チョットずつ奥の細道 k-2

      福島 → 白石
                                                         2014年4月21日(月)

【本日の走行軌跡】
 編集の都合上、走行軌跡を下の2枚のmapで示す。
 赤い線(福島~白石)が本日の走行軌跡であるが、2枚のmapは大部分がダブっている。ご容赦下さい。
 なお、青線は3日目の軌跡の一部。





  

   左写真、福島駅前の芭蕉と曾良の像。

      中写真、文知摺橋。前方に文知摺観音の小山が見える。
       ココで、キャラダイス・バッグのワンタッチ取り付けピンの1つが抜けかけているのに気付き、その対応処置に時間を喰ってしまった。。

          右写真、大河・阿武隈川。




安洞院ホームページ(2014/4/19)に、『文知摺観音境内も除染の工程がすべて完了いたしましたが、境内奥の公園部分の芝生の張替工事が行われている為、養生の期間中は一部立ち入ることが出来ません。観音堂、多宝塔、文知摺石、資料館などの拝観順路に影響はありませんが、虎女と源融の墓や岡山地区の慰霊碑周辺はもう少し、時間がかかると思われます。ご理解とご協力の程お願い申し上げます。』 と出ていた。

  

   左写真、「史跡・文知摺観音」の入口。

      中写真、橋を渡ると、芭蕉の像が建っている。その前に駐輪した。
       受付には人影はなく、何度も大声を出していると、作務衣姿の御坊が駆け下りてきた。境内の掃除中であった。

          右写真、まずは、芭蕉句碑を訪ねた。” 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 ”

    奥の細道に 『 等窮が宅を出て・・・沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、・・・黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
    あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、
    「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。
    さもあるべき事にや。
      ” 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 ” 』
    
     http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno10.htm に、
    『稲の苗を扱う手許の風情も古代めいて見える陸奥の田植風景。信夫もじ摺りを扱う手さばきが忍ばれることだ。』とある。


  

   左写真、文知摺石(鏡石)は柵の中に鎮座していた。

      中写真、観音堂。

          右写真、百人一首で知られている「源融・河原左大臣詠歌碑」。
           土地の娘虎女との悲恋を詠んだ「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」(『古今集』)が刻まれている。


  

   左写真、子規句碑。「涼しさの昔をかたれしのぶ摺」 明治26年7月、この地を訪れて詠んだとのこと。

      中写真、安洞院多宝塔。

          右写真、沢庵和尚歌碑。

  

   左写真、観音さんから2kmほど北上。梅林の手前に除染土壌が積まれていた。

      中写真、阿武隈川は滔々と流れていた。

          右写真、” 早苗とる手もとやむかししのぶ摺 ”の碑が橋上にもあった。


  

   左写真、阿武隈川と除染の終わった梅林。

      中写真、それでも、見事な梅の花。

          右写真、日枝神社を見て、東北本線を越える。続いて、東北自動車道も越える。




   坂を上って、医王寺に到着。


  

   左写真、まずは、芭蕉句碑を訪ねる。

                 笈も太刀も五月にかざれ帋幟カミノボリ     寛政12年(1800年)10月建立

      中写真、薬師堂への参道。

          右写真、医王寺・義経主従の像。 左から、弟・佐藤忠信、義経、兄の継信。まだ新しい。


  

   左写真、継信、忠信の墓。左側の兄の継信の墓碑は自然石を三つ重ねた形。忠信の墓は一つの自然石。

      中写真、薬師堂。  (医王=薬師如来)

          右写真、義経主従像のある広場。桜が見事であった。


  

   左写真、広場から本堂の背面を移す。

      中写真、本堂に最後に寄る。

          右写真、医王寺山門を出る。(画面右前方が本堂への門)


  

   左写真、実は医王寺には裏道から詣でた。画面真ん中の藪にBD-1を駐輪して。

      中写真、BD-1の上に咲いていた椿。

          右写真、摺上川の支流・小川を渡る。

   大鳥城跡へ上る道を探すが分からず。この時分から雨が降り出す。目の前のやまがた辛味噌ラーメン三男坊に雨宿りを兼ねて入る。11時半。
   ラーメンを食っているうちに、雨は本降りになってきた。レインスーツに身を固めて、走り出す。花水坂駅付近で福島交通飯坂線の線路を渡る。
   飯坂駅付近から124号線(湯野街道)を進みたいが、道は行き止まり状態である。マンション玄関前で喫煙中の同年配の方を見付け尋ねる。
   幸いなことに、自転車に乗る方で、親切に教えてもらう。前方の坂道を押して上がると、駅裏に出た。  124号線を東進。


  

   左写真、松原寺を見て、東進。

    仙台藩伊達氏発祥の地である桑折コオリに着く。
    桑折は東北地方の2つの街道、奥州街道と羽州街道の追分があった宿場である。羽州街道は久保田藩や庄内藩などの出羽諸藩や弘前藩が
    参勤交代で利用し、五街道である奥州街道に準じるものだったらしい。

      中写真、”この先「奥州・羽州街道追分」”の標柱を見付け、小路に入る。

          右写真、小路を抜けると、コチラ側には”羽州街道”の標柱。


  

   左写真、先ほどの標柱のすぐ近くに”追分”があった。画面の左が羽州街道で小坂宿へ至る。右が奥州街道で藤田宿へ至る。

    奥州街道は日本橋から青森県の三厩までの街道で桑折宿は54番目の宿場。
    羽州街道はココ桑折宿から分岐して、出羽国(羽州)を縦断した後、矢立峠を越えて陸奥国に入り、油川宿(青森市)で奥州街道に合流する。

      中写真、藤田駅近くの鹿島神社。 ココから1km先で、国道4号線に入り、雨中、大型トラックの横を怖々走る。

          右写真、「国史跡・阿津賀志山アツカシヤマ防塁」の大きな看板を見付けて、山側に入る。
           この付近一帯は、文冶5年(1189)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡が激戦を交えた古戦場。奥州藤原軍はココに3kmに及ぶ防塁を
           築き、近くにあった「伊達の大木戸」とともに防衛拠点としていた。決戦は頼朝軍の圧勝に終わり、奥州藤原氏は崩壊。
           鎌倉幕府の誕生へと向かう。


  

   左写真、阿津賀志山アツカシヤマ防塁の紅梅白梅が満開であった。

      中写真、防塁跡のすぐ先で国見峠の頂上になる。「防塁」と「旧奥州道中国見峠長坂」の案内標識。右は国道4号線。


頂上付近に「旧奥州道中国見峠長坂跡」の説明板があった。「・・・この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切りとおした辺りから長坂と呼ばれる急な坂道に差し掛かり、登りつめた所が国見峠である。近世におけるこの道は、仙台、盛岡、松前藩などの諸侯の参勤交代の道として使用された。・・・・」。芭蕉は本文の中で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記しているが、当時も今の様子とそれほど大きな違いはなかっただろう

          右写真、「旧奥州道中国見峠長坂跡」の説明板。
          「・・・この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。
          伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切り通した辺りから長坂と呼ばれる急な坂道に
          差し掛かり、登りつめた所が国見峠である。・・・・」
          

  

   左写真、長坂は、さらに続く。加重一杯の大型トラックは、タイヤをすり減らし舗装をすり減らして、臭う水飛沫をあげて走る。次々と来る。

      中写真、峠近くの道は、当然ながら、切り通しが多い。轟音は響く。

          右写真、轟音と別れて、ようやく貝田宿の入口。


  

   左写真、たびたびの大火で家並みの大半は焼失したらしいが、面影は残っている。

      中写真、貝田駅で暫し休憩。

          右写真、、越河宿。


  

   左写真、諏訪神社を求めて、雨中、山路を上る。引き返して、JR線路沿いに少しだけ北上。

      中写真定光寺の前を通って、線路に沿ってさらに北上。

          右写真、越河の諏訪神社。やっと探し当てた。


  

   左写真、越河・諏訪神社の芭蕉句碑。見晴らしのよいところに建っている。
     『咲きみたす桃の中より初さくら はせお』
      (「初桜」は咲いて間もない桜のこと。初花などともいう。爛漫と咲く桃の花の中に初桜を発見したよろこび。現在ではソメイヨシノは桃より早く
       咲くのでこういう情景は奇異な感じがするが、山桜や吉野桜のこの時代ではヤマモモの花の方が先に咲いたのである。 from 芭蕉DB
       なお、句碑は、北村季吟の 『梅さくら松は御前に夏の月 季吟』 も合体している。

   【北村季吟】  (寛永元年(1625年) ~ 宝永2年(1705年))。江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。
   出身は近江国野洲郡北村。祖父の宗龍、父の宗円を継いで医学を修めた。
   はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。
   和歌、歌学も学び、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄2年(1689年)には
   歌学方として500石にて子息湖春と共に幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。
   俳諧は貞門派の域を出なかったが、山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。
   末裔に、元サッカー日本代表で数学者の北村春吉がいる。


      中写真、白石市立越河小学校で休憩し、子供たちと暫し談笑。”越河”はコスゴーと読むことを教えてもらった。

          右写真、越河駅。


  

   左写真、田村神社(甲冑堂)の本殿。
    田村神社は、桓武天皇の延暦年間(800年頃)に斎川の人々が山中に潜む賊に苦しんでいるところを坂上田村麻呂が救い、
    稲作の指導も行い、この地が平和で豊かな里にした。これを里人が感謝し、神社を建立し田村麻呂を神として祭ったという。

      中写真、『ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。』の碑。
       ”おくのほそ道」の一節が印されている。
       すなわち、飯塚の里に佐藤庄司の旧跡(上述の医王寺 ; 私が本日11時頃、雨が降り出す前に訪ねたトコロ)を訪ねた件である。
      全文は以下のごとし、
      月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て尋尋行に、丸山と云に尋あたる。是庄司の旧館なり。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にや。

          右写真、甲冑堂。堂内には佐藤継信、忠信兄弟の二人の嫁が、甲冑姿で祀られているそうな。

   この田村神社の軒を借りて雨と汗で濡れた着衣を替えさせてもらった。ご年配の主が出てこられて、暫し、お話しを伺った。
   私が、甲冑堂の堂内の見学をするものと思われていたご様子だったが、誠に残念ながら、雨の山中の夕暮れが迫っていたので、失礼した。
   主は、傘を差して、犬の散歩に向かわれた。


  

   左写真、甲冑堂を出たトコロに「斎川宿」の案内板があった。
         落ち着いた旧街道筋の面影を感じながら、私は一路、白石に向かって坂道を下っていった。   16:45
         何でもココには、芭蕉の頃は、街道の両脇に350軒余りの家並みがあったらしい。

      中写真、浄土宗・功徳山当信寺の山門。白石城の東口門だったらしい。

          右写真、JR白石駅。
                          本日の宿、パシフィックホテル白石に無事、到着。



                              3日目

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