チョットずつ熊野古道 京都から熊野へ

             〜 カヌーと自転車そして徒歩 〜

第1回 京都・下鳥羽〜枚方大橋       (カヌー:鴨川、桂川、淀川) 2007年03月31日(土) 19km
第2回 枚方大橋〜毛馬閘門〜中之島   (カヌー:淀川、大川) 2007年04月05日(木) 21km
第3回 天満橋〜JR津久野駅           (自転車) 2007年04月20日(金) 23km
第4回 JR鳳〜南海・貝塚             (自転車) 2007年04月28日(土) 20km
第5回 南海・貝塚〜JR山中渓          (自転車) 2007年05月16日(水) 19km
第6回 JR山中渓〜和歌山電鐵・伊太祈曽  (自転車) 2007年06月04日(月) 23km
第7回 和歌山電鐵・伊太祈曽〜JR加茂郷  (自転車) 2007年11月04日(日) 15km
第8回 JR加茂郷〜JR湯浅            (自転車) 2007年11月18日(日) 14km
第9回 JR湯浅〜JR御坊              (自転車) 2007年12月24日(月) 23km
第10回 JR御坊〜JR切目              (自転車) 2008年01月06日(日) 22km
第11回 JR切目〜JR紀伊田辺          (自転車) 2008年03月11日(火) 24km
第12回 JR紀伊田辺〜鮎川温泉         (自転車) 2008年03月29日(土) 22km
第13回 中辺路・滝尻〜近露〜水呑王子    (徒歩)   近露民宿泊 2010年10月27日(水)〜28日(木) 57km
第14回 水呑王子〜熊野本宮大社        (徒歩)   本宮大社宿坊泊 2010年12月05日(日) 5km
第15回 熊野本宮大社〜熊野速玉大社     (カヌー:熊野川) 2010年12月06日(月) 36km
第16回 熊野速玉大社〜JR三輪崎、お燈祭  (自転車)  新宮ホテル泊 2011年02月06日(日) km
第17回 JR三輪崎〜熊野那智大社       (自転車) 2011年02月07日(月) 15km
『 熊野古道 』  カヌーと自転車そして徒歩 2007年3月〜2011年2月 延べ18日 365km

           西行のこと memo





















1.ルート


左のマップは、MapionHP(http://www.mapion.co.jp/area/nanki/heritage.html)から転載させていただいた。

当HPの概略ルートを示すと、
(1)京都から大阪までは、淀川をカヌーで下った。
(2)大阪から左図の緑色の紀伊路および青色の中辺路の滝尻王子(正確には自転車の骨折事故のため、少し手前の鮎川)までを自転車で走った。
(3)青色の中辺路の内、滝尻王子から熊野本宮大社までを徒歩で進んだ。
(4)熊野本宮大社から熊野速玉大社へは、熊野川をカヌーで下った。
(5)熊野速玉大社から熊野那智大社へは自転車で走った。

参考資料1)の山渓の「熊野古道を歩く」のルートに拠った。ただし、王子ヶ浜は砂浜を行かず、JR線路脇の道を進んだ。

京都〜熊野本宮大社の距離は約350q (80里= 320qとも)らしい。和歌山県内=約250q。  from 参考資料 11)

熊野古道・大門坂

2.熊野御幸

熊野詣は修験者が始め、平安中期頃からは貴族にも及んでいたらしい。
延喜7(907)年、宇多上皇が始めたいわゆる「熊野御幸クマノゴコウ」は、白河上皇12回、鳥羽上皇23回(33回)、後白河上皇33回(32回)、後鳥羽上皇29回も詣でているとのこと。
往きに16日、帰りは10日くらい掛かったらしいので、往復で約1ヶ月。
後白河上皇などは詰めると丸3年間は熊野御幸の旅の空であったことになる。大変な体力だナァ。(御幸の回数は参考資料11)、括弧内は12))
上皇さん達が行った熊野御幸は、京都から淀川を下り、大坂・窪津から陸路を南下、和歌山、田辺を経て紀伊山地に分け入って熊野三山に詣でるルートがとられており、上のマップで言えば、緑色の紀伊路と青色の中辺路になる。
(参考資料11)などを参考にした。)
当HPはほぼ熊野御幸のルートを辿ることにした。


3.熊野詣出立の地

城南宮は往時の鳥羽離宮の敷地内にある。
左写真は城南宮の大鳥居で、鳥居の左手に右写真の札があった。

「熊野詣出立の地」
・・・。白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇の熊野御幸はあわせて九十余度を数えるが、屡々鳥羽離宮の御殿を精進屋に充て七日程の精進を勤め祓の儀式を修めて出立された。・・・鳥羽離宮に程近い鳥羽の湊から舟に乗り淀川を下って・・・

我が熊野御幸も、城南宮の近くからカヌーに乗って出立することにする。

なお、城南宮は創立年代不詳であるが、平安遷都の際に国常立尊が併祀され、城(平安京)の南にあることから「城南神」と称された。
白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部とされ、代々の天皇、上皇がしばしば行幸した。
また、貴族の方違の宿所となり、京都御所の裏鬼門を守る神とされたことから、方除け、厄除けの神として信仰されるようになった



3.鳥羽離宮

鳥羽離宮は旧・桂川と旧・鴨川の合流点のすぐ北側に両川に挟まれように位置していた。
(旧・鴨川は、現在の赤池交差点(パルスプラザ・京都府総合見本市会館)の南側を北東から南西に流れていた。)

     以下の4点の図は、新創社編「京都時代MAP・平安京編」より複写転載させていただいた。

下図2点のうち、左は、鳥羽離宮あたりの平安後期のMAPである。
右は、その上に現代の姿を重ねたMAPである。
鳥羽離宮の敷地はホント広大である。
 

下図は、鳥羽離宮を南側から見た俯瞰図である。


この地に、10世紀初頭に左大臣藤原時平が別業「城南水閣」を、11世紀には備前守藤原季綱が山荘を設えた。
そして、季綱が白河天皇に献上した地を中心に「鳥羽離宮(鳥羽殿)」営まれた。

鳥羽離宮は、白河天皇(1053〜1129)が創建した譲位後の御所で、現在の京都市南区上鳥羽、伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯に位置し、鳥羽上皇(1103〜56)の代にほぼ完成、
14世紀頃まで代々院御所として使用された。
敷地は約百八十町(180万平方メートル)で、鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には、それぞれ御堂が附属し、広大な池を持つ庭園が築かれた。
讃岐守高階泰仲ら受領層が造営を請負い,資材が諸国から集められた。
院の近臣をはじめ貴族から雑人に至るまでが鳥羽殿周辺に宅地を与えられ,仏所や御倉町なども造られたので、「あたかも都遷の如し」だったとのこと。
院政期の鳥羽は、京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地だったが、南北朝の内乱の戦火により多くの殿舎を焼失し、その後急速に荒廃した。
昭和38(1963)年の名神高速道路京都南インターチェンジ建設以後、附近一帯の景観は一変した。
(以上、京都市歴史資料館のフィールド・ミュージアム京都鳥羽離宮の項を参照した。)





鳥羽は、桂川と鴨川の合流点近くに位置し、淀川を経て瀬戸内海へ通じる水運の要所であり、
また水郷が広がる風光明媚な狩猟や遊興の地でもあった。




左の地図は、平安京探偵団 から抜粋させていただいた。









下の俯瞰図は、安楽寿院にある石版の鳥羽離宮復元図であるが、コレも分かりやすい。


なお、下の”天皇系図”と”保元の乱の人物相関図”は、よくできていて、分かりやすい。
(いずれも、「京都時代MAP・平安京編」よりコピー)





我が「チョットずつ熊野古道」の出発地は、07/3/23の下見の結果、鳥羽離宮に程近い下鳥羽小学校の西の鴨川左岸と決めた。
ココに農業用水の取水堰があり、この堰の下からは、大阪・中之島まで川旅ができそうである。



4.川の古道

熊野詣の最初の目的地の熊野本宮大社に着くと、水垢離をとって身を清め、それまでの陸の道から離れて、河口の熊野速玉大社まで約36kmを川舟で下ったが、これが川の古道と呼ばれ、参詣の大動脈だった。
運賃を出せない人は、渓谷沿いの険しい道をあえぎながら歩いたとのこと。
ただし、1959年に川沿いに国道が開通して険しい山道は姿を消した。
 (たとえば、読売新聞HP・関西発・とくだね紀行・2006年04月25

この「川の古道」も、我が「チョットずつ熊野古道」では、カヌーで下る予定である。




5.参考資料

下記の文献およびHPを大いに参考にさせていただきました。厚くお礼申し上げます。

1)山と渓谷社大阪支局 「熊野古道を歩く」 歩くたびシリーズ、山と渓谷社、2004/8
2)山と渓谷社 「ウォーク関西版 2004年春夏号」 山と渓谷社、2004/4
3)http://www.pref.wakayama.lg.jp/sekaiisan/ 和歌山県HPの「紀伊山地の霊場と参詣道」 紀伊山地の霊場と参詣道
4) http://www.mikumano.net/ み熊野ねっと  みくまのねっと
5)http://www.asahi-net.or.jp/~PF8K-MTMT/koindex.htm 熊野古道のすべて(KIKUO'S HP) 
6) 熊野古道の歴史 http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/kinki/kumano/kodounorekisi.htm (歴史散歩道HP
7) tatubouの熊野詣 http://www.geocities.jp/batayan44/ 
8) 熊野大辞典 http://www.kumanogenki.com/
9) 熊野古道・九十九王子社 http://www.kamnavi.net/kumano/ (神奈備にようこそHP http://www.kamnavi.net/index.htm)
10) ABC朝日放送HP歴史街道シリーズ大阪の熊野古道(2004) http://www.asahi.co.jp/rekishi/2004-06-28/01.htm 、
     和歌山・熊野古道(田辺〜中辺路〜熊野三山)(2004) http://www.asahi.co.jp/rekishi/2004-07-05/01.htm
11) 「熊野古道」を世界遺産に登録するプロジェクト準備会HP
12)「熊野古道・V−中辺路と大辺路−」、上方史蹟散策の会 編、向陽書房、平成6/2/11


6.memo

熊野エリアは現在の和歌山県田辺市付近から三重県の紀伊長島町にかけての一帯。
明治になるまで、紀伊国の牟婁郡と呼ばれたところ。

・熊野神社は、全国に3千社余りあると言われている。
上皇や貴族が盛んに熊野詣でした頃には京都に大きな熊野神社がまつられ、地方の豪族達が盛んに熊野詣でした頃には地方に熊野神社がまつられ、又 先達や熊野比丘尼の普及によって庶民の熊野信仰が盛んになり、全国へ広まった。

・熊野詣での始まりは修験者や僧侶等が主であったが、平安中期頃から貴族や武家に及んだ。
平安後期から鎌倉にかけての上皇や貴族達は、紀伊路を往復するのが一般的だった。

・紀伊路から中辺路を通る熊野参詣路は院政期に入って整備がされ、沿道に、熊野九十九王子(熊野の分祠社である王子という小社)が設けられた。
九十九は沢山あるという意味。時代により増減はあり、全部で100前後と言われるが、定かではない。
王子は、2q位の間隔で置かれていた。

・中世〜近世時代は、地方の豪族・有力者や庶民が盛んに参った。
東国からの参詣者は、伊勢の方から来ることが多く、王子毎に参らなくなった。

・後鳥羽上皇は、随従した歌人たちに題を出し歌会を催した。
その時の和歌をしたためた懐紙が「熊野懐紙」といわれる。
承久の乱(1221)で、隠岐に流され、上皇に加担した熊野別当家も処分を受けた。

・旧淀川の天満橋から天神橋辺りは、十世紀の末頃から渡辺津と呼ばれた。淀川の河口に位置するこの地は、早くから瀬戸内海交通の要港であり、特に延暦24年(805)に摂津の国府が設置されると、人の往来や船舶の出入りが盛んになった。
これに拍車をかけたのが熊野詣で、渡辺津は熊野街道の出発点としての位置を占め、輸送してきた年貢物を一時保管する事務所や倉庫も設置されるようになり、平安から室町期にかけて、最も繁栄を見た。

・神川小学校の東側に神川神社がある。
旧鴨川村の産土神で、鴨川村は神川村の転訛したものと考えられる。(久我のもり図書館HPより)




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