西行のこと memo


本名佐藤義清ノリキヨ。平安末期の歌人。 1118〜1190.2.16
没後15年(1205)に成った後鳥羽院(1180〜1239)勅撰の『新古今和歌集』では最多の94首が入集している。

藤原氏の出自で、藤原秀郷の末裔。曽祖父の代より佐藤氏と称す。高野山領と接している紀の国・田仲荘(現、紀の川市打田)に生まれる。
家系は代々衛府に仕え、西行は保延3年(1137)鳥羽院の北面の武士に選ばれている。平清盛は同い年の同僚だった。流鏑馬の達人で、蹴鞠の名手でもあったらしい。

保延6年(1140)23歳で出家し、円位を名のり、後に西行と称した。

出家後は洛外に草庵を結んで、天養元年(1144)頃、陸奥、出羽に旅し、歌枕を訪ねた。
久安5年(1149)前後に高野山に入り、以後30年ほど、高野山を拠点に諸国を遍歴する。
吉野にも赴き、熊野も訪れ、中国・四国にも旅した。
源平戦乱期の治承元年(1177)に伊勢二見浦に移った。
文治2年(1186)、重源の依頼を受け東大寺勧進のため藤原秀衡を訪ねて、2度目、40年ぶりの奥州下りを行う。
68才であった。
その途中、鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ、和歌についても語ったらしい。 (流鏑馬を伝授したらしい。)

建久元年(1190)2月16日、(奥州藤原氏が平泉に滅んだ翌年)、河内国の弘川寺で73歳の生涯を閉じた。
「 願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃 」
(釈迦の入滅が2月15日)
予てからの願い通りだったと、藤原定家や僧慈円の共感を呼んだ。
釈迦入滅の日に死することを望んでいた西行は、熱心な仏教徒で、西行の名も極楽浄土の西に由来しているらしい。



【参考】
http://wadaphoto.jp/sakura/yoshinosp2.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html
http://www.mikumano.net/uta/saigyou.html