チョットずつ高野街道-1     
 高野街道

第1回 紀見峠〜貴志駅 2013年6月30(日) 50km
第2回 km




クラブ・ザ・ファルトの自転車仲間で、高野街道を走った。
招集案内は、
 1 日時:6月30日(日)
 2 集合:南海・林間田園都市駅09:00 (参考:新今宮08:14南海高野線橋本行急行→林間田園都市駅08:58)


  

   左写真、相賀八幡さんで真新しい茅の輪をくぐった。今日は6月30日、夏越しの大祓の日であったのだ。
       相賀八幡: 胡麻生八幡とも呼ばれる。
        室町初期の建立であったが、安土時代に地元豪族の牲川氏との抗争で高野衆徒に焼き払われ、その後再興された。
        高野と橋本との関係を物語る証の一つらしい。
        橋本市観光協会HP

      中写真、橋本橋。上から読んでも下から読んでも橋本橋。
         この橋は渡らずに、次の橋本高野橋(2006年竣工)で紀ノ川を(南に)渡り、左岸を走る。
         右写真、東家トウゲ渡場大常夜燈籠。下記は橋本市教育委員会の説明板による。

高野街道は京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して当地に至り、紀の川を渡って学文路カムロから高野山へ登っていく道が開かれ、室町時代後期にはもっぱらこの道が用いられるようになった。
橋本の地名の由来になった橋は天正15年(1587)に応其オウゴ上人によって架けられたが、3年後に紀の川の増水により流失し、舟による横渡ヨコワタシが行われるようになった。
その紀の川北岸渡場にあったのがこの大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1714)で、長く「無銭横渡」の渡場を伝えてきたが、その後、河川改修のため現在地に移築された。
元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち、1基は紀の川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると阿波国藍商人の連中をはじめ、京都・難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者の浄財によって建てられたもので、
当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀の川渡場の賑わいを今に伝えている。


 

   左写真、「紀伊国名所図会」に描かれている”江戸時代の東家・橋本と紀の川渡”。

         右写真、大常夜燈籠の側に高野山女人堂への里程石?があり、なぜか歯痛地蔵尊が並んでいた。


  

   左写真、 福成就寺本堂。昔は丁田と言われる地域だったので、地元では「丁田の成就寺」と言われるらしい。

      中写真、 船のモニュメントの上の石碑。
          嘉永5年(1852)紀の川の大洪水の時に多くの村人が太子堂に避難したが、増水が止まらず、お堂の周りも泥海に化した。
          その時に、激流の中へ単身、舟を出し村人を乗せて救い出した”船越喜右エ門”を頌える碑。

         右写真、釣鐘のある楼門。


  

   左写真、江戸時代の後半、高野参詣の旅人の安全を祈念して建立された、高野六地蔵の一つ。清水に次ぐ第2の地蔵さんとのこと。第6まである。

      中写真、昔のきれいな町並みが残っている。

         右写真、学文路カムロ駅。これも昔ながらの駅舎である。
         南海鉄道が高野大師鉄道と大阪高野鉄道を合併して、大正13年(1924)に開業。駅名は、高野詣りの宿場町として栄えた旧学文路村に因む。

    ランチは蕎麦にしようということになり、評判の紀州九度山真田そば“そば処・幸村庵”を訪ねた。しかし残念ながら時間が少し早く、開店前だった。
    折角なので、すぐ横にあった”真田庵”に寄った。
    真田庵というのは、真田幸村父子の屋敷跡に建てられた真田家の菩提寺で、正式名称は善名称院という。


    

   左写真、昌幸の霊が祀られている「真田地主大権現」。この横の説明板には、
       『    花は散れども香は残る
        真田昌幸は甲斐武田の重臣として仕しころより戦国一の智将と称賛されるも、慶長16年(1611年)この地で没した。
           花は桜木 人は武士
        その昌幸の無念を子息幸村が赤誠の六文銭を掲げ、嫡男大助、郎党が小兵をもって大坂の陣にて家康を追いつめるも討死。
        その遺徳をもって真田三代この地の鎮守としてお祀りされています。』

      中写真、百度石でなく、「千度石」があった。後のお堂に御本尊の弥勒菩薩がまつられている。

         右写真、コチラが本堂らしい。八棟造りと呼ばれる建築様式で、城郭を思わせる重厚な建物。軒丸瓦には菊の紋章が入り、鴟尾も置かれている。

  

   左写真、本堂前から門の方向を写す。

  なお、境内に蕪村句碑があったらしい。 from 九度山町HP

      中写真、「かくれ住んで花に真田が謡かな」

         右写真、「炬燵して語れ真田が冬の陣」



次に、『慈尊院』を訪ねた。               

仏塔古寺十八尊霊場会によると、
弘仁七年(816)弘法大師が高野山御開創の時、山麓の表玄関口に政所(高野山の庶務を司る寺務所)として慈尊院が建立された。
弘法大師御母公は「わが子に会いたい、開かれた高野山を一目みたい」一心から八十二歳の高齢にもかかわらず讃岐からこの地に来られた。
しかし、弘法大師は当時高野山を七里四方女人結界の聖地とされており、御母公であろうとも女人は登山できなかった。
そこで悲しむ御母公の身を心配され慈尊院にお導きになり、月に九度、下山されお会いになられた事からこの町を九度山町と名づけられた。

承和二年(835)御母公は八十三歳でこの世を去られた。
御母公追悼のため弥勒堂(重文)を建て、堂内に本尊弥勒菩薩(国宝)を安置された。
弥勒菩薩は、弘法大師御母公の化身として今も崇められている。
また、女流作家有吉佐和子の小説「紀の川」の舞台となった事もあいまって女性の信仰を集めている。

左写真は、有吉佐和子の「紀の川」の一節で、供養・祈願の受付所(下の真ん中の写真)に掲げられていた。


九度山町HPによると、平成16年7月世界遺産に登録された慈尊院は、弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、その庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされた。
当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられているが、天文9年(1540年)紀の川の大洪水にて流失した。しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれた。

平成27年4月2日〜平成27年5月21日の間、高野山開創1,200年を記念して、弥勒堂の御開帳が行われるとのこと。


   

   左写真、世界遺産・女人高野別格本山「慈尊院」の多宝塔(県指定文化財)。

      中写真、供養・祈願の受付所。この奥の庭園?に入った。なかなか見晴らしがよい。

         右写真、庭園右手奥に大師とゴンの像。
     弘法大師・空海は紀州犬に案内されて高野山を発見したという伝承があるが、ゴンは紀州犬ではなく、昭和60年台に実在した紀州犬と柴犬の雑種。
     ゴンはもともと野良犬でしたが、慈尊院の鐘の音によく反応したため、「ゴン」と呼ばれて親しまれていた。
     そして、いつしか高野山町石道を歩く人々を案内するようになり、空海を案内した紀州犬の再来ではないかと言われ、慈尊院の飼い犬となったとさ。


  

   左写真、慈尊院の西の土塀に沿って町石道へ向かう。

      中写真、梅が色づき始めている。乙女の美しさだ。

         右写真、『180町』の、町石。画面中央の道を進み、丹生完省符ニウカンショウブ神社の裏口に向かう。

  

   左写真、丹生完省符ニウカンショウブ神社の拝殿。

      中写真、入口の朱塗りの鳥居。両部鳥居。

         右写真、慈尊院へ石段を降りる。(我々は『179町』から『180町』へと降りてきている。)


  

   左写真、石段途中の紫陽花。

      中写真、きれいな色に輝いている。苦労して写した甲斐があった。

         右写真、石段途中から慈尊院境内を写す。


  

   左写真、『180町』の町石が石段の途中に立っている。

      中写真、慈尊院の山門を帰りに写した。手摺りが着いている。

         右写真、慈尊院から下っていく。紀の川に架かる橋、山裾には高速道が見える。
  

   左写真、この辺りは柿畑であった。柿の実はまだ青い。

      中写真、 かつらぎ温泉「八風の湯」でランチ休憩。

       腹ごなしに、山路を無理矢理漕ぎ上がって、春林軒[青洲の里]を訪問。

         右写真の見取り図は、ココに復元されている華岡青洲の診療所。
         全身麻酔による外科手術に成功した青洲が患者の治療を行った主屋、門下生に医学を教えた門下生部屋、入院患者のための病室などがある。

【春林軒】 1804年(文化元年)青洲が麻酔を使った乳ガン手術に成功し、その名声が広く知られると、全国から患者が押し寄せ、
       青洲の華岡流外科を是非学びたいとたくさんの入門希望者がやってくるようになった。
       今のままでは充分な診療や門下生の指導を行えないと考えた青洲は思い切って新しい診療所を建設することを決め、建坪220坪というかなり大きな
       屋敷の新築工事を始めた。それがいつ頃かはハッキリと分からないが、おそらく文化年間(1804年〜1816年)の中頃か末頃であったらしい。
       なお、「春林軒」は青洲の命名。


  

   左写真、春林軒の表門。

      中写真、門の上に青柿が似合っていた。

         右写真、主屋の廊下、奥居間、居間を見通す。


   

   左写真、 華岡家発祥の地・碑。なんでも、華岡家の当主は代々「随賢」を名乗っていて、青州は三代目。現在の当主は札幌で小児科医、名前は青州とか。

      中写真、紫陽花の青が見事であった。

    春林軒[青洲の里]にある、蔓陀羅華の花をモチーフに故・黒川紀章がデザインしたフラワーヒルミュージアムに入り、青洲の記録の展示室を見学。
    レストランの店先でソフトクリームを見つけ、休憩。
    華岡青洲の妻、加恵の実家でもある大和街道沿いの旧名手宿本陣(妹背家住宅)を少し見て、紀の川を左岸(南)に渡る。

         右写真、旧名手宿本陣は、突っ支い棒で支えられていた。


   

   左写真、麻生津橋を渡った。

      中写真、左岸堤防道を下って、また、麻生津橋を見る。

         右写真、前方は井阪橋。


   

   左写真、右は紀の川。左から貴志川が流入。 貴志川の右岸を遡って、和歌山電鐵 貴志川線貴志駅に向かう。

      中写真、貴志駅の”たま駅長”は手を伸ばして、悠然と寝転んでいた。

         右写真、貴志駅でのフルメンバーの記念写真。しんどかったナァ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【本日、走った高野街道の道筋】

南海高野線は371号線(高野街道)と並行して走っている。
我々は、”紀見峠”駅の次の林間田園都市駅で下車して、まずは。南海線の線路に沿って走り、旧・高野街道に入った。
橋本川の左岸側を走り、橋本高野橋で紀ノ川左岸に渡った。
そして、高野街道を学文路カムロまで進み、真田庵に寄って、慈尊院に至る。
町石道を1町だけ歩いて、『高野街道』はそこで終了。
(その後、三谷橋で対岸に渡り、旧・大和街道を走り、貴志駅で上がった。)


【高野街道の終点は?】



1) 高野山町石道HPでは、
『高野街道は河内長野と高野山を結ぶ街道であるが、ココでは十三基の里石道標に沿った道を便宜上、
河内長野から学文路までを高野街道、学文路から不動坂口までを京・大坂道(不動坂道)として・・・』
とある。すなわち、
学文路までを「高野街道」と便宜上、称している。















2) 橋本市観光協会HPでは、橋本から高野山へ至る3本の参詣道を紹介している。
・ 高野街道 : 京・大坂道とも言われ、嘗てはこの道が高野参詣の本道であり、芭蕉や西行もココを通っている。
・ 黒河道クロコミチ : 橋本と高野山・奥の院を結ぶ最短の道である。秀吉が高野山から馬で駆け下りたという伝説がある。
・ 町石道チョウイシミチ : 弘法大師の母君を祀る慈尊院と、高野山の主要な入り口である南大門を結ぶ道。


















=============================================================================================================
   高野街道
=============================================================================================================

高野街道について少し勉強した。折角なので、調査報告書や貴重な地図を以下に引用紹介させていただく。

【参考文献1)から】

下の地図で言えば、我々は2013年6月30日、高野街道の紀見峠から橋本を経由て、(大和街道にも入ったりして)紀ノ川沿いに下り、支流・貴志川沿いを少し遡った。



大阪府内に”高野街道”と名のつく道は4つある。昔はどれも高野道や京街道と呼ばれていたが、明治になって道路整備がなされてから4つの高野街道と命名された。
  東高野街道:京都府八幡市より
  西高野街道:堺市榎元町より  両街道は河内長野でごうりゅうし高野街道となる。
  中高野街道:京街道守口より河内長野市楠町で西高野街道に合流する。
  下高野街道:大阪四天王寺より大阪狭山市池原で西高野街道に合流する。

京都や大阪東北部より、大阪東部の生駒山系西麓を通って高野山に至る”東高野街道”は最もよく利用されたようである。
明治になって、この道が東高野街道と名付けられたのであるが、西高野街道に対比しての命名らしい。
現存する道標で東高野街道と示されているものはどれも明治30年代以降で、それ以前の道標には単に高野道となっている。
なお、この東高野街道は高野道のほかに、京街道とも呼ばれ、河内地方から京への道であったからで、和歌山側でも京街道で通っていたとのこと。
また、東高野街道は高野山を経て大峯山上に至る道でもあったので、街道沿いにある道標には大峯を示すものが目立ち、「かうや 大峯道」と併記されたり、大峯のみを示すものがある。


【参考文献2)から】

余談ながら、「歴史の道調査報告書集成 1;近畿地方の歴史の道 1 大阪 1」(原本編集:大阪府教育委員会)には¥28000−と記されている。確かに、希少価値の調査報告書だと思う。


 『高野街道』とは高野詣でのため高野山へ歩いて行く道のことである。平安時代になって高野詣でが盛んになってから、京都の天皇・公家を中心に高野山へ行くことが多くなり、この風習はのち武士・庶民にまで広がった。
江戸時代、京都方面から大阪府を通って高野山へ行く方法を考えると、一つには淀川を船で下って大阪で上陸し、ここから歩いて四天王寺・住吉を通って堺に出、それから紀見峠へ向かう道がある。コレを西高野街道と呼ぶ。
四天王寺から平野を通って真っ直ぐに南に下って紀見峠へ向かう道を中高野街道という。この一つの枝道として四天王寺から真南に句だって西除川沿いに進む道を下高野街道と云う。
これに対して京都の石清水八幡宮から生駒山脈の西側山麓沿いに南下し、紀見峠へ向かう道がある。コレを東高野街道と呼ぶ。
結局、大阪府下の高野街道と云われている道は、西高野、中高野、下高野、東高野の四街道があることとなる。
経路から整理すると、西高野、中と下高野、そして東高野と大きく三つのルートがある。
・・・
 第三のルートは生駒山脈の西山麓を河内の北から南へ通して歩くものである。平安貴族が高野山へ参詣する時は、南都の諸大寺を巡って高野山へ行くか、大阪の支店王子大阪の四天王寺や住吉を拝してから高野山へ赴くことが多かったので、京都からそのまま歩いて、特に名所や大寺のないこのコースを歩くことはまずなかったのではないかと考えられる。
しかし河内の地形は、真ん中に河内湖と云われる大きな池や低湿地があるため、この山麓沿いの道は河内で唯一の南北道となっていた。そのため高野詣での起こる以前から、この道は人の通行、物資の輸送のための重要道であった。
律令時代には南海道としての役割を担い、官道として整備されたのではないかと見られている。平安貴族達に高野詣での道としてあまり利用されなかったとしても、この道の重要性が消えるものではない。むしろ河内の荘園と京都を結ぶ道として、また南北朝の動乱期には南北両勢力の軍事道路として重要であった。
陸路京都から大阪へ行くための道路としても利用された。枚方、守口を通って大阪へ行く道は豊臣秀吉がいわゆる文禄堤を築いてからと云われる。それまでは、この道を南下して途中から折れて大阪へ行く。
『河内志』(五畿内志)に、枚方を通る京道に対して、此の道を古道と云うのは、こうしたことを表している。高野街道となったのは、庶民が高野詣でをしたり、名所旧跡を訪ねたりするようなってからと考える。





















































【参考文献】
1)「高野街道を歩く 」武藤善一郎、産経新聞生活情報センター、平成4年、6月25日
2)「歴史の道調査報告書集成 1;近畿地方の歴史の道 1 大阪 1」原本編集:大阪府教育委員会、海路書院、2005/4/10)


                  チョットずつ 高野街道 no.2へ