伊勢へ 5         伊勢本街道

                             (榛原〜伊勢)


冒頭に、1泊2日の全行程のハンディGPSマップ ASG-CM11による軌跡mapと速度高度グラフ(どちらも吉田先生提供)を示す。
  
  


まず、クラブ・ザ・ファルト自転車部会の中村会長からの本ツアーの案内を掲げる。
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伊勢本街道自転車の旅
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● 日時:2010年7月31日(土)〜8月1日(日)
● 集合:近鉄榛原駅 9:24
● コース:
  1日目: 31日(土)
  榛原〜高井〜掛〜敷津(道の駅・御杖) (丸山公園でテント泊)
  *道の駅・御杖には、レストランと風呂あり(午後8時まで)。

  榛原から、敷津(道の駅・御杖)まで殆ど上りです。クルマは少ない。
  途中、長い開路トンネルがあり。そのトンネルを避け、旧道を走ります。
  もう一つ長いトンネルあり。これも旧道を走ります。

  *敷津の丸山公園は、標高500mです。夜の冷え込みがどの程度か、わかりませんが、
   各自、対策をお願いします。なお、この公園は、当然テント場ではありません。
   幕営地予定の「丸山公園」は、道の駅御杖から自転車で5分です。
   水洗トイレがあり、水はトイレの手洗いですが、出ました。
   広く綺麗な芝生の広場があり、民家からも離れています。屋根付きの休憩地も、芝生の側にあります。
   問題はひとつ、猪がでることです。

  2日目: 1日(日)
  敷津〜飼坂〜上多気〜横野〜相可オウカ〜田丸〜外宮〜内宮〜近鉄宇治山田駅
  (丸山公園から、基本的には伊勢神宮まで下りです。)

● 食料計画
   31日(土):道中に食堂なし。昼食は各自ご用意ください。
   途中によろずやあり。夕食は、道の駅・御杖のレストランで食べる。
   1日(日)の朝食、昼食は持参してください。
   近鉄榛原駅前にはコンビニがあります。
   またガスコンロを持参し、よろずやでカップラーメン等を購入して食べることも方法です。
   道の駅・御杖にはパンは販売していませんでした。せんべいなどの間食類は販売しています。
   レストランで二日目昼食用おにぎり弁当を夕食時に願いしてみましょうか。
   (やはり、二日目の朝・昼食は持参してください。)

● 電車:
(往き)
 大阪から
  近鉄 大阪上本町8:35(区間急行青山町行き)ー鶴橋8:38ー大和八木9:11ー榛原9:24。
 京都・奈良から
  近鉄京都(特急)8:15−丹波橋8:21ー大和八木9:02。上本町から来る上記急行に乗り換える。
 枚方から
  京阪枚方7:52−丹波橋8:10 上記の近鉄近鉄京都発(特急) に乗り換える。
(帰り)
 近鉄 宇治山田発
  16:08(京都特急)、 29(上本町特急)

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当日は、真夏・炎天の自転車日和であった。
参加者は、奥田、奥野、中村(幹事)、西野、真賀利、吉田、計6名で、平均年齢は70才。
行程は、中村幹事のスケジュール通りで、その計画力に感服した。
以下に概要を記す。
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【1日目】   走行距離:40km

 下図はハンディGPSマップ ASG-CM11による1日目の軌跡map。左のflagがスタートポイント(榛原駅)、途中のflagは昼食休憩ポイント。

  


左写真、近鉄榛原駅南口スタート。9:45
標高:350m


駅前から東方向に商店街を抜けて、近鉄のガードをくぐり、伊勢本街道を長谷寺方面へ少し逆送する。


右写真、萩原の辻(T字路)東の「太神宮燈籠」。
高さ5mの立派な石造常夜灯である。
(文政11年1828、御室御所の寄進によって建立されたらしい。)



左写真、常夜灯の道向かいには「萩原の宿」の旧旅籠「あぶらや」が残っていた。
(「あぶらや」は伊勢本街道から分岐する青越道の正面に位置する。)
”萩原”は江戸時代には”はいばら”とも読んだと「大和志」に記されているとか。



右写真、「あぶらや」には「本居宣長公宿泊」の木札が掛かっていた。






左写真、その先の立派な洋館脇の道標。
北面「左あをこえみち」(青越道)が写っている。西面には「右いせ本かい道」と彫られている。


戻って、近鉄のガードをくぐり直し、伊勢本街道を伊勢方面へ進む。


宇陀川を渡ると、
右写真、墨坂神社。
(宇陀川に架かる小さな宮橋から写す。)
延喜式には記載されていないが、由緒は古く、記紀の時代に遡るらしい。


左写真、本殿は、文久期(1861〜64)造営の春日大社本殿を移築したもの。
中門および回廊もほぼ同時期の建造らしい。

この日は丁度、墨坂神社七夕まつりの日で、氏子の皆さんによる境内掃除が終わったタイミングだった。


右写真、”伊勢本街道自転車旅”の無事を祈ってお参りした。






この辺り、伊勢本街道は国道369号線と重なっている。車に気をつけながら走る。

左写真、榛原トンネル出口すぐのトコロの「弘法大師の石清水」。



右写真、この小母さんが全員にペットボトル入り石清水を呉れた。
この水は大事に飲ませていただいた。
(道中、弘法さんの水には数ヶ所で恵まれた。)




左写真、
「弘法大師爪書き不動尊」と伝えられる磨崖仏。


内牧川沿いの国道369号線車道を走り、自明から高井に至る。


高井の集落に入ると、国道は新道となり分岐。

右写真、内牧川に架かる頭矢橋の袂左側に「伊勢本街道」の道標。橋を渡り、集落を進む。



左写真、高井の集落には、かつて参宮客の往来で賑わった宿場町の風情が残っている。
ほっとする。



右写真、高井の辻。
中世の関所跡は高井バス停になっている。






左写真、高井の辻には石標が3つ並んでいる。
左向きの赤い矢印方向に上ると、仏隆寺、室生寺へ行く。



右写真、高井の辻の石標のアップ。右から、
「大和茶発祥伝承地摩尼山仏隆寺 従是二粁」
「左室生山道」
「右いせみち 左室生山女人高野是ヨリ□□」(寛政12年(1800)4月建立)




左写真、高井の伊豆神社。



右写真、拝殿と神殿。









左写真、開路トンネルの手前で少し早いが昼食休憩。11:15



右写真、たっぷり休憩し、リスタート。12:15
(国道369号線の車は少なかった。)







左写真、車に敷かれたヤマカガシ。
生きているように見えた。


開路トンネルを通らず、旧道の山道を進む。


右写真、峠の集落は落ち着いたいい感じだ。
(上田口弁天バス停付近。参議院の民主党・前田武志のポスターが4枚貼ってあった。)

(小雨がぱらつき、軒先を借りて少し休憩。)



左写真、道の左手の、多分、弁天さん。
先ほどの昼食休憩地点に「弁財天石楠花の丘」と看板が出ていた。
石段の上り口に扉が見える。
笹百合が満開の様子だ。



右写真、道端の笹百合。
あまり群生はしていなかった。




1) ササユリ(笹百合、学名:Lilium japonicum)は、ユリ科ユリ属球根植物。日本特産で日本を代表するユリである。地域によっては、ヤマユリと呼ぶこともある。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2) 一方、 Key:雑学事典によると、
 ・ ササユリ : ササユリは本州中部から九州に分布する多年草。山地の草原や明るい森林に生育。
東日本のヤマユリに対し、西日本を代表するユリがササユリとまで言われているが、現在では自生地も減り、栽培も難しいことから貴重な花となっている。
古く歌に詠まれたユリなど、日本の古い書物に書かれたユリの多くはササユリだったとみられている。
葉の形が笹に似ているところから名付けられたといわれる。
 ・ ヤマユリ : 日本の本州、近畿地方以北に自生する日本特産種のユリ。世界のユリの中でも最も大きな花をつけ、ユリの王様とも言われる。
「ヤマユリ」は山に咲くユリにちなみ名付けられたとの説があるが、低山や草原、海岸近くにも自生する。主に落葉樹の多い雑木林や草の生えた明るい林のふち、日の当たる山の斜面などに生える。
夏の最も暑い時期に満開となるため、関東地方では夏の風物詩として語られることが多い。


左写真、この付近では真夏にアジサイも元気だった。



右写真、地元の人に聞くと、盆花と言っていた。




新道の栂坂バイパスを通らずに、栂坂峠を目指す。




左写真、野苺が丁度食べ頃で甘かった。



右写真、ようやく、栂坂峠。
宇陀市から曽爾村に入る。








左写真、栂坂バイパスと合流して、山粕の集落の西端で休憩。



右写真、向かえ側。
曽爾村の西南に位置する。


(鞍取峠の急山道には進まず、掛を回る。)





左写真、掛。 真ん中に鎧岳が見える。
【鎧岳】室生火山群の3つの奇峰”曽爾三山”の1つで、他は、兜岳、屏風岩。真賀里さんが
イワヒバを取りによく行っていたとのこと。


青蓮寺川沿いに、上流に向かって南下。

右写真、大きな鮎が泳いでいた。


曽爾村から御杖村に入る。



左写真、カラスウリの花。



右写真、青蓮寺川はまだ南に上る。



この辺り、土屋原庄は伊勢神宮領で、春日社興福寺の支配が浸透したのは鎌倉以降。





左写真、桜峠。ゆるやかな峠だ。




右写真、菅野集落の駒繋橋。
倭姫命が伊勢へ向かう途中、西川の岸の神代杉に馬を繋いだのが橋名の由来とか。

「左 いせみち」の道標と太神宮常夜灯(天保三年建立)も並べられている。





左写真、駒繋橋のすぐ北に、安能寺の山門。
上部が鐘楼になっている。
右手に百日紅、左手に桜。どちらも古木。
百日紅の幹の太さには驚いた。花はまだこれからだった。



右写真、本堂。室町時代の本尊木造釈迦如来座像など、古仏があるらしい。






左写真、お地蔵さまがきれいに祀られていた。




右写真、安能寺の庭の百日紅は咲き始めていた。南の上郷方向の山は800m、900m。








左写真、倭姫命ゆかりの四社神社
天照大神と春日、八幡、熊野の大神を祭祀する菅野の氏神である。


右写真、正面は倭姫命が伊勢へ向かう途中に手を洗った井戸らしい。
その左手の小さな祠には伊勢神宮に奉仕した用明天皇皇女の酢香手スカテ姫が祭られている。

なお、四社神社シシャジンジャは、日本各地にあり、4つの神社を合祀したもの、あるいは、当初から4柱の神を祀る神社として創建されたもの。


倭姫命 (やまとひめのみこと。生薨年不明)
記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命伊勢の地に天照大神を祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、
これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。


左写真、境内には、天然記念物の菊花石や”ぼけふうじ”石もあった。




右写真、牛峠に上がって、国道に出る。
「これより御杖村神末」の標識が画面右上にある。
国道を少し下り、直ぐに右手の旧道に入る。
東に下って、神末コウズエの東町に出る。




左写真、神末宿の旧旅籠「いまにし」。



右写真、佐田峠。左手の石は、行悦の道標
伊勢本街道沿いに「菅野村 行悦」と刻まれた道標がいくつか有る。
これは、菅野村(現在の御杖村)出身の行脚僧・行悦による「六十六部回國供養碑」と呼ばれるもので、徳川吉宗が倹約令を公布したころ各地を供養して回り、
多くの石碑を残したらしい。
この道標には長谷寺と伊勢宮川への距離が示されているので、旅人に便利だったらしい。







左写真、首切地蔵は明治の廃仏毀釈の時に損傷し、首から上の病気に霊験あらたかと言われている。



右写真、この峠を下って、敷津に入る。
敷津シキツは神末コウズエの広い小字で、御杖村第一の水田地帯。








左写真、左の道は北方向、敷津交差点(道の駅)へ行く。
我々は右の道を進み、東の円山公園へ向かった。
正面は大洞山オオボラヤマ(985m)。


予定通り、16:00 丸山公園着。
標高:510m

右写真、芝生にゆったりとテントを張る。




16:30 道の駅の姫石温泉に向かった。汗だくの体に心地よい温泉だった。
休憩室でビールで乾杯し、水分を補給。続いて、お食事処・山桜で豪華なディナー。
丸山公園のテント場に戻り、暫し歓談して眠る。
夜中には甲高い鹿の鳴き声がよく聞こえた。


【2日目】   走行距離:75km

  

  


左写真、テントを畳んで、散策スタート。
6:05



右写真、公園には丸山(円墳か)が2つある。


丸山公園付近は大阪湾と伊勢湾へ水を分ける複雑な分水嶺。敷津の大部分は太郎川へ流れ、名張川・木津川となる。
敷津の一部分と小屋コウヤの水は伊勢地川に流れ、雲出クモヅ川になる。




左写真、公園奥の岩坂道を下りる。
ココも昔の伊勢本街道だ。



右写真、姫石明神
倭姫命の病気を全快させたと伝承される霊験あらたかな神様で、縁談、子宝など男女の想いごとや婦人病の願い事が叶うと言われ、
祈願が叶うと小鳥居を奉納するか紅白の布を鳥居に結ぶらしい。






左写真、上の石も姫石?



右写真、西の丸山の上に役行者像。




散策の後、丸山公園をスタートする。
6:30前



左写真、瀬之原常夜灯。
大和から伊勢路にはいると、太神宮燈籠の刻字が大和にない「太一タイイチ」となる。



右写真、奥津宿に入る。(右手から来た。)

家々に暖簾が掛けられている。
(のれん街道という町おこし)





左写真、暖簾の向こうに”みそ醤油”の看板を掛けたこの家のご主人は元公務員と言われていた。



右写真、JR名松線伊勢奥津駅前。(名松線は名張〜松阪の予定で着工するも、奈良県側の工事は行われず、奥津が終点。)
今は、伊勢奥津〜家城はバスを代行運転中。








左写真、旧旅館前で。



右写真、南に入ると、「おんばさん」









左写真、JR名松線の線路が見える。



右写真、谷口常夜灯。
太一と太く刻まれている。
正面は正念寺。







左写真、曹洞宗正念寺の山門前を過ぎる。



右写真、沢沿いの路を進む。
山道に入り、沢も渡る。








左写真、飼坂トンネルの入口の下に出る。
最後のスロープがきつかった。




右写真、左へ山坂道を0.5kmで腰切り地蔵、1.1kmで飼坂峠。
我々はトンネルを通り、峠には行かず。






左写真、飼坂トンネル3400mを点灯して走る。
日曜の早朝のためか、車とは出口付近で1台とすれ違ったのみだが、通り抜けてほっとする。7:52




右写真、多気宿に入る。
急な坂道を曲がりながら、落ち着いた集落を抜ける。






左写真、北畠神社の参道入口。
北畠館跡の神社で、祭神は北畠顕能アキヨシ(親房の三男。霧山城を築く。)。

訪問した時間が午前8時だったもので、境内に掃除の人はいるが、社務所は不在だった。(呼びに行ってもらう。)

右写真、北畠顕家像(親房の長子、和泉石津で戦死)。


【霧山城】
北畠顕能が興国3年(1342)に急斜面をなす標高600mの山頂を開いて築城。南朝より拝命した伊勢国司の地位を維持して室町幕府と対立。
天正4年(1576)に織田軍が大挙して多気を襲撃し、北畠御所と周辺の城下町を焼き払い、霧山城も落城。
霧山城の城下町は復興されることなく耕地化し、南寄りの伊勢本街道に多気宿が形成される。

【北畠神社、館跡庭園】
寛永20年(1643)に北畠氏の子孫が、北畠館跡に八幡社を創設し、明治14年に北畠神社と社名を改めた。
昭和57年の北畠神社境内の発掘調査で室町時代の庭園遺構が確認され、現在は池泉回遊式庭園として復元され、国の名勝・史跡に指定されている。
なお、”北畠氏を滅ぼした織田信長も死んでから約30年後、政治が安定を取り戻した江戸時代の初期、荒れ果てた状態となっていた庭園を見かねた旧北畠家臣が手入れし、今に伝えた。
その頃、北畠氏を偲び神社を建立したのが、現在の北畠神社の発祥。”と伝えるブログもある。


左写真、平成9年の調査で見つかった石垣
15世紀前半のもので、中世の城や館で使われた石垣としては、全国で最も古いらしい。



北畠氏館跡庭園を6人割引料金で見学。


右写真、現在の状態にいつ復元されたのか分からないが、モミジの老大木には苔が生えていた。
見事な庭園だった。(東庭の東端から)




社務所の庭園パンフによると、
”室町庭園の多くは寺院に所属しおり、優美で華麗でまた雅趣に富んでいる。
一方、この庭園は数少ない神社の庭園であり、しかも武将の造った庭らしく素朴で豪放っで野性的な魅力に溢れている。”


左写真、石橋手前の巨大な亀石。



右写真、西庭。遠景に石橋。左は水源。




社務所の女将さん?によると、植木屋が入って剪定することはなく、台風で大きな枝が折れることがある。
池の水は山から引いているので、風雨が強いと枯葉などがパイプに詰まり、神主はパイプの掃除や池に入っての堆積物の掃除が大変だ。


左写真、西庭の小高いところから。


右写真、西庭。遠景中央は石橋。







いつまで見ていても名残の尽きない北畠氏館跡庭園であった。



なお、作庭の時期は、初代国司・北畠顕能の時でなく、7代晴具の居館庭園と見るのが妥当とされているらしい。








左写真、上多気の旧旅籠「結城屋」。




右写真、その向かえは民宿をやっているとのこと。(「なかや」)








左写真、立川タテカワ沿いの旧道。百日紅が咲き始めていた。



立川、奥立川を経て、櫃坂ヒツサカへ。



右写真、不動橋の袂には、小さな祠や供養の石が並んでいた。





左写真、不動橋から上ってきた道を振り返る。
ココまでは津市。ココから先は松阪市。




右写真、不動橋の下の立川の水は冷たかった。







左写真、暫し涼む。


峠からは櫃坂ヒツサカを国道で下る。
(山道の旧道はとても無理だ。)
標高差200mの将に九十九折の坂道だ。
逆に上ってくる自転車の一群に会って驚いた。

右写真、上仁柿坂ノ下の集落。
画面右の368号線を降りてきた。




左写真、赤い鉄骨の落石覆工に入って、先頭の中村さんが急に止まって引き返す。
入口左にあった弘法太子の水を見付けたのだ。ありがたく飲む。



右写真、横野の柿野神社。ちょうど七夕祭の日だった。短冊に願い事を書いて笹に吊した。


(神社前で仁柿川が櫛田川に合流する。)


櫛田川の潜水橋やアーチの深野橋を右手に見ながら国道を走る。


左写真、不動院(真言宗石勝山金常寺)本堂。



右写真、不動滝は高さ10m。


不動院境内の観音岩(高さ30mの絶壁)一面にムカデランが群生していて、国天然記念物とのこと。
見られなかった。
ムカデランはムカデが這っているような形状をなし、三重県南部ではところどころに見受けられるが、岸壁面にこのように多量に着生しているのは非常に珍しいとのこと。




左写真、津留の渡し跡を見ながら、昼食休憩。11:00
(櫛田川の茅原側にあった「はかり岩」は昭和34年の伊勢湾台風の洪水で流失したとか。
どうやら左手の石の頭部が流されたようだ。
水位がその頭部を越えると渡しの運行が中止されたらしい。)



右写真、休憩後、この津留橋を渡って、津留へ。






左写真、「伊勢三郎物見の松」。
源義経の家臣・伊勢三郎義盛が敵の軍勢を松に登って見張ったという伝説がある。
松は5代目とか。



右写真、多分、四疋田シヒキダの寺で少し休憩。







左写真、相可オウカの入口の千鳥橋と斜めに生えている椋の大木。




右写真、西行法師の歌碑(記念碑)。
碑面がかすれていて判読が難しいが万葉仮名で、『疲れぬる我を友呼ぶ千鳥ヶ瀬 越えて相可に旅寝こそすれ』






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相可の街に入るとすぐ、椋の老樹(幹周囲485cm、樹高17m)が道を覆うように茂っていて、その下に塞の神がまつられて、傍らに歌碑が建っている。
下を小さな「大木タコ川」が流れ、かかっている橋が「千鳥橋」。
平安の頃、歌にすぐれた西行法師が、伊勢まいりの途中この辺りに来て憩う内、川千鳥の鳴く声を耳にして次の歌を詠んだ。
−疲れぬる我を友呼ぶ千鳥ヶ瀬
       越えて相可に旅寝こそすれ−
明治の末になって相可の人たちはこの場所を「千鳥ヶ瀬」と名づけこの歌碑を建てた。   (from 観光三重HP
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左写真、千鳥ヶ瀬の塞の神(大木川は四疋田と相可の境界)の前に(椋の東)燈籠があり、「千鳥瀬 寛政四年」と刻まれているらしい。




右写真、西池上の常夜灯。
傘が円形で珍しい。「天保十五年辰五月日」(1844)、「石工根来宗和」と彫られている。







左写真、常夜灯の道向かえに古寺があり、その門前には、左から、陸軍歩兵一等卒の碑、石仏?の祀られている祠、五輪塔、石仏、石仏?が並んでいた。




右写真、伏拝坂。むかし伊勢参りの旅人がここまで来て、お伊勢さんまでの距離を尋ねたところ、「三里山道 五里畷」と聞き、これから先の難儀を思い、
参宮するのをあきらめて、東の空を伏し拝んで残念そうに帰ったという伝説の場所らしい。







田丸の町(度会郡玉城町)に入り、まず田丸城に向かう。

左写真、田丸城郭之図(江戸中期)。右が北。
我々は東(三の丸)から入り、北へ回る。

右写真、お堀の蓮が迎えてくれた。








富士見門の前に駐輪して、遊歩道(山道)を上っていく。

左写真、石垣。
将に夏草や兵どもが夢の跡だ。



右写真、石垣が続いている。





左写真、本丸跡。



右写真、天守閣跡からの眺望は見事だった。



(田丸城の詳しい写真はコチラ。)




ともかく暑かった。『かき氷』屋を尋ねる。線路を越えて、スーパー グッディ玉城店へ行く。
それぞれ、シャーベットとペットボトルを求め、無料の氷をビニール袋に入れる。
豊富地蔵の木陰に座り込んで、氷菓を食って、水を飲む。氷を頭に載せる。

元気を取り戻して、伊勢本街道に戻り、佐田、湯田野、上地町を突っ走る。
田丸より東は、道幅も広くなっていて、本街道の雰囲気が残っていなかった。
度会橋で宮川を越える。(きれいな宮川の写真を撮り損なったのは少し残念。)
その先は伊勢市の市街地に入るので、当然のことながら、本街道の雰囲気は望む方が無理だった。


左写真、豊受大神宮(外宮)北御門参道に着く。15:00
火除橋。奥に北御門鳥居が写っている。



右写真、御正殿を拝む。


豊受大御神トヨウケノオオミカミは1500年前に天照大神の食事を司る御饌都神ミケツカミとして丹波の国からお迎えしたそうな。
ウン、食うことは大事だ。



【古市】
近鉄を越えて、”古市”に向かう。
尾部オベ坂を上る。両宮の間の山なので、間アイの山とも言うらしい。
(山田尾上町の田部坂と宇治浦田の牛谷坂の間にあるので間の山との説もあり。)
昔、三味線や胡弓をかき鳴らし、旅人に投銭を乞うことで有名だった芸人、お杉・お玉の真新しい碑もあった。
備前屋跡碑もあった。油屋、杉本屋とともに古市の三大妓楼の一つだったとか。
”古市”は外宮と内宮に通じる参宮道(という公道)のちょうど中ほどに位置していて、江戸時代の男どものお伊勢参りにとって格好の精進落としの場所であった。
この小高い丘は、お伊勢参りの流行とともに、江戸中期から賑わいを見せ始め、京の島原、江戸の吉原、大阪の新町、長崎の丸山と並んで、日本五大遊郭の1つに並び称される名所だったらしい。



左写真、大きな常夜燈が2基並んでいた。
桜木地蔵の案内も見える。
(牛谷坂を下る。)


右写真、猿田彦神社で写真休憩。
境内に佐瑠女サルメ神社がある。






おはらい町通りを南下する。
道はごった返していて、途中から降りて押す


左写真、内宮前の広場に着き、駐車場の端に駐輪。16:00



右写真、宇治橋を渡って、内宮にお参りする。



宇治橋
宇治橋も式年遷宮の年に掛け替えられていた。しかし、昭和24年の第59回式年遷宮が戦争の為遅れた際、「せめて宇治橋だけでも」と架け替えられ、それ以後は式年遷宮の4年前に掛け替えられている。
宇治橋の外側と内側には高さ7.44mの大鳥居が立っている。
内側の鳥居には、内宮旧御正殿の棟持柱が使われ、これは更に20年後には鈴鹿峠「関の追分け」の神宮遥拝の鳥居に使われる。
外側の鳥居は、外宮旧御正殿の棟持柱が用いられ、20年後には桑名の「七里の渡し」の神宮遥拝の鳥居となる。
御正殿の棟持柱として20年、宇治橋の鳥居として20年、さらに鈴鹿と桑名で20年。御用材として、合計60年の努めを果たす。
現在の宇治橋は、2009年11月に架け替えらた。

左写真、宇治橋から五十鈴川の上流側。
向こうは神苑の森。



右写真、五十鈴川の下流側では子供たちが水遊びをしていた。








左写真、神苑の道を進む。



右写真、御贄調舎ミニエチョウシャ。
鮑を調理する建物だそうだが、板葺きの屋根と柱だけのシンプルな構造が心を惹く。








左写真、皇大神宮コウタイジングウ(内宮)の正殿の石段を上る。
正面の白い布(暖簾でもなし御簾でなし、何というのでしょう?)の前で拝む。
御祭神は天照大神で皇室の御祖神。


右写真、石段の途中で全員集合の記念写真。



正殿の左手には、『平成25年 第62回 式年遷宮御敷地』と書かれていた。
式年遷宮は3年後だ。



左写真、ゴールの近鉄・宇治山田駅到着。
17:05



右写真、自転車を解体し、近鉄特急で帰る。
(17:29発、17:48発)







【参考文献】
1)伊勢本街道・上および下:上方史蹟散策の会編、向陽書房、平成5年3月20日


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