富雄川上流部・高山地区


「きさいちハイキングMAPの道」の地図に示しているように、「くろんど園地」の東側は、奈良県の北西端になる。
落ち着いた、昔のままの集落 「傍示の里」は、大阪府と奈良県に(またがって?)ある。
私の住んでいる大阪府枚方市は京都府と奈良県に隣接している。奈良も近いのだ。
というわけで、奈良・大和の国にも足を延ばすことになった。
必ず上流から下流方向に水の流れる川に沿って走るのは、方向オンチの私にとって、道に迷わないイイ方法だと思った。

そこで、2002年1月、まずは、くろんど池、高山溜池から始まる富雄川を下ってみた。
生駒市の「高山」地区である。ここも、傍示と同じく歴史のある里である。

             
くろんど園地の方(西側)から高山溜池を見る
            

高山溜池のすぐ南に近畿自然歩道(奈良県)の案内標識があった。
この案内にしたがって「高山竹林園」に向かう。
奈良県生駒市の最北部・高山地区は、昔から竹製品で有名であり、特に「茶筅」は全国一の産地とのこと。
途中、富雄川沿いの舗装道路を南に下り、また山道に入って「竹林園」の裏手に出る。
ここの敷地には、何十種類もの竹が植えられていて、また資料館では高山の茶道具を中心に各種竹製品が紹介されている。
落ち着ける場所で無料(生駒市営)なので、なおイイ。
      

茶筅の名産地(全国シェア9割)だけあって、茶室も設えてあり、下の巧竹庵は木材を使わずに竹の集成材で建てられている。
          

2004年の正月に茶室と茶室につながる庭園を見せてもらった。茶室の真ん中に一人で座っているとホント心が落ち着くナ。

          

          

毎月第1,3日曜日には茶筅師の方がお見えになって、茶筅の製作実演があるそうだ。(10:00〜11:30、13:00〜14:30)

竹林園の正門の方へ降りて左折し、富雄川に沿って下る。
道路沿いには大きな茶筅の形をした看板などもあり、竹細工の工場やお店が並んでいた。
600mほど下れば、左手に、高山八幡宮の鳥居が見える。

高山八幡宮は、749年に八幡神が宇佐から奈良に勧請された際に、頓宮(かりのみや)として祭られたのが起源といわれ、中世に豪族の鷹山氏の武神として信仰された。
本殿(三社造(三間社)、重要文化財)は室町時代の建立で元亀3年(1572)の銘がある。
この八幡宮は、高山地区の7つの宮座(6つの平座と無足人座。無足人=江戸時代、準士分の上層の農民を指した。)で運営されており、石段を登り詰めると、拝殿前の能舞台を挟んで座小屋が建っている。
2002年1月、右手前には改築されたばかりの東座の小屋が光っていたが、その他の座小屋は、相当古めかしかった。
毎年10月15日の祭の時には、能舞台で能が奉納され、座小屋に村人が集い、酒を酌み交わすそうだ。
村人の座小屋は拝殿前の左右に並んでいるが、最後に武士(無足人)が空いていた拝殿左の敷地に座小屋を建てたと、社務所のオバチャンが言っていた。

      正面に本殿、拝殿。手前右は能舞台、左手は座小屋。         拝殿
          

          改築された東座の座小屋から写す
           

地図を見ていると、高山溜池と高山竹林園の中間ぐらいの小山に「高山城跡」が記されていた。
地元の人に尋ね、民家の敷地の中を通らせてもらって、竹林を抜け、雑木が生い茂っている階段道を登っていくと、てっぺんに石垣で囲まれた区画があり、次の3枚の写真に示すように、
        
左端に小さな小さな祠があり、石碑には「九頭神」とあった。
中央に(大正時代の何かの)大典記念の石塔が建っていて、右端に古い鳥居があった。

高山城は、豪族・鷹山氏の居城であった山城で、百メートル四方の敷地に、本丸、二の丸の区画や土塁、土橋が残っているとのこと。
鷹山氏は、中世の荘園・鷹山庄(高山地区)を本拠とする豪族で、大和と河内を結ぶ交通路(かいがけの道)の峠である傍示越えの要所を押さえていた。
鷹山氏が従っていた筒井氏(洞ケ峠の筒井順慶)が、織田信長によって1585年、大和郡山から伊賀上野に領地を移されたので、鷹山氏も移動した。
その時、鷹山氏の一部の家臣は高山にとどまって帰農したが、その準士分の上層の農民(無足人)が、下記に述べるように高山茶筅の技を伝承したようだ。


【茶筅memo】
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・ 室町時代中期、高山(鷹山)城主頼栄の二男の鷹山宗砌(ソウセイ)は風雅の人で、侘茶の祖・村田珠光とも親交があった。
 茶道は珠光に始まり、利休によって大成されたといわれるが、その村田珠光が茶を粉末にして飲むこと(抹茶)を考え、撹拌する道具としての「茶筌」を工夫考案したのが宗砌だったとのこと。
・ その技を地侍たちが(無足人座を結成して)相伝で受け継いできた。
 時代を経て、高山は全国一の茶筅の産地になった。現在、高山の茶筅師は30名。
・ 茶筅の穂先は、60〜120本ぐらい(各流儀、用途による)あり、製作工程のほとんどが小刀等を用いた指先の手作業で行われる。
・ 10月から1月に伐採された3年生の真竹を熱湯の釜に入れて油抜きをした後、1月から2月の寒い時期に田んぼや庭で寒風にさらして乾燥させる。
そうすると青かった竹が白く変わる。その後、さらに一年以上、貯蔵させる。
よい茶筌には3年以上寝かせた竹が使われるらしい。

                              竹の天日干しは、高山の冬の風物詩
          
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富雄川沿いにさらに下ると、生駒市と奈良市の境界の1kmほど手前で、長弓寺の大きな鳥居が目に入った。
道を入り、門をくぐって進むと、結構広い境内で、階段の一番上に本堂があった。まず鐘楼で鐘をついてから本堂にお参りした。

     

円生院が事務所を兼ねている感じだが、たくさんの水子地蔵が祀られていて、赤い涎掛け?が印象的だ。