チョットずつ奥の細道 l 実方の墓~女川
--- 塩竃、松島そして女川へ ---
旅順記号 | 日 程 | 宿泊地 | |
l-1 | 1日目 | 2015年6月14日(日) | 仙台 |
l-2 | 2日目 | 6月15日(月) | 松島 |
l-3 | 3日目 | 6月16日(火) | 石巻 |
l-4 | 4日目 | 6月17日(水) |
チョットずつ奥の細道 l-1 実方の墓 → 仙台
2015年6月14日(日)
伊丹空港発 9:35
仙台空港着 10:50
アクセス線で”杜せきのした”駅まで輪行の後、
右図の黒線のルートを辿った。
すなわち、
実方の墓に寄った後、名取駅~仙台駅を輪行。
青葉城の急坂を登って政宗の馬上姿を見て、リッチモンドホテル仙台駅前へ。
今回から、輪行を取り入れることにした。
”奥”は大阪から遠く、交通費の節約を優先することにした。
そして、何よりも鞭を打つのが無理な老体になってきたためである。
上写真、”杜せきのした”駅でBD-1を組み立てて、いざ出発。
駅の近くには食堂がない、あっても、日曜日のため皆閉まっていた。
駅の向こう側の大きな新しいスーパー行くも、ヤングや若い家族が多く、どのレストランの前も待ち行列。
食品売り場で、何とか弁当を手に入れて、走り出す。
左写真、ようやく、公園に巡り会って、ベンチで昼食休憩。
右写真、車道の坂をようやく上ると、今度はどんどん下っていく。
中将実方の墓は地図ではこの辺りである。不安になって、西(右)の畑道に入った。
丁度、田植えをしていた老夫婦に尋ねると、「この奥の杉林の中にある。」とのこと。
”藤中将実方”トウノチュウジョウサネカタは、中古三十六歌仙の一人で、歌道に秀でた美男子だったらしい。
数多くの女性と浮き名を流し、清少納言もその中の一人だったとか。源氏物語・光源氏のモデルとも。
その彼が、天皇の前の歌会で藤原行成(当代の能書家、三蹟の一人)と口論に及びそれがもとで陸奥守に
左遷させられ、ココで落馬し、事故死したらしい。
芭蕉は、この中将実方の墓を訪ねるのを今回の旅の大きな目的にしていたらしいが、五月雨の中、時間もなく、
残念ながら、歌枕の地「笠島」を探し当てることができなかった。
おくのほそ道で、芭蕉は、「笠島はいづこ五月のぬかり道」と詠んでいる。
左写真、画面中央の柵の中の小さな盛り土のが、実方の墓。
中写真、西行歌碑。
西行は1186年、この墓を尋ねて、「朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて、枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ。
実方墓の前面好立地のトコロに大きな碑に、その歌と詞書きが刻まれている。
右写真、藤原実方の墓碑。柵の前、端っこに「中将実方朝臣之墳」と刻まれた傾いた墓碑が立っていた。
左写真、、実方の歌碑「桜がり雨は降りきぬ同じくは濡るとも花のかげにかくれん」が柵の左手に建っていた。
(明治40年(1907年)11月建立)
中写真、コチラが実方墓への表参道らしい。近年整備されたようだ。
右写真、「笠島はいづこ五月のぬかり道」の芭蕉句碑も建てられている。(左の石)
(名取駅から仙台駅まで輪行。)
左は青葉城内の走行軌跡。
カメラマークは写真撮影位置。
左図一番上のカメラマークが下の写真。
もう、結構きつい。
左写真、大手門脇櫓。
中写真、ココで一休み。
右写真、急坂のカーブが続く。
左写真、本丸の高石垣。もうちょっと。
中写真、伊達政宗騎馬像。
この騎馬像は、彫刻家・小室達氏の作で、まず、政宗の300回忌にあたる1935年(昭和10年)、仙台城本丸に建立された
アジア・太平洋戦争下の金属類回収令よって1944年(昭和19年)に供出された。
戦後、1953年(昭和28年)に、平服姿の政宗のセメント立像(「伊達政宗公平和像」と呼ばれる)が建立された。
しかし、高度経済成長期になると騎馬像の復元要望が市民から上がったため、小室の地元に保存されていた石膏原型を
用いて復元されることになり、東京オリンピック開会式の前日に(第2代)「伊達政宗騎馬像」が仙台城に再建された。
右写真、・・・
2日目 松島へ
奥の細道のTopへ
”黒いバイク の ペダリング”Topへ