チョットずつ奥の細道 l-4      石巻 → 鹿又

                                                        2015年6月17日(水)

 

   左図、本日の走行軌跡。
      石巻グランドホテルからJR鹿又駅まで、14kmほどである。
      その後、JR石巻線で小牛田コゴタ駅、東北線に乗換、一ノ関。
      東北新幹線やまびこ46号で仙台。鉄道アクセス線で14:01仙台空港着。
      15:20発JALで帰阪。

  私は時間の関係もあって、大分端折って、輪行なるモノを便利に使ったが、芭蕉は、北上川沿いの一関街道を歩いているので、
  北上川について少し勉強してみた。

       右図、北上川の現在の流域図。
          この流域図の特に、下流部の変遷は面白いので、以下に歴史を追って示す。 from 北上川学習交流館「あいぽーと」

 

  左図、もともと、昔の河道。

     右図、江戸時代の改修工事。
       コレは何と言っても。伊達政宗だ。

   伊達政宗による新田開発と舟運路の整備 :
       北上川の下流部は、伊達政宗の領国経営の構想に基づいて、新田開発と舟運路の整備を主たる目的として改修されます。
       まず、政宗の家臣である白石宗直は登米城主となり、城下町づくりと新田開発のため、慶長15年(1610)中田町水越地点を締切り、
       北上川を二股川の河道に導きます。
       その後、産米を石巻に集め、江戸に廻米し藩財政の基盤を確立するため、政宗は川村孫兵衛に命じて河口石巻を中心とする
       内陸水運網の整備にあたらせます。
       孫兵衛は、現在の定川筋を流れていた江合川を短台地峡を開削して迫川と合流させ(元和2年、1616)、次いで神取山地峡を開削し、
       北上川を迂回させ(寛永3年、1626)、北上川・迫川・江合川の三川合流という大工事を仕上げます。


左図は明治以降の「新旧の北上川の誕生」

河川は、鉄道の整備以前は、輸送路としての利用が優先されました。
北上川の直轄工事は明治13年に始まりますが、石巻河口から盛岡までの
区間の航路改良を主眼とした低水工事でした。(明治35年まで)

洪水防御を目的とした本格的な改修工事としては、明治44年に着手された
下流部(宮城県内)の第一期北上川改修工事が始まりです。

北上川第一期改修工事は、明治43年洪水を契機に、柳津における計画高
水流量を20万立方尺(5,570立方メートル/s)と定め、本川として新たに柳津~飯野川間に
河道を開削して17万立方尺(4,730立方メートル/s)を追波川を通じて追波湾に流下させ、
平常時の流水を旧北上川へ流下させるため、新北上川に飯野川可動堰を、
分派点に鴇波(ときなみ)、脇谷(わきや)両洗堰を設置し、洪水の一部
3万立方尺(840立方メートル/s)は旧北上川へ分流させることとしました。

この計画に基づく事業は明治44年から昭和9年までの24ヶ年継続事業として
実施され、新旧2つの北上川が誕生し、現在の河道の骨格ができ上がった。



さて、私は本日、上図の(旧北上川沿いの)鹿又まで走った。

  

   左写真、下流側を写す。橋は石巻バイパス。

      中写真、前方はJR石巻線の鉄橋。

          右写真、鉄橋を上流側から写す。

  

   左写真、対岸は真野川の入口の水門。

      中写真、堤防をウォーキング中のオヤジさんと出会った。仮設住宅のことを聞くと、
           「まーチョット、話しは長くなるからソコへ座ろう。」と言って、河川敷側に造られた観客席のような階段に誘われた。
           暫し、被災者のお話を聞いて、走り出す。左側は仮設住宅。

          右写真、間口の狭い仮設が続く。


  

   左写真、前方の道路橋は市立住吉小学校の北方向である。

      中写真、石井閘門(いしいこうもん)は、宮城県石巻市の北上川にある閘門。日本初の西洋式の本格的な閘門であった。
         また、現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、2002年5月23日に国の重要文化財に指定されている。
         名称は、建設の指揮を執った内務省土木局長の石井省一郎に由来する。wikipedia

          右写真、前方の橋(石巻北部バイパス)は、右手方向の石巻総合運動公園に向かう。

  

   左写真、道路幅員が狭くなって危ないので、下に降り、街中に入る。この先は一関街道の天王橋だろう。
    
      ココは、三陸自動車道と一関街道が並行して旧北上川を渡っているトコロであり、その取付道路も含めて、アチコチ工事中。
      迷いながら街中を適当に走る。

      中写真、高速道らしいが、車は見えない。

          右写真、鹿又カノマタ駅ホームで記念写真。
            ココでBD-1を畳む。
            小さな駅舎の中におかあさんがいて、パッキングしながら、いろいろと世間話に花が咲く。
            歯医者の帰りで、バスを待っていたのだが、話し込んでいたので、バスが来たのに気付かなかったようだ。
            タクシーで帰ると言って、駅の近くのタクシー屋さんに行った。悪いことをした。
            パッキングして動かしにくいBD-1を跨線橋を越えて向かいのホームに運んだ。


  

   左写真、この写真の田んぼの先に流れている北上川(明治の改修工事以後は、旧北上川)沿いの、一関街道を芭蕉は歩いた。

      中写真、小牛田駅で東北本線に乗り換える。

          右写真、東北本線もワンマン運転だった。 乗客は疎らだった。


  

   左写真、小牛田の次の田尻駅。

      中写真、その次の瀬峰駅。どこも、どういうわけか、女性ばかりだった。

          右写真、東北新幹線のホームから写す。NECの工場が広がっていた。


  無事、帰阪。めでたしめでたし。

                                        

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