと言っていいのだろう。


この日は半分野生化した元気な花を多く見た。
中でも、浜辺の砂利や国道の舗装の端っこに、しぶとく生えていた菫の生命力には驚いた。
花の形が大工さんの直線を引くための道具「墨入れ」に似ているから菫と名付けられた話が、
可憐な花にも拘わらず頷けた。                       (06/07)



「堅田十六夜の弁」 --- 琵琶湖一周 N

琵琶湖畔一周ウォークの15回目は湖西線小野駅から唐崎駅までの16km。
小野には妹子、篁、道風を祀る神社があるが、今回はパス。
真野川沿いに歩いて湖岸に出る。途中、緑陰の川縁に箱根空木が咲いていた。白い花の中にいくつかピンクも混じっている。
箱根空木はスイカズラ科で、卯の花の空木はユキノシタ科だそうだ。

琵琶湖大橋の根元をトンネルで潜って南下。
堅田湖族の立派な村社・伊豆神田神社に寄り、出島(でけじま)灯台を見て、虫籠窓の古い町並みを歩く。

そして湖岸の公園で芭蕉「堅田十六夜の弁」記念碑を偶々見つけた。
これは昨秋、近辺を探したものの、分からなかった碑だ。


浮御堂を過ぎ、衣川の湖岸緑地で昼食休憩。
弁当を食った四阿の周りに白い綿毛が一面に散っていた。この緑地に植わっているポプラの綿毛(柳絮)だった。

ポプラの別名は西洋箱柳で、立派なヤナギ科。日本では「柳絮」は春の季語であるが、お隣の北京でもポプラの柳絮(楊花柳絮(やんほありゅうしゅう))は「黄砂」とともに春の風物詩だと聞いた。
でもポプラの大きな綿毛が強風で飛んで口に入ったりすると、風情はないようだ。黄砂も中国では嵐の如く砂が吹き荒れて砂塵嵐と呼ぶのだそうだ。
それでは風物詩どころではないナァ。

                                       (06/08)



琵琶湖疏水 --- 琵琶湖一周 O

平成17年1月に始めた琵琶湖岸一周ウォーキング。総延長230kmの最終第16回は湖西線唐崎駅を出発して南下。
自衛隊大津駐屯地を過ぎ、琵琶湖競艇場を過ぎると、琵琶湖疏水の取水点が見えてきた。
まずは全線暗渠の第二疏水のトンネル坑口、続いて、第一疏水の揚水機場。どちらも明治の面影が残っている。

「疏水」は灌漑、給水、舟運、または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること。また、そのもの。と、広辞苑にある。
どうやら、疏水という言葉は琵琶湖疏水のために作られたようだ。外国語の訳語でもない。この言葉には明治の日本人、京都人の心意気が感じられる。

さらに脱線すると、疏水は京都府知事北垣国道(幕末の志士)と工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎(幕臣の長男)の出会いによって実現したもので、西欧技術の導入期に日本人だけの手によって設計施工された最初の大土木事業であった。

疏水を過ぎると浜大津。なぎさ公園の汀沿いを快適に進む。
膳所城跡で芭蕉句碑「湖や暑さを惜しむ雲の峰」を見て、さらに南下。

やがて芝生の中に「粟津の晴嵐」碑があり、琵琶湖は瀬田川に変わっていた。

                                       (06/09)