チョットずつ奥の細道 k-3

      白石 → 仙台空港
                                                         2014年4月22日(火)


【本日の走行軌跡】    下mapの黒線。









   左写真、白石城の天守が見える。

   白石城の公園内に芭蕉の「かげろふの 我肩に立 かみこかな」句碑があることを後から知った。

   以下、白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷を参照、引用。
     【白石城の沿革】 天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。
      蒲生氏家臣蒲生源左衙門郷成は、白石城を築城し城主となった。
      慶長3年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
      慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となった。
      伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。

      中写真、旧・小関家”武家屋敷”。

          右写真、簡素な切妻造の棟門。




   左写真、母屋。

      中写真、煙がいい。

          右写真、白石川。阿武隈川の支流。



   左写真、支流の支流。

      中写真、

          右写真、



   左写真、明治22年に設置された里程標。上部は折損しているが、仙台から10里の位置とのこと。
      陸前国柴田郡金ヶ瀬村と刻まれていたらしい。左は大高山への道。

      中写真、大高山神社。江戸期まで柴田郡総鎮守だったとのこと。

          右写真、旧街道が残っている。



  現国道4号線に出た。4号線バイパスと奥州街道の分岐点近くで、通りがかったオバさんが折角だから千本桜を見ていけばよいと教えてくれた。

   左写真、白石川を右岸に渡る。下流川河川敷がなにやら賑わっている。

      中写真、屋台が出ている。

          右写真、左岸へ戻る橋の上から下流側を写す。千本桜はまだまだ続いている。




   左写真、散り始めているが、見事である。

      中写真、愛車を桜に預けて写す。河原の砂が白い、上流は花崗岩か?

          右写真、JR槻木ツキノキ駅。




   左写真、畠と防風林。気持ちのいい道だ。

      中写真、田園風景が少しだけ続く。

          右写真、4号線に出て、遠景に日本製紙(株)岩沼工場。




   左写真、JR岩沼駅の手前で、竹駒神社。

   【竹駒神社概要】 伏見、笠間(常陸)と並ぶ三稲荷らしい。
      社殿は五代藩主・伊達吉村が造営した豪勢な建物であったが、近年放火で拝殿、幣殿、本殿は焼失。
      楼門、向唐門は火災から逃れ岩沼市指定有形文化財となっている。

      中写真、鳥居のすぐ脇に、細い芭蕉の句碑(二木塚)「桜より松は二木を三月越し」が建っている。写真の左側。
           右側は謙阿の明月塚というらしい。
           「二木の松」については下に詳述。

          右写真、楼門へ向かう参道の桜が見事だった。




   左写真、楼門(随身門。文化9年、三間一戸、総欅造り)。
         楼門は、2階建てで1重目には縁のみを持ち、最上重に屋根を持つ。

      中写真、向唐門(天保13年、一間一戸、総欅造り、唐破風、四脚)。奥に本殿。
            なお、”向唐門”とは屋根の棟が門の通行方向に向いている(妻入りの)唐門のことである。
            唐門カラモンは、 平安後期に見られるようになった。開口正面に向かって左右に唐破風のあるものを平唐門ヒラカラモン、
            前後にあるものを向唐門ムコウカラモンという。向唐門は四脚門であることが多い。

          右写真、向唐門の中から本殿を仰ぐ。




   左写真、武隈の松。

      中写真、武隈の二木松の根元を写す。

   以下は、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベースから引用させてもらった。
   「おくのほそ道」の「武隈の松」の一節とその口語訳が対比形式で示されていて分かりやすい。

岩沼に宿る
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。 武隈の松の見事さに、まったく目が覚めるような心地がした。
根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。 根は土際から二つに分かれていて、昔から伝えられている姿を失っていないことがわかる。
先能因法師思ひ出 真っ先に能因法師のことを思い出す。
往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや その昔、陸奥守として当地に下った人が、この松の木を伐って名取川の橋杭にされたことがあったからだろうか、
松は此たび跡もなし」とは詠たり。 能因法師は「松は、このたび来てみると跡かたもなくなっている」と詠んでいる。
代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。 代々にわたって、あるいは伐り、あるいは植え継ぎなどをしたと聞いていたのに、今また、松の木千年といわれる通りの木立ちとなっていて、立派な松の様子であった。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ 「遅桜よ、わが師が奥州に赴かれたら、是非とも武隈の松をお見せしなさい」と、挙白という者が江戸を出立の折に句を贈ってくれたので、これに応えて、
_桜より松は二木を三月越し 桜よりも、私を待っていてくれたのは二木の松で、三月越しにようやく見ることができましたよ。


    岩沼の先で国道4号線に合流した。途端に、車と排気ガスの多い街に入った。ココから仙台市である。
    踏切を渡って旧道に入り、芭蕉句碑を探すが、発見できなかった。中将実方の墓へ行くのはあきらめて、空港に向かう。

          右写真、JR東北本線・館腰駅。(写真に写っている)4号線を走っていて、気付かず通り過ぎて戻ってきた。

        空港へ向かう20号線を怖々走って、空港を通り過ぎ、海に向かった。
        ダンプが土埃をあげて走っている道に入る。ガードマンに海への道を聞くと、
        「海には近寄れない。可能性があるとすれば、先の交差点を右折」と教えてくれた。
        防潮堤の前にトラロープが張られている。中にある番小屋に声を掛けると、自転車を置いてなら入ってもOKと許可をもらう。




   左写真、防潮堤は美しく出来上がっていた。左手方向に空港がある。写真中央付近に機影が見える。

      中写真、海はきれいに片付けられていて、何もなかったように穏やかだった。

          右写真、戻って、空港へ向かう。建物の基礎部分が残っている。松もところどころに残っているが、大半は枯れている。




   左写真、松林だったのだろうか。

      中写真、残土の山富山の間に、遠く枯れ松林が見える。

          右写真、空港は新しく、気持はよかった。


                                 

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