Mother Lake 琵琶湖・南湖ツアー


2003年1月12日に、クラブ・ザ・ファルトの仲間と南湖を周遊した。フォールディング・バイクの4人連れで春光を浴びながら早春の琵琶湖を楽しんだ。
ルート : JR大津駅を出発→膳所城跡→瀬田唐橋渡る→烏丸半島→野洲川南流手前→琵琶湖大橋渡る→堅田の町ポタリング→JR堅田駅でバイク畳む。
2002年5月の琵琶湖一周では琵琶湖大橋より南は省略していたが、今回のツアーで、ほぼカバーできたことになる。


今回は、京都の町屋から山科に居を移し、BD-1で琵琶湖周辺を走り回っておられる吉田究先生(クラブ・ザ・ファルトの設立者・リーダー)のご案内である。


JR大津駅でフォールディング・バイクをカチャン、カチャン、カチャンと組み立てて、9時半頃出発。
駅前からまずは北東に走る。何本目かの湖岸に平行の道を横切る時に、「これが旧東海道。大津祭り(10月の第2日曜が本祭)の曳山がこの道を巡行する」と、吉田教授から最初のガイドを聞く。
今日はレクチャ付きの文化的なバイク・ツアーである。

湖岸沿いの道に出て、右折し南東へ向かう。

近江大橋を過ぎると、大津市丸の内町である。膳所ゼゼ城のあったところだ。
左写真は、膳所城跡公園を振り返ったもの。右後方に近江大橋が写っている。

関ヶ原の戦の後、家康が大津城を廃して、琵琶湖に突き出した膳所城を新築させたとのこと。
その後、明治の廃藩置県・版籍奉還まで、ここに立派なお城があったのだ。



湖岸沿いを快適に南下し、瀬田の唐橋を渡る。ここからは逆に、湖岸沿いに琵琶湖大橋まで北上する。
1時間近く走って、烏丸カラスマ半島の東方にある地元の物産店の食堂で定食を食う。地元産の長芋、レンコン、鶏がうまかった。
店で試食した蓮の実(種)の納豆もうまかった。明日が成人の日だからか、駐輪所の横のテントで善哉を作っていて、100円でおいしいデザートにありついた。

草津市の名木の大きなクロマツ(推定樹齢200年)を目印に走って、石仏の観音さんにお参りした。

  

草津市域の最北、琵琶湖に突き出した烏丸半島周辺に は6.3haに及ぶ蓮の群生地があ り、
花蓮としては日本でも指折りのスケールだとのこと。鮮やかな緑の葉が湖面を覆いつくし、7月〜8月には、淡紅色の花が次々と開いて周囲には甘い香りが立ちこめるとある。
しかし、冬場の今は、哀れにも枯れた蓮の残骸が広がっていた。

右写真は半島を過ぎてから振り返って写した。
遠景に烏丸半島の水生植物園(みずの森)と県立琵琶湖博物館(1996年にオープンし、「湖と人間」がテーマ)が見え、風力発電の巨大な風車も写っている。
そして、近景には枯れた葭原があり、分かりにくいが、その向こうに蓮の群生地が広がる。









左の写真は、湖岸の葭ヨシが刈り取られた後、水際に点々と何故か刈り残された葭が冬景色の中に立っていた。







下の写真は、琵琶湖大橋ゴルフ場の手前にある広い野っぱらの公園で、180度の琵琶湖展望が楽しめた。
左写真は北方向で、ぼんやりしているが中央右手に琵琶湖大橋が写っている。右は南方向で逆光であるが、烏丸半島が延びていて、中央左に風車が立っているのが分かる。
(今日、自転車で一緒に走っている4人組は、元々はカヌー仲間だ。この野っぱらの石積み傾斜護岸にはカヌーも着けられるし、見晴らしもいい。今年のお月見カヌーツアーはココにしようと衆議一決した。)

      


野洲川の河口はかつて派川が八つの洲を造っていたので、昔は「八洲川」と称され、転じて野洲川となったらしい。
現在も大きく、北流と南流(方位から言うと、東流と西流の方が合っているが、)の2本の枝分かれがある。
北流は琵琶湖マイアミ浜の西に注ぎ、南流は琵琶湖大橋の北東1kmで琵琶湖に注いでいる。
(南流は正確には500mほど東の新川に遷っている。)

その南流の手前、琵琶湖大橋から1kmのトコロまで走った。
リゾートマンションの先で、菜の花が雪の比良を背景に咲き誇っていた。

右の黒いバイクは菜の花畑の上、湖岸堤に止めたもので、琵琶湖のエリと薄化粧の比良の山並みをバックに映えているではないか?




湖岸堤を南に戻り、琵琶湖大橋を渡った。

(新旧平行して2本架けられた)北側の橋には、最高部に展望スペースが設けられている。
しばし休憩し、琵琶湖の全景?を味わった。
左写真はその時の1枚であり、真野川河口部を近景に比良山がのびのびと広がっている。





堅田側に渡り、吉田教授に最初に案内されたのが、次に示す野神神社の「勾当内侍の墓」であった。


      

小さな神社の社の裏側に石柱で囲まれた小さなお墓があった。その中には、自然石が並んでいて上に一つ重ねられていた。

     


その次には、浮御堂を境内の外から拝観した。

    

『堅田』は琵琶湖の一番狭いトコロにあり、湖上交通の要所であったので、古くから水運・漁業が盛んであった。
室町時代には商業も発達し、町には堀をめぐらせて自治が敷かれていたが、信長に潰されたらしい。
本堅田、堅田、今堅田という町名からも歴史が感じられる。

最後に案内されたのが、祥瑞寺。
臨済宗大徳寺派の学僧・華叟宗曇カソウソウドンが室町時代に開いた禅寺で、宗曇の弟子の一休宗純が青年時代に修行した寺としても有名。
芭蕉も元禄3(1690)年にココを訪れているとのこと。


    


   

冬場でも苔のきれいな落ち着いた、さすが風格のある禅寺であった。