平安京を縦断


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クラブ・ザ・ファルトの吉田代表から下記の案内メールあり。
自転車班・京都めぐりの件
  集合:2013年3月3日(日) JR山崎駅前09:00
  行程:山崎・長岡京跡・鳥羽離宮跡付近・羅城門跡・千本通り(朱雀大路)・大極殿跡・アスニー京都・船岡山・船岡温泉入浴
  昼食:途中のレストランででも。おしまいに船岡温泉(銭湯)に入ります。ご用意を。
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【参加者】 奥田、奥野、田中、西野、真賀里、松田、吉田(案内人)  計7名
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【走行軌跡】 下mapの如く、平安京の都を南から北へ縦断した。
ただし、JR山崎駅から小枝橋で鴨川を渡るまでの軌跡は、不始末(バッテリー切れ)のためにメモリーに保存できていず、残念ながら抜けている。
すなわち、スタートから鳥羽天皇陵、西行寺を経て、ランチ休憩までの間は欠落している。
なお、赤線は千本通り(朱雀大路)を北上している。羅城門の後、西寺に寄った。折角だから島原にも寄った。JR二条駅で1本東の美福通(二条城の西)に入り北上。内裏を東西に横切る一方通行の路を逆行して、アスニー京都着。
青線はアスニー京都から大極殿に向かい、北野天満宮の梅を見て、船岡山の麓に到着。ゴールの船岡温泉で汗を流して、解散。
(茶色のラインは船岡温泉から京阪電車・出町柳駅までの帰路の軌跡。)

  



                

  左写真、山崎駅をスタート by okuno

      右写真、ルート上にあった西国街道の道標。

   

  上写真、西国街道に面した中野家住宅(下のmapの”A”点)で少し止まって、街道を上る。

  

 まずは、勝竜寺城公園(上のmapで、JR長岡京駅の南500m)を訪ね、ゆっくりと見学。

【勝竜寺城】
 南北朝時代から江戸時代初期にかけての平城。1568年(永禄11)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は勝竜寺城を攻め、織田氏の属城となる。
 1571年(元亀2)、信長から山城国西岡一帯を与えられた細川藤孝はココに入城し、丹後に移るまで居城す。ガラシャ夫人が忠興に輿入れした城。
 1582年(天正10)の本能寺の変後には、明智光秀の属城となった。
 同年の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は勝竜寺城に帰城したが、秀吉勢の追撃を受け、同城を脱出し本城の坂本城に向かう途中で討死。
 その後、勝竜寺城は淀古城の修築にその石材が使用されるなどしたこともあって荒廃した。
 公園北東の神足神社境内に空堀や土塁が残る。

          


       右写真、勝竜寺城が復元された勝竜寺城公園に、その面影を訪ねた。(北門から入城)

    

  左写真、なかなかの庭園だ。

    中写真、本丸と井戸跡。
     本丸内からは4ヶ所で井戸が発掘され、その内、この井戸も含め3ヶ所が細川藤孝による改修時のものであったとのこと。

      右写真、勝竜寺城跡の隅っこには、ちびた五輪塔や石仏が一箇所に並べられていた。この城で無くなった方が多かったのだろう。


     

  上写真、「右 ・山さき 左・よど」「右・京・・」の道標。

    中写真、東へ向かう神足商店街は結構長い。我々は、「右・京・・」に従って北進。
     北進する途中で、「JR神足」の看板を横目に見る。
     (そういえば、昔、確か、「神足」という駅があった。1995年に駅名が「長岡京」に変わったとのこと。)

      右写真、長岡市の大極殿公園。 遊具の端に「史跡・長岡宮跡」の碑が建っている。


【長岡京メモ】   アチコチからの抜き書き

 長岡京は、桓武天皇によって造営された都で、784年(延暦3年)11月11日に奈良の平城京から遷都された。都の範囲は、現在の長岡京市、向日市、大山崎町および京都市の三市一町にまたがっており、東西4.3キロメートル、南北5.2キロメートルにおよぶ。

 長岡京の政治の中心である大極殿、朝堂院などは向日市域に、「市」などの経済の中心は長岡京市域に、また、都の玄関口にあたる港(津)は大山崎町と京都市伏見区淀付近に置かれていた。
 長岡京跡の発掘調査では、碁盤目に整備された道路や四方を道路によって区画された宅地が各所で確認されており、都として充分に整えられていたことがわかる。また、出土する大量の遺物の中には、遠隔地から運ばれてきた土器や荷札木簡(にふだもっかん)も見られ、各地からやってきた多くの人々で大いに賑わう都であったことも想像できる。
 都として機能していた長岡京であるが、2度にわたる大洪水や、早良親王サワラシンノウの怨霊に悩まされた桓武天皇は、794年(延暦13年)10月22日に都を平安京へ遷した。わずか10年間の都である長岡京は、歴史のなかに埋もれ、いつしかこの地に都があったことも忘れ去られてしまった。       from  長岡京市埋蔵文化財センター

上記に追加すると、
宮域は丘陵上に、右京は段丘上に、左京は桂川氾濫上に立地する。また、
発掘の結果、
 ・未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、かなり完成した姿であった。
 ・平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であった。
また、その期間の短さから形だけの遷都であり、本来の目的は大規模な遷都への準備であり、方違えではなかったのかとの説もある。

長岡京は平城京から北へ40kmの長岡の地に遷都・造営され、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くで、桂川宇治川などが合流し、大河・淀川となって大阪湾に繋がっていた。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから桂川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。舟運で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。

続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近く支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、

等の説がある。
また、784年
(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武帝は天武系とは異なる天智系の天皇であった。
しかし、同年9月に造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたことが明らかにとなり、親王は配流先で恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や皇后や皇太子の発病など様々な変事が起こったことからその原因を占ったところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その2ヵ月後の大雨によって都の中を流れる桂川が氾濫し大きな被害を蒙ったことから、和気清麻呂の建議もあって遷都僅か10年後の794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。                      from wikipedia




      

  左写真、大極殿公園は結構広い目であった。

    中写真、鳥羽離宮公園のグランドは流石、十分に広い。

      右写真、公園北側に鳥羽離宮の築山(「秋の山」)が残っていて、「鳥羽洛南之名勝也・・・」の碑が立っていた。(明治45年建立)

    鳥羽離宮公園(史跡・鳥羽離宮南殿跡)HPが分かりやすく、詳しい。


    

  左写真、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)の説明板の前で、吉田代表の説明を聞く。

    中写真、城南宮の参道を通過。

      右写真、安楽寿院の多宝塔(近衛天皇陵)。多宝塔が御陵として用いられている唯一の珍しい建物とのこと。

  安楽寿院は鳥羽離宮東殿に鳥羽上皇が営んだ仏堂が起源。
  仏堂建立の2年後の(1139年)、三重塔を上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせた。(後に本御塔と称す)
  その後、1148年頃に、鳥羽法皇(1142年に落飾して法皇)の皇后美福門院のために別の三重塔が建てられた。(こちらを新御塔と称した)。
  美福門院は遺言により高野山に葬られたので、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られることになったらしい。
  なお、現在の多宝塔は、慶長11(1606)に豊臣秀頼により再建された

  
     上図は鳥羽離宮復元案。(石版)
     (財)京都市埋蔵文化財研究所の初代所長・故・杉山信三氏によって作られたモノで、説明板が安楽寿院境内に設置されている。

  【鳥羽】
  鳥羽とは、かつて京都洛外、山城国紀伊郡に属していた鳥羽郷・鳥羽荘などと呼ばれた地域名。
  鳥羽は、鴨川と桂川の合流地点の低湿地にあり、(当時は鴨川が鳥羽の東側を流れていた)、また南は巨椋池に接していた。
  そして、平安遷都以後、朱雀大路を羅城門から真南に延長した鳥羽作道が作られ、鳥羽で淀川水系と接し、鳥羽津が築かれた。
  応徳3年(1086年)、白河上皇は藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業に拡張・改造を加えて離宮・鳥羽殿(城南宮)を造った。
  白河上皇の院政開始の象徴と言える、御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。
  大規模な離宮は、白河上皇の生存中には完成できず、継承した孫の鳥羽上皇の時代に完成した。


    

  左写真、鳥羽天皇陵。

    中写真、左の石には「西行寺」と彫られている。
     佐藤義清(西行)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃、ココに邸宅があったらしい。
     江戸時代には西行寺が建てられ、境内には月見池や剃髪堂もあったそうナ。今は小さな祠と西行寺跡の碑のみ。

      右写真、六地蔵のひとつである浄禅寺(鳥羽地蔵)、俗に恋塚寺。


    

  左写真、袈裟御前の首塚といわれている五輪塔の「恋塚」。
    左手奥の「ガラスケース」の中には、恋塚石碑が入っている。碑文下半分の剥落が著しく、ガラスケースに入れて保存されている。
    なお、ココは上鳥羽であるが、下鳥羽の恋塚寺にも袈裟御前の塚と伝える五輪塔があり,恋塚寺碑が立っているとのこと。

    中写真、あやかりたくて、「恋塚」五輪塔を正面から写す。

      右写真、ようやく、羅城門跡に到着。
           ココからいよいよ都に入る。


平安京復元模型 from 平安京図会

   平安建都1200年記念の素晴らしい模型である。ただただ感服し、敬意を表するのみ。
   本日はこの平安京を南から北へ駆け抜けた。


    

  左写真、羅城門跡の入口左手に五輪塔や石仏が集められていた。

    中写真、「羅城門遺跡」石碑は児童公園の中にある。

      右写真、「史跡・西寺址」の石碑と礎石が写っている。


【羅城門メモ】

『羅城』とは都城の外郭と言う意味で、朱雀大路の南端に建てられた平安京の表玄関の巨大な門。
二層構造の瓦ぶきで、正面約32m、奥行約8m。
平安京の正面玄関、そして凱旋門としてその役割を果たしていた。
816年8月16日夜、大風で倒壊。再建されたが、980年7月9日暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していきその荒廃ぶりから羅城門に関わる様々な説話が生まれ、盗賊のすみかにもなった。          from 平安大事典



    

  左写真、西寺址は小高い。

    中写真、島原をゆっくりと通り抜けた。

      右写真、「大極殿遺跡」碑は高御座タカミクラの如く、一段高かく据えられていた。


【大極殿跡メモ】

千本下立売を中心に東西1.1キロ、南北1.5キロの広大な地域に平安京の大内裏があった。
大内裏は朝堂院・豊楽院と内裏があり周囲に宮殿・官庁が並ぶ。
大極殿は朝堂院の正殿で壮麗を極めた。

宮城大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。
中国の道教では天皇大帝の居所をいう。
「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である。

日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説(福山敏男小澤毅渡辺晃宏ら)[2]藤原宮説(狩野久鬼頭清明ら)[3]に分かれている。
                                   from wikipedia

               右図は平安宮朝堂院模式図


    

  左写真、大極殿碑の前も児童公園である。

    中、右写真、折角だから、北野天満宮に寄って、梅の香をかいだ。


   その後、船岡山の下まで行って、すぐ引き返し、船岡温泉に向かった。