東海道五十六次 枚 方 宿


京都・大阪の中間にある枚方は街道筋の町で、遠く鎌倉時代には、枚方に街道の関所があり、関銭(通行料)を取っていたらしい。
そして江戸時代には、京街道の宿場町また淀川舟運の中継港として栄え、周辺農村にとっては、物資の集散地および遊興場の役割を果たしていた。


 文禄堤・京街道

豊臣秀吉が、往時、枚方から下流(茨田郡)は泥湿地になっていた淀川左岸に「文禄堤」を築き、伏見城と大坂城を結ぶ交通路として、「京街道」を通した。
(秀吉は、大坂城と伏見城を最短で結ぶために造ったのだろう。)
その京街道を徳川家康が整備し、東海道を大坂まで延ばして、伏見、淀、枚方、守口の4宿を東海道に加えた。
東海道は、53次から57次になり、「枚方宿」は第56次であった。なお今は、京阪電車が、伏見、淀、枚方、守口をつないで走っている。
家康曰く、「53次の大津宿からは追分を南西に向かって山科盆地を通り、54次の伏見宿に向かわしめよ。大名が京都に入って朝廷と接触するのは好ましくない。」(from「京街道」4p )

江戸時代の旅人の多くは、伏見から大坂へは船で下り、京街道は主に大坂から京都へ上るのに利用されたようだ。
京街道を京都方面から下ってきて、天の川 ( 現在の表記は、天野川 )を「かささぎ橋」で越えると、枚方宿に入り、「東見附」があった。
江戸幕府は天の川に架橋を許さなかったので、紀州侯の通行のたびに木造の仮橋・かささぎ橋が架けられたが、いつもは川越人足が渡していた。 (「枚方宿の今昔」等)

下写真は、平成になって架け替えられた現・かささぎ橋。写真中央手前に写っているのは、残されている以前の橋の鋼桁と親柱。
























 枚方宿

枚方宿は、大坂夏の陣の翌年(1616年)頃に設置された。
岡新町、岡、三矢、泥町の4ヶ村で構成され、東西13町17間(1447m)、道幅2間半(4.5m)、本陣や問屋場、旅籠、茶屋が軒を並べた。枚方宿の東の端が「東見附」でその跡が天野川左岸堤防下(左写真)に示されている。

寛永12年(1635)の武家諸法度で参勤交代が制度として定まった。
全国の大名は約270家。その内、京坂間を通行する西国大名は87家。枚方宿を通行する大名は23家。(天保11年)
西国大名は西国街道(対岸の山崎道)や淀川舟運?を利用するものが多く、枚方宿で休泊する大名は少なかった。
枚方宿を通行する大名は、徳川家に縁故の大名で、親藩・譜代・大坂城御加番・長崎奉行等であった。
親藩では紀州藩が代表的で、他には、松江藩・高松藩・柳川藩・岸和田藩・中津藩・延岡藩等が常連化した大名であった。
紀州徳川家の大名行列は、和歌山〜江戸間を片道15日ほどで往来した。
初めは、松阪を経由する川俣街道を通行していたが、6代藩主・宗直の寛保元年(1741)から明治維新まで京街道を通行し、行列の2泊目は家康ゆかりの枚方宿に泊まった。
紀州公は本陣・池尻善兵衛、家老専用本陣・中島九右衛門に宿泊するよう定めていた。
天保12年の参府では、武士の数だけでも1600人を超え総勢4000人とか。京街道を通る最大規模の行列であった。
この華美絢爛な大行列を見ようと枚方・交野地方の農民は枚方宿へ見物に来たそうな。人々は「紀州祭」と呼んで楽しんでいたらしい。(from「枚方宿の今昔」56〜7p)

下左は、枚方宿を出発し江戸に向かう紀州侯の行列。手前は天の川とかささぎ橋。(河内名所図会)
下右は、江戸時代に描かれた東海道の平面絵図の部分。右端に天の川の河口部だけが辛うじて見え、その三角州が淀川に広がっているのが分かる。
(「東海道分間延絵図」の枚方) 
多分、天の川の河口三角州の治水を考えて、文禄堤は淀川の川筋から遠ざけられ、その上の京街道も川から遠くなっているのだろう。
なお、街道に橋が見える川は天の川の南の小川で今は無い。その橋のすぐ南が宗左の辻で、小さく東に出ているのが磐船街道。東海道はココで直角に曲がっている。
左右の図とも「枚方宿の今昔」より複写転載。



















下写真は、上右の「東海道分間延絵図」(この実物は、東京国立博物館に所蔵されていて、その第24巻「枚方・守口・大坂」のコピーが淀川資料館にあった。)の左右をもう少し入れて撮った。
写真の写りは悪いが、天の川がちゃんと入っている。かささぎ橋は紀州侯の往来の時期ではないので架かっていない。



















下は、今に残る枚方宿の問屋場(公用荷物の運搬担当。人足100人、馬100頭を用意し、前の宿場からの荷物を次の宿場まで運搬する。)の役人宅。















枚方宿で見つけた現役のお店と邸宅。














宿場の東の外れ、京街道と磐船街道に分かれる辻に大きな石標(文政9年建立)があり、、東に向かって「右 くらじたき 是四十三丁、左 京六リ やわた二リ」、また南に向かって「右 大坂みち」と彫られている。
くらじたき(倉治の滝、源氏の滝のこと)までが、43丁、(43x109m=)4.7km。京都までは6里、24km。石清水八幡宮までは2里、8kmだ。
「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と枚方宿の遊女がココまで客を見送ったとか。何でも、油の豪商・角野宗左の屋敷があったらしい。
なお、この石標の願主名の上には、「大阪」と彫られていて、「大坂」と「大阪」が同居している。
OSAKAは、江戸時代には「大坂」が一般的で、明治に入って混用され、まもなく「大阪」に統一された。商人は「坂」→「下り坂」を嫌ったとか。石標の願主も多分、商人だった? (「京街道」等 )


 三十石船と「くらわんか舟」


淀川の舟運が枚方宿の発展を支えた。比較的流れが緩やかで 、(しかし、赤いカヌーで一人で漕ぎ上がるにはちょっとシンドい。
枚方大橋から牧野ゴルフ場までで精一杯だっが、)豊かな水量をたたえる淀川は水上輸送に適し、人馬による陸上輸送よりも安く、最盛期には1000艘もの船が行き交い、枚方宿の船着き場は大賑わいだった。
上流部では古くから二十石(約3トン)船が運行していたが、秀吉の時代に三十石船が現れ、大消費地の京と天下の台所・大坂を結ぶ生活物資の輸送をほとんど舟運でまかなっていた。

左画は、安藤広重の「京都名所之内 淀川」で、”三十石船”とその船客相手に飲食物を商う「くらわんか舟」が描かれている。
江戸時代の淀川・枚方の力強い庶民の姿である。

江戸時代、淀川を行き来する三十石船に小舟で漕ぎ寄せ、「飯くらわんか(食べないか)、酒くらわんか」などと乱暴な言葉で、酒、餅、汁などを売りつけた煮売茶舟が「くらわんか舟」。
徳川家康から不作法御免のお墨付きをもらった商売で、もともとは、高槻市桂本が発祥であるが、枚方に移り地の利を得て大繁盛し、枚方の名物にまでなった。

以下に十返舎一九「東海道中膝栗毛」の一節 『三十石船とくらわんか舟』 を紹介する。(「京街道」81p より )
弥次さん喜多さんの二人連れが乗った三十石船は京都八幡辺りで篠つく雨に遭い堤に船を寄せた。その合間、小用に船を下りた二人は「ナントいい景色」「なるほどいい月だ」と勝景に見とれ、「一刻を千金ヅツの相場なら三十石は淀の月」 と、淀川の値打ちを口ずさんでいる。
春宵一刻値千金。一刻が千金の値打ちなら、この景色の値打ちはと、三十刻と三十石をかけて褒めているのである。
そして、枚方辺りに差し掛かった頃、物売りの小舟が漕ぎ寄せてくる。
「飯くらわんかい。酒のまんかい。サアサア皆おきくされ」「われも飯くうか。ソレくらえ。そっちゃのわろはどうじゃいやい。ひもじそうなツラしてけつかるが、銭ないかい。」と
言いながら、酒や飯、ごんぼ汁を売りに来るのが、この流域で「くらわんか舟」と呼ばれるようになった商人舟だった。
言葉遣いが乱暴なのも「くらわんか舟」の名物であったらしく、弥次さんが「イヤこいつらア言わせておきやア、途方もねえやつらだ。よこっつらア張りとばすぞ」と怒るが、乗り合わせた人に「コレコレおまい、腹立てさんすな。アリヤここの商い舟は、あないに物をぞんざいに言うのが名物じゃわいの。」と諭されている。

なお、右上の図は、浪花百勝の「淀川三十石曳船」で、江戸時代、大坂と伏見をつなぐ三十石船の上りは、途中で船頭が堤に上がって人力出船を曳く箇所があったとのこと。

下写真は、「三十石船」と「くらわんか舟」の模型。どちらも国土交通省の淀川資料館で写させてもらった。










なお、三十石船は、過書船・伏見船で米を30石積める船の総称。大坂・伏見間を上り下りし、上りは1日または1晩、下りは半日または半夜掛かった。
上りは綱引き人足(3人)によって引き上げられた。(引き綱の場所は9ヶ所。) 
三十石船の全長は15間、幅は2間余り、船頭4人、乗客定員28名で大変に窮屈、トイレ無し。伏見から大坂への途中、枚方浜に寄港することになっていたので、この停船を目掛けて「くらわんか舟」が飲食物を売りに来た。(「枚方宿の今昔」等)
「過書(過所)」は、通行手形のことで、過書を持っていると関所で関料が免除された。過書船は淀川筋では伏見船とも呼ばれた。


 船宿「鍵屋」


天正年間(16世紀末)創業の枚方宿の代表的な船宿。
淀川三十石船歌に、「ここはどこじゃと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦。鍵屋浦には碇は要らぬ、三味や太鼓で船止める。」と、その賑わい振りが唄われている。

鍵屋の位置する三矢村字堤町は淀川と京街道が最も接近しているところで、鍵屋の裏手は淀川に面していて、街道から鍵屋に入り、「通り庭」を抜けると船着き場になっていた。明治の淀川改修で京街道の堤のすぐ西側(川寄り)に新堤防が築かれたので、鍵屋から船で淀川に出ることは今はできない。

鍵屋の主屋には鍵のマークや鍵屋と書かれた「うだつ」がある。枚方宿に残る多くの町家にもうだつが見られる。


うだつ(宇建): もともと防火対策として作られた防火壁で、2階の壁面から1m近く突き出ている漆喰の壁。構造上、費用が嵩むので、より高く、より立派なうだつを上げることが当時の商人の夢であり誇りであった。





鍵屋は2001年に「市立枚方宿鍵屋資料館」としてオープン、整備されている。(左右写真)









 桜新地


宿場町に遊郭は付き物であろう。西見付の西南(外)側にある現・桜町の一角に遊郭跡の雰囲気が残っている。
もともとは枚方宿で飯盛女を抱えていた旅籠屋が風紀上好ましくないということで、明治42年にココに引っ越してきたらしい。













ぼくは、なんとなく郷愁を覚えるこの雰囲気が好きだ。でも、旧・橋本遊郭の方がもっといいナァ。


 淀川の氾濫、大洪水


寛保3(1743)年、「城州・摂州・河州三ヵ国川筋田畑水難御救御訴訟」という嘆願書が山城、摂津、河内の3ヵ国200ヵ村の庄屋、年寄連判状を添えて幕府に出された。
そこには、銀5163貫270匁(金8万6千両)と具体的な費用まであげてられていて、枚方宿の役人がこの訴願に奔走したが、この時は認められなかった。
しかし、天保期に入って、大坂の豪商の御用金によって、ようやくこの治水事業が実施され、その時に出た残土を埋め立てた山が、大阪港に残る「天保山」である。 (from「枚方宿の今昔」85p)

江戸時代にも洪水は数限りなく起こっているが、その後人口が増え低地にも人家が広がると、被害が当然大きくなる。
明治に入ると、元年、3年に大きな水害があり、18年には、三矢村・伊加賀村の堤防が決壊し、切れ口が100間にも広がって、茨田マンダ郡一円が水没し、大阪市内にまで及ぶ未曾有の大水害になった。
(右写真は決壊場所に建てられていた「洪水碑」。その場所がなかなか分かりにくく見えにくかったが、2010年に堤防上に移設された。


その後、明治22年、29年にも淀川堤防が決壊しており、明治29年から15年間におよぶ淀川大改修工事が実施された。
堤防の嵩上げ・補強が行われるとともに、上流の瀬田川には洗堰を築造して水流を調節し、また下流では河口まで16kmの新淀川を開削して、真っ直ぐな幅広の水路で大阪湾までの水はけをよくした。

その後も堤防の大規模な改修工事が続けられ、昭和43(1968)年に今の堤防が完成した。  (以上、「枚方宿の今昔」88〜89pを元に編集)


なお、淀川に関する資料、情報は国土交通省のその名も「淀川資料館」に豊富にあり、大いに参考になった。


下の写真は、デ・レーケと一緒に来たオランダ人技師が明治7年に作成した枚方付近の水制計画図。(淀川資料館で写す)
HIRAKATA(枚方)はローマ字通りだが、 AMANOGAWV(天の川)、OOTSKA M (大塚村)、KINGJA M (禁野村)の表記はオランダ式か?
ちなみに何ヶ所も淀川を横断して(写真では見えないが)、細かいピッチで小さく書き込まれている数字は水深で、単位は「尺」である。





























最後に、明治18年の枚方宿界隈(「枚方宿の今昔」13p)を複写転載させていただく。 































































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本ページをまとめるにあたり、情報をご提供いただき、いろいろとご教示下さった方々にお礼を申し上げます。

1)「宿場町枚方を考える会」事務局長の中島三佳(カズヨシ)先生:
  宿場町枚方を考える会発行の「枚方宿の今昔」から 13,33,38,56,57,85,88,89 の各頁を部分複写、引用させていただいた。

2)国土交通省・淀川資料館の松永正光マネージャーおよび資料館の皆さま:
  いろいろと親切に教えていただき、また展示資料の写真を撮らせてもらった。


3)上方史蹟散策の会編「京街道−大阪・高麗橋〜京都・伏見」;向陽書房;2002/3/6:
  4,81,87頁から引用させていただいた。