チョットずつ熊野古道 no.17


No.17 JR三輪崎〜熊野那智大社  2011年2月7日(月) 15km

コンビニで朝飯を調達してきて済ませ、ホテルサンシャインを6:30にスタートして、42号線を南下。


左写真、JR三輪崎駅前。      6:57


海岸沿いの道を南下。


右写真、朝日が熊野灘から昇ってきた。
                     7:04

三輪崎の漁港に寄って、国道42号に入る。




左写真、佐野で朝日を写す。   7:23



右写真、国道は川を渡って海岸の崖っぷちを走っている。









左写真、佐野王子跡。


隣接して、
右写真、北条政子の宝篋印塔。(中央)
宝篋印塔】 塔の一種。方形の基礎の上に、方形の塔身をおき、上に段形になった笠石があり、相輪を立てる。笠石の四隅に隅飾りの突起があるのが特色。
本来は宝篋印陀羅尼の経文を納めたが、後には供養塔・墓碑とされた。








宇久井駅を過ぎて、集落の先で右折し、線路を渡り、旧道に入る。

左写真、山道を進む。



右写真、前方の倒木を越えるのは苦労した。







左写真、鍛冶屋口茶屋跡(猿茶屋)。



右写真、小狗子コクジ峠。     8:02









左写真、海が見える。
右手は那智湾。



右写真、白梅がきれいだった。



国道に出る。




左写真、線路の向こう側は狗子クジの浦。



右写真、旧国道のトンネル手前左手に登り口がある。落椿を拾って写真に納めた。









左写真、結構きつい登りだ。



右写真、大狗子オオクジ峠。









左写真、28段の階段を下りて、国道大狗子トンネルの出口に出る。(「よろい掛け松入口」の矢印があった。)


42号線を赤色アカイロ海岸沿いに走る。

右写真、「赤色の浜」バス停付近。








那智の漁港の辺りで、右手の旧道に入る。


左写真、昔の風情が残っている。


右写真、水仙も輝いていた。







左写真、浜の宮王子跡(熊野三所大神社)。
鳥居の左手に黄色のシートと板が見える。
クマノサンショオオミワヤシロ

右写真、境内に入ると、矢の穴がいくつも空いた的があった。シート、板、畳が矢の防護用に並べられていたようだ。
弓で矢を射る神事があったのかな?








左写真、熊野三所大神社(浜の宮王子跡)の本殿。



右写真、那智山に向かう県道。
(右手の駐車場の右に補陀洛山寺。)








左写真、振分石。
伊勢路、中辺路、大辺路の分岐点を示す。
江戸時代、庶民が伊勢神宮への参拝を済ませ、速玉大社に詣でた後、那智大社、熊野本宮大社を目指す道標になったらしい。
(from 日本風景街道・熊野


右写真、ここの水仙もきれいだった。







左写真、補陀洛山寺フダラクサンジ。



右写真、復元された補陀洛渡海船。








【補陀洛渡海】 
9世紀半ば過ぎから18世紀初頭まで、小さい船に閉じ籠もり30日分の油と食糧を携えて、南方海上にあると想像された補陀洛世界の観音浄土を目指すという補陀洛渡海の出発基地は日本にいくつかあるが、熊野那智の海岸は補陀洛渡海の最大の拠点であった。
  (from 日本風景街道・熊野



左写真、川関の集落を進む。
(昨晩、イルカの刺身を勧めてくれたお婆さんの出身地だ。)


右写真、川関の落ち着いた集落を抜けて、前方で再び県道に合流する。


井関集落の手前(牧野野)の「曼荼羅のみち」石標にしたがって右折し、山道に入る。






左写真、結構きつい山道だった。


右写真、尼将軍供養塔。
尼将軍は源頼朝の妻、北條政子で、頼朝の没後、尼となり、子、頼家、実朝の後見として政治に関わっていた。
しかし、その子等が北條氏の策により次々と暗殺に遭った苦しみから、二度の熊野三山詣でこの地に立ち寄った際、子の供養のために建立したと言われている。
 (from 日本風景街道・熊野







左写真、右手が尼将軍が建てた供養塔。


山道を下りて、集落の道(旧道)に入る。


右写真、荷坂の五地蔵。


ここから先は、下の地図が分かりやすい。







左写真、旧道には水路が巡らされていて、その合流点に古い石仏が祀られていた。



右写真、市野々王子神社。








左写真、枝垂れ梅が見事だった。
前方右手は市野々小学校。



右写真、お杉社オスギヤ。








那智川を渡り、県道を横切って、
左写真、大門坂にかかる。



右写真、白梅がちらほらと咲いていた。








関所跡の前を通り、
左写真、鳥居を潜り、朱の振ヶ瀬橋を渡る。



右写真、大門坂茶屋で自転車と荷物を預かってもらう。








左写真、道の両側に並び立つ夫婦杉は樹齢800年とのこと。幹回り8m。
いよいよ大門坂のスタート。    11:25


右写真、多富気タフケ王子。
熊野九十九王子の最後の王子である。








左写真、一町石。
この辺りまでは畑もあったようだ。


右写真、楠の大樹。
これも樹齢800年。








左写真、大門坂をゆっくり上っていった。


大門の跡を過ぎて、駐車場に出る。


ココで昼食休憩。
熊野交通の食堂でキツネうどんを食べる。




右写真、駐車場を出て、表参道を登る。    12:45









左写真、熊野那智大社の鳥居。



右写真、右手は那智山・青岸渡寺。









左写真、那智大社への石段の取り付きに多富気王子神社があった。
明治10年に大門坂の多富気王子がココに移されたらしい。


右写真、最後の石段を登る。









左写真、熊野那智大社の本殿。

お清めの護摩木を焚き上げた。



右写真、赤門の向こうは、青岸渡寺。






ココで、京都から始めた「チョットずつ熊野古道」旅 365kmが完了したことになる。



左写真、青岸渡寺にもお参りする。



右写真、立派な五輪塔。
向こうには、那智七福神を祀る大黒堂
その右(画面の右端)の石段を登っていくと、熊野古道の大雲取越え・小雲取越えを経て本宮大社に至る。







石段を少し下りて、
左写真、那智の滝を写す。


飛瀧神社まで降りて、
右写真、那智の滝の上部を写す。








左写真、帰りも大門坂を下る。   13:40



大門坂茶屋で自転車と荷物を受け取り、県道を走って下る。







右写真、JR那智駅。     14:26





左写真、海まで出て、北側の那智津浦海浜公園。


右写真、南側、串本方面。
防潮堤内側を真っ直ぐ走り、白いホテルの手前で右折し、勝浦駅に向かった。



駅前で”まぐろ弁当”を注文しておき、時間があったので、勝浦港に向かった。





左写真、勝浦港の向こう側はホテルだ。



右写真、港の南西部にはスロープがあった。
カヌーの着艇ができそうだ。







勝浦駅前で温々の”まぐろ弁当”を受け取り、ビールを調達して、BD-1を折り畳む。
(本日の自転車+徒歩のGPS移動距離は45km。)
なお、勝浦駅にはエレベータなどの贅沢品は付いてなかった。

紀伊勝浦15:54発の特急スーパーくろしお28号(京都行)に乗り、
天王寺19:34着。  

勝浦を出た特急は太地に停まり、暫く走ると、歌枕”玉の浦”が車窓に広がってきた。
昨日、往路の車窓から見た”玉の浦”の素晴らしさを思い出した。
春の海が凪いで、対岸の岬部とに挟まれた”玉の浦”は南紀の強い太陽を浴びて、眩いばかりに輝いていた。
『 春の海といふには眩し古座太地 』 という風情であった。

ここ”玉の浦”は、万葉集にも歌われている歌枕で、右写真の如く、西行もココに来て、詠んでいるらしい。
『 ぬれてほす沖の鴎の毛衣に また打かくる玉の浦なみ (山家集より) 西行法師 』

今回、「熊野古道」の旅を無事終えて、次は「奥の細道」の旅を目論んでいる。
「奥の細道」で芭蕉は多くの歌枕を訪ねている。
芭蕉は、(550年ほど昔の)西行の感動を追体験したかったと言われている。
そして、多分、西行は(100年以上昔の)能因の追体験をしたのだろう。

次の旅の予習の意味合いで、西行のこと memo を別途、まとめておくことにした。



【蛇足】

本HPでは、上皇さん達が行った熊野御幸クマノゴコウのルートを辿ってきた。
(山と渓谷社の「熊野古道を歩く」のコースに拠った。)
最近読んだ小山靖憲著「熊野古道」(岩波新書2000年)によって、その時代の熊野詣の様子を少し見てみることにする。

残されている当時の参詣記の内、最も内容が豊富なのは、藤原宗忠の日記「中右記チュウユウキ」天仁2(1109)年条らしい。
(中右記:中御門右大臣藤原宗忠の50年にわたる日記で、平安時代後期(白河・鳥羽院政期)の状況をよく伝える第一級の史料。)
この日記によると、本宮、速玉、那智の3大社のスケジュールは次の如し。
10月25日に本宮に泊まる。
10月26日に熊野川を7艘の借舟(1艘4,5人乗り)で下って、新宮泊。
10月27日に那智泊。
10月28日に新宮に戻って、宿泊。
10月29日には、熊野川を遡るも、激しい雨に見舞われ、途中の御妹ミモトで上陸、付近の下人小屋に泊まる。
11月01日に熊野川を上りきって、本宮泊。

熊野川には昔から川に沿った道が無く、終戦後、国道168号線(和歌山県新宮市を起点とし大阪府枚方市を終点とする一般国道)が通るまではプロペラ船が住民の足であったと聞く。
それで、中世の三山巡りは、上記のように本宮〜新宮間を舟で往復するのが一般的なルートだったらしい。
那智から本宮へ直行する大雲取・小雲取越えは、近世の西国巡礼ではメインルートになっているが、中世では唯一、藤原定家の後鳥羽院御幸記に見られるらしい。