伊勢へ

伊勢へ1 プロローグ 京から奈良へ (嵐山〜木津) 2009年1月25日(日)
伊勢へ2 奈良を下る (木津〜箸墓古墳) 2010年02月07日(日)
伊勢へ3 大坂から奈良へ (玉造〜猿沢池) 2011年03月27日(日)
伊勢へ4 (箸墓古墳〜榛原)
伊勢へ5 伊勢本街道 (榛原〜伊勢) 2010年7月31日(土)〜8月1日(日)

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次のマップは暗峠から奈良、伊勢本街道を歩くHP全ルート簡易マップで、<kaz>さんの許可を得て、転載させていただいた。
   
当HPでも、ほぼ上図のルートを走行する予定である。すなわち、
1)大阪から暗峠越奈良街道を東進し、奈良へ。
2)奈良を下って、榛原まで。
3)榛原から伊勢本街道を東進して、伊勢へ。
そして、まずはプロローグとして、
4)京都から、(ザ・ファルトらしく、川沿いの)桂川・木津川自転車道を走り、木津経由で奈良へ入る。

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【奈良から伊勢への道】 以下は、奈良大学HP(実験歴史学)より抜粋

奈良から伊勢参宮のコースは、加太越奈良道大和街道)を奈良から伊賀上野へ出て、上野から長野峠、五百野を経て月本で日永からの参宮街道に合流する(最北の)コースや、
奈良から笠間峠をこえて名張で伊勢表街道(北街道)に入る(北寄りの)コースなどがあるが、もっとも一般的なのは、奈良から上街道を三輪まで南下して、初瀬から榛原へと東進し、
萩原の辻(高札場があったので、札の辻とも)で伊勢本街道と伊勢表街道(北街道)のいずれかを辿るコースである。
大坂から暗峠越奈良道を通って奈良に入った参宮客は、伊勢参宮道中記や浪華講定宿帳などに導かれて、ほとんどが、この伊勢本街道コースか伊勢表街道コースを辿ったようである。
伊勢表街道は「あをこえ道」とも称され、名張から青山峠をこえて六軒で参宮街道へ出る。
青山峠はあるが、比較的難所の少ない街道である。
伊勢本街道は、榛原から伊勢へ向かってほぼ東進する最短距離の街道であるが、石割峠、山粕峠、鞍取峠、飼坂峠、櫃坂などの難所をいくつも超えなければならない難路である。
こうした自然条件を考慮して、少しでも楽で安全な旅を選ぶ人は少々遠まわりになるが伊勢表街道を、体力もあり行程を急ぐ場合には伊勢本街道の旅を選ぶというように、
江戸時代の人々も選択して伊勢へと向かっている。
割合になだらかな街道であった伊勢表街道は、その地勢の有利さから、現代では近鉄電車や国道の路線として開発され、旧街道の景観を失ってしまっているところが多い。
これに比して、伊勢本街道は難所が多かっただけに開発からとりのこされ、逆に廃道に近い状態となってしまっているところもあるくらいで、旧街道のおもかげを今日に伝えているということができる。


【伊勢本街道】 以下は、伊勢本街道保存会HPより抜粋

全国津々浦々から伊勢を目指すルートはいくつかあったが、最も有名なものは伊勢参宮街道
これは、東海道を上り、四日市の日永追分で東海道と別れて伊勢を目指すルートで、「伊勢街道」「参宮街道」の別称もある。
西国、関西方面からの参宮者が辿った道は、ほとんどが大和(奈良)を経由する。
奈良から伊勢に至る複数のルートのうち、「伊勢本街道」が最短コースであり、奈良(猿沢池)から出発し、三輪、初瀬(ここまでは初瀬街道とも)、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、
宮川を渡って山田(伊勢)に到る約130kmの行程である。
そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命ヤマトヒメノミコトが大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれており、北緯34度32分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから、
“神意に叶う道”として西からの参宮者が多く利用した道であった。
しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道(古くは「青山越」「阿保越」、参宮表街道、初瀬街道とも呼ばれるらしい)の方が平坦であったため参勤交代にも使われ、
伊勢本街道の整備は次第に怠られるようになった。
明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるものの、時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。
かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業に追い込まれ、今では沿道の人口も減って過疎化が相当に進んでいる。
しかし、開発が進まなかった分、常夜灯や道標、旧旅籠の遺構、細くうねるように続く道など、旧道の名残を随所に見ることができる。
現在、伊勢本街道を再認識して歩き旅をする人数は少しずつ増えている。これには、奈良大学の鎌田道隆教授の提唱する「実験歴史学」の一環として
学生主体で毎年行われている「宝来講」(奈良大学)の活動の影響が少なからずある。
また、上述の如く、倭姫命伝説にまつわる史跡や江戸時代の道標などが多く残されていること、伊勢本街道は奈良経由で西から伊勢に入る最短ルートのひとつであるがゆえに山あり、平地あり、宿場あり、長谷寺などの観光地ありで、
変化に富んだコースになっていることが大きな魅力で、ウォーキングコースとしても人気を集めている。


なお、みえの歴史街道HPも内容豊富で、以下に、伊勢本街道および初瀬街道の項を抜粋しておきたい。

1.伊勢本街道の概要
大和国と伊勢神宮を結ぶ街道で、別名、参宮本街道、伊勢中街道とも呼ばれる。
街道沿いには、古代祭祀遺跡などが多く、箸墓ハシハカ古墳(奈良県桜井市)と斎王宮(三重県多気郡明和町)を結ぶ、北緯34度31分、いわゆる「太陽の道」との関わりがあるともいわれた。
飛鳥・藤原時代には大和と伊勢神宮を結ぶ重要な道であったが、平安京遷都後、初瀬ハセ街道が利用され、鈴鹿峠越えが主流となると、一時期は衰退した。
しかし、南北朝以後、伊勢国司北畠氏が現在の美杉村の多気に館を構えたため、多くの武士団が居住し、初期城下町を形成していた。
やがて、その城下を通る伊勢本街道が再び重要視されるようになり、伊勢参宮者の増大にともない、多くの人々が行き交う街道へと変遷していく。
北畠氏滅亡後も宿場町の機能は残り、伝馬所が置かれ、江戸末期には旅籠も9軒ほど存在したとされている。
また、この街道は、大和から伊勢への最短コースにあたるが、険しい山道が多く、旅人におそれられた。
本居宣長の紀行『菅笠スゲガサ日記』には、宣長が大和の旅を終えた帰路、榛原で一行に本街道越えを指示した際の様子が描かれているが、一行はこの道を通るなど考えただけでも恐ろしい、とふるえ上がっている。
しかし、神代の昔に倭姫命ヤマトヒメノミコトが天照大神鎮座の地を求めての旅に関わる伝承も多いことから、「神の御心に叶う」として多くの参宮の旅人に利用されたのである。
明治に入ると、街道の改修、新道建設が盛んとなり、馬車・荷車が通行できない峠道の改修、迂回路の建設が各所で進められた。
以後、雲出川上流域と伊勢・松阪方面を結ぶルートとして利用されたが、大正年間、津から雲出川上流域へのバス路線の開通、昭和10年名松線の開通などにより次第に衰微した。
当街道の奥津(美杉村)〜横野間は国道368号線になり、漸次改修されている。
旧宿場町に残された道標や常夜燈、古い町並みがかつての姿を今に伝えている。

2.初瀬街道の概要
京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道の全長は約14里17町。現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て長谷へと至ることからその名がある。
現在の国道165号線、或いは近鉄大阪線に近いルートを通るこの道は、古くは「青山越」・「阿保越」、参宮表街道・参宮北街道とも呼ばれ、古代には「壬申の乱」の際、大海人皇子が名張に至った道であり、
また、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に使えた斎王が伊勢へと赴いた道である。
飛鳥時代、藤原京時代には、大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢路の北路となり、平城遷都以後も奈良と伊勢を結ぶ幹線道路であった。
平安遷都以後、平安京から鈴鹿越えで伊勢に向かう官道が出来、また、伊勢国司・北畠氏が拠点を置いた伊勢本街道が利用されるようになったため、初瀬街道は一時衰退したが、伊勢参宮や伊勢からの初瀬詣でが盛んになるにつれ、
険しい山道の多い伊勢本街道よりも比較的平坦な初瀬街道が利用されるようになり、江戸中期から明治初期が最も賑わったという。
当時、参宮客は初瀬で一泊し、青山峠の麓の伊勢路宿(青山町)でさらに一泊、翌日は二本木(白山町)で昼食を取り、六軒で三泊目。大阪方面から伊勢へは片道4〜5日の旅であった。

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プロローグ       京から奈良へ(嵐山〜木津)

クラブ・ザ・ファルトの2002年奥琵琶湖・海津大崎お花見ツアーの帰路、JR湖西線の中で、どういうわけか、一度、自転車に乗って琵琶湖を一周してみようということになった。
カヤックで琵琶湖を我が庭のように、横断したり、縦断したり、一周もしている強者共が、初めて自転車旅を試みたのだ。
その後、クラブ・ザ・ファルトでは、ファルトボート(フォールディングカヤック)のオフシーズン、冬場の行事として”自転車部会”が活動するようになっていた。
自転車旅も結構面白く、自転車部会のメンバーの充実も相俟って、吉田代表は『伊勢へ、自転車で』と考えた。(2008年のことだったと思う。)
我々のカヤックのホームグランドである木津川沿いのサイクリングロードを走るルート(2009年1月)を、『伊勢へ、自転車で』の初回として起案された。
以下は、2010年秋になって、そんなことを思い出しながら、取り纏めた記録である。不十分な点はご容赦願いたい。


月 日 :2009年1月25日(日)
参加者:奥田、奥野、中村、西野、真賀里、松田、吉田(リーダー)
集 合 :阪急嵐山9時


私は枚方公園口バス停から京阪バスに乗った。
左写真はバス停から見た枚方大橋。手前のグランドや河川敷にはうっすらと雪が見える。寒い日だった。7:35



右写真、阪急嵐山駅前。9:15
(吉田先生の撮影)






左写真、渡月橋。9:18



右写真、『木津・和泉大橋まで 45km』を見て、桂川右岸の自転車道を走り出す。9:20








左写真、松尾橋を振り返る。



右写真、前方に上野橋。








左写真、河川敷の枯野の風情を楽しむ。



右写真、西大橋で左岸に渡る。








左写真、阪急鉄橋を振り返る。



右写真、対岸は桂離宮。画面左端に桂大橋。








左写真、JR東海道新幹線、東海道本線を振り返る。川は天神川。



右写真、前方に、久世橋(トラス橋)。








左写真、名前の分からない新しい橋。
(地名は、吉祥院嶋中ノ島)




右写真、名神高速道路を振り返る。






左写真、前方に久我橋が見える。



右写真、鴨川の京川側道橋を振り返る。








左写真、桂川と(画面右から流入する)鴨川との合流点。



右写真、前方には、羽束師橋。









左写真、魚市場跡碑
下鳥羽は、古くは草津と言い、木津、今津とも言われ、船で西国に赴く人達の乗船地だったらしい。
太宰府へ流された菅原道真や讃岐国へ流された法然もココから乗船したとのこと。











左写真、堤防下の自転車道の脇にある「戊辰役東軍戦死者埋葬地」の碑。
桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋は、戊辰戦争の激戦地だったらしい。


なお、右の”鳥羽・伏見方面戦闘図”にあるように、この辺りは、幕末の鳥羽・伏見の戦いの激戦地あり、川沿いの市街が多く消失している。
(from 新創社「京都・観光文化時代MAP」








左写真、宮前橋。



右写真、京滋バイパスと手前の道路橋。








左写真、京滋バイパスの下をくぐる。



背割堤の先端(最西南)で寒風の中、ランチ休憩。



右写真、背割の冬桜。11:30
画面右手に木津川の御幸橋。



左写真、御幸橋と右手に八幡・石清水の山。



右写真、左手の頂に石清水八幡宮があるはず。








左写真、宇治川と御幸橋。



右写真、木津川と御幸橋。





リスタートして、御幸橋を渡り、木津川左岸の自転車道を上る。


流橋の「四季彩館」で暫し休憩し、身体を暖めた。
蕎麦が旨かった。


左写真、山城大橋上流側の野球グラウンド。
13:35


右写真、玉水橋と河川敷の茶畑。




左写真、祝園神社を訪ねる。
ココでは、特殊神事「居籠祭」が正月に行われる。(京都府無形民族文化財指定)
第一日 風呂井の儀 風呂の井と言う井戸で秘密の祝詞を奏し、玉串を納める。
第二日 大松明を祭場に運ぶ。この時神主が鈴をならせるが、村中が消灯し一切の物音を謹慎しする。
第三日 氏子が竹の輪を曳き合う行事で、神を迎え豊かな稔りもたらす予祝儀礼である。


右写真(by Okuno)、割拝殿。






左写真(by Nakamura)、和泉式部の墓



右写真(by Nakamura)、お堂はきれいだった。








ともかく寒い日だった。
デジカメのバッテリーも低体温症候群か調子が悪く、ランチ以降の写真が撮れていなくて、中村氏、奥野氏から借用した。

なお、御幸橋〜木津・泉大橋の自転車道については、拙HP木津川を走る (御幸橋〜泉大橋)もご参照下さい。



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